Vol.38 Next Gigaフォーラムを聞いて
久々の投稿となります。
とりあえず業務が年度末から年始にかけて忙しい
さらには私生活も変化があり、なかなかに慌ただしい
でも、学びを今更止められない暴走列車の私です
3月31日ギリギリに視聴しましたNext GIGA フォーラムに心動かされた事が多かったので記事にしました。
放送大学教授 中川先生と 上智大学 奈須先生の対談から
このお二人の対談がものすごく響きました。
なぜ響くかというとICTと授業改善の方向性がスパッと見えてきたからです。
学校が掲げているからといってそれが本当に学習者主体になっているかは疑問
今の個別最適化は孤立最適化になっていないか
ただみんなでやってみようと投げやりになっていないか
これからつけていく力に
どんな見通しを持つのか
という力をつけていく必要があるのに、どこまでスタートからゴールまでの道筋の決まっている「型のあるワークシート」使うのか、いつそこから脱するのか?
先に教師が構造を見せてしまっている。
話を聞くときは、「手は膝、目はこっち」というのから脱するのはいつなのか?
本時のまとめはいつ書くか?なんていうのを選べる学習になっているのか。
子供主体もどきになっていないか
歪な忖度が起きていないのかを考えてみる。
何分必要と子供に聞きながら、「長すぎる」「短すぎない」と言って授業者の思った通りの時間数に揃えることはしていないか
聴いているのに、先生がもう腹の中で決めている
ならば最初から言えよ!忖度させる教育をしないこと
何分かなんて聞かず、任せる
時間を決めたほうが安心だけど、その安心はなんのため?
もっともっと不親切になっていく必要がある
なんで不親切になれないのか
なんで不親切になれないのかは、「相手を信じていない」
その信じないも「自分の範疇にならない」であろうということを信じていない
自分の求めるところまで来てよって思っている
この枠に入れようとしているうちは誰も幸せにならに
授業研究の発表の多くは単元ではなく、1単位時間で考えている
1時間ごとで「まとめ」は必要あるのか?
1回の授業ごとに「目標」と「まとめ」を設定しようとして、全体をコントロールする力が働き、その道筋の通りに終わらせるだけ隣、学習の意味がなくなる。
学びを自分で鎮めていく訓練が必要
学んだことにしちゃおうというのが今の教師の姿勢ではないか
もっとぶっ飛ばないといけない
学習へのプロセスを変えていく
不登校の子が増加しているが、その子達は
学校でやりたいことがない
幼児教育が素晴らしいと言われるのは
幼稚園はやりたい事ができるから
幼稚園は基本的に子供は主体的に動くものだと考えて見守っている
子供達が自分たちの好きなことを行えるように様々なものを用意している
不用意に声をかけることはなく、困っているときに初めて声をかけている
教える教育から環境を整える教育へ
教える教育から環境を整える教育へ
このICTが進められている今は、一斉や一律を見直す良い機会である
個別最適なメモ力を極める
どんなメモか しっかり考えているか適当なのか蓄積して、振り替えられるように積み上げていく
内省と省察を繰り返し、自分自身について何度も見つめ直す
個別最適化を行う上で、
表面をなぞる学びにならないかだけは考えなければならない
そこには仕掛けをしっかりと用意しておく必要がある
そのためのメモの力をつけていく(内省をまとめておく)
そして、その時代にあった情報の適切に扱いに対応できる力をつけていく事が大切である
その上で・・・
その単元を行うことのできるコーナー(環境)を作る
単元の中のテーブル(課題)を散りばめて学習環境の中に解き放つ
先ほども言った通り幼児教育は
幼児が有能な学び手だ
という立場に立っている
みてどうしようもない時に初めて手を貸す
単元レベルの旅行マップを手渡してあげる
環境による教育を圧倒的に定義する
今まではアナログでこれだけの大規模なものは作成できない
しかし、今はその知識へのアクセスを行うことができる
子供が自由に知識を探しに行ける船がICT
宝の地図を渡したり、漕ぎ方を教えたりするのが教師の働き
今の学びは教室ではなく世界と繋がっている
あとがき
ICTって所詮手段だよね
こんな声があります
確かに手段です。
しかし、今まで行けなかった広さと深さまで進めるものを手段と割り切って良いでしょうか。
確実に学びは変わります。
ただ映す、ただ撮る、ただ見せ合う
ここから次へと行きましょう。
ICTは手段です。
ただし、学びの海へと進む手段です。
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