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近年の不登校や発達障害の問題にみる、次なるステージへの課題


・認知の拡大と先にある課題

発達障害、不登校の問題は、急速に認知拡大が進んできています。

生きづらさを抱える当事者親子にとっても、非常に良い方向だと言えます。

また、理解が難しいと考えられてきた不登校や発達障害の子たちを、より良い形で社会や学校が受容していくためにも、広い認知は必須であろうと思われます。


一方、認知が進んだ先には、次なる課題も見えてくることになります。


ここで述べるのは、次のステージでやってくる課題はどんなことだろう?ということです。


・正義の剣を振るうこと

認知が広がる次の局面で、考えていかなければならないのは、
「当事者=弱者=正義」に関する問題です。

認知とともに、当事者への理解は高まります。

これまででは実現しえなかった制度や取り組みが生まれていくでしょう。

正義のつるぎが振り下ろされる。

ところが、問題解決のプロセスの中で、当事者が一方的な正義のみを振りかざすとき、それらは、周囲にいる他者へ、凶器となって襲いかかってしまいます。


・個別対応による過度な期待

ポイントは個別対応です。

たとえば発達障害の子の抱える問題のひとつは、集団への適用です。社会情動的スキルが身につきにくいために、集団生活に適応しにくいことが多くあります。

集団に対して対応が難しいのですから、当然、現場では、当事者への個別対応が叫ばれることになります。支援する側や制度を作る側は、個々への適切な対応、処置、具体的解決法がもたらされるよう動くこととなります。

ここで当事者が気をつけなければならないのは、「個々で対応してくれるのは当たり前」とばかりに、自分以外の周囲が皆「風景」のごとくに変わってしまうことです。


・正義を振りかざすことによる歪み

自分の主張が正しい、個々対応をしてもらわないと困る。

確かにこれは正義です。

しかし、正義であるがゆえに、ひとりよがりの歪みを生じやすいとも言えます。

「やってもらわなければ困る」が、いつの日か「やってもらって当たり前」へと変わる。

自分の望む対応をしてもらえなければ、正義の剣をふるい、支援してくれているはずの他者へ攻撃を始めてしまう。

だから、正義のつるぎは、そうした危険を常に孕んでいるのだという自覚が必要なのです。

その時、自分以外の周囲は、風景のごとく存在へと変わります。風景なのだから、そこにあるかもしれない痛みや苦しみも理解されません。

このようにして、自分が正義、やってもらって当たり前、の感情が、周囲で支えてくれている他者を攻撃へと向かわせてしまう。
他者は風景であるから、そのことには無自覚でしかない。

そういうことが起こりうるのです。


・多様性を受容するということ

考えてみてください。

発達障害や不登校を包摂しうる社会の鍵は「共生」であり「多様性を受容する」ということです。
それは、いわゆる健常者の側に問われると同時に、ハンデを背負う当事者の側にも言えることでもあります。

どのような立場であれ、多様であることを受容し、共生していける社会が目指されているのです。

逆にいえば、当事者も支援する側も、弱者も強者も、互いに理解し受容しあう先にしか、共生の未来はないとも言えるでしょう。当事者同士であっても同じです。互いを受容し、多様であることを潰してはならないのです。

しかし、正義のつるぎがその正当性ゆえに、他者を排除し、共生の芽を摘んでしまう。社会から多様性を奪ってしまう。


発達障害や不登校の認知の高まりを受け、次のステージを迎えるにあたり、当事者の側の課題が徐々に見え始めてきています。

今、我々の社会に問われている問いは、とても大きな問いかけであると言えるでしょうでしょう。


(おわり)














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本田篤嗣(Master Honda)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。