オンライン授業/教育と学校の行方その2/すでにあるアーカイブで済むものをわざわざ作らないために
オンライン授業を見据えた、教育と学校の行方その二。
オンライン。
大人のミーティング程度なら、ボタンを何回か押せばできるイージーさだから、四の五のいわず、まずはやってみること。
それと比べると、やはり授業については、コンテンツをどうするかから、見せ方をどうするかまで、工夫の余地が大きい。もともと授業に完成系はないわけだから、余計に考えるところが大きい。
個別最適化がひとつの教育のテーマであるのに、大人数をつないで、一斉授業をしてしまっては、アーカイブ授業で済むはずのものなのであるからライブである意味はない。
そもそもコミニケーションがとれない、そもそも普段コミニケーションをとってない、そんな先生がやるのだから、やはり形がこうなってしまうのだ。
オンラインでの授業を、リアルで意味のあるものにするにはどうすれば良いのだろうか。
30人程度のクラス単位を、まずは1桁台のチームに分ける。これについては普段のリアル授業において言及しているところだ。
出来るだけ少ない人数でのチーム編成にできれば、オンライン上で、会話しつつ、今回のような会えない子どもたちの状況確認が可能となる。
想像すればわかるが、30人以上つながっているその前で、私的な話ができる子は限られている。
無駄を省くと実は授業時間はコンパクトにできる。
現状では、ルールとして決まっているから、という理由で、50分前後の授業(小中)が普段行われているに過ぎない。
無駄が多い授業はすでに子どもたちにはバレていて、それゆえ、授業を聞かない、他のことをする、なんてことが日常的に起こっている。(僕の場合、これらの事実は、限りなく一次情報に近いものとして、直接、子ども達が教えてくれるものだ)
なおこのことは、成績が良い子や真面目な子は違う、などということはなく、現代ではどの層の子にもあり得る振る舞いだ。
現状分析能力は低く、本音を聞けない学校現場の性質上、このことは気づかれていない。研究的にモノを見る習慣は、一般的な現場には皆無だ。
アーカイブで済む動画制作は意味がないし、
そもそも一斉講義型スタイル自体がすでに現代の子たちには合わない。
この状況下で、はっきりわかることになるのだから喜ばしいことはあるのあが・・・。
今、リアル黒板の前に立ち、板書しながら一斉講義型を、オンラインでされている先生がいたら、それ以外の方法を考えてみることをお勧めしたい。
かつての思考から離れ、未来が必要とする側から発想する。その思考の仕方にこそ、未来があるのだ。
時間は限られている。
無駄な時間と労力をかけることなく、
優先度の高い領域に注力する必要がある。
リアルがこれほどに欠けてしまう状況なのだから、パーフェクトを目指すことは、そもそも不可能だ。先生も生徒も親御さんも、まずはそこに許容、良い意味での諦めを持って臨むべし。
その上で、最善を尽くす。
最善というのは、精神論や感情論ではない。メンタルのコントロールやケアは大事だが、根性論を持ち出しても解決はしない。
いつのときも時間は限られたものだ。
同様に労力も。
しなくてもよいことは、感情論に流されることなく、しなくてよい。
先生の場合、「生徒のために」というお決まりの文言が毎度登場し、そのセリフが思考を感情論の側へと向かわせてしまう。
必要がないことだ。
なぜか?
そもそも大きなゴールは「生徒のために」ですでにセットされているのである。だから、何かやるたびにそこを強調しなくてはならないのは、目の前の事柄に対する策がないことの表明でしかない。
“生徒のために”はわかりきったことなのである。
ならば、個々の事案に対しては、無駄を省き、より効果的で合理的な具体案を出すことに集中すればよい。
生徒のために我々は無駄を省く、生徒のためには我々は古い慣習を疑う、であるべきだ。
先生の職につく方の長所は、時に諸刃の剣となって自分たちを苦しめる。
リアルが制限され、予断を許さない状況で、自らの首を絞めている余力は誰にもないはずだ。
これは本当に必要か?
他にやり方はないか?
時間を無駄にしてはいないか?
これは本当に効果的か?効率的か?
かつてのやり方に、かつての価値観に、こだわりすぎていないか?
それらを問い続けながら、
かかる問題の対処に取り組んでいきたいものだ。
(おわり)
NPOまなびデザインラボ
https://www.manabidesignlab.org/