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谷川嘉浩『スマホ時代の哲学』

※2月10日分

谷川嘉浩
という人の『スマホ時代の哲学』という本を買って読んでみたのでそれについて書いてみたいと思う。この著者についてはまったく存じ上げないがタイトルに「スマホ」と入っていたのでついつい手に取ってしまった。

内容としては哲学に関する記述が多く、わかるようでよくわからないところが多かった。スマホと我々の関係を哲学者の考えと絡めながら描かれているのだが、どうも抽象的でよくわからなかった。これについてはまぁ私の理解力不足でしかない。今まで色々な哲学の本を読んでみたが、どうやら自分には哲学は合わないようだ。哲学に関する文章を読んでいると、ただ単に文字だけを追ってしまう感じになる。死んでも哲学を体得できる自信が無い。

それはさておき、哲学に関する部分以外でも印象に残る点はあったので、そこを抜き出して書いてみたい。

 日々の高いストレスに対処する上で、ペン回しや髪いじり、プチプチつぶしのような単純なリズムの繰り返しは意外に心地いいもので、心のバランスをとるのに役立つところがあります。トーマス・オグデンという精神分析家は、肌への感覚刺激に基礎を置いた仕方で自分の体験を位置づけていく心のあり方や状態のことを「自閉接触ポジション」と呼んでいます。自分に単純な感覚やリズムをボーッと入力しているイメージで理解すると良いと思います。
 先に挙げた例はもちろん、貧乏ゆすり、ニキビつぶし、そしてソシャゲをする際の単調なスマホ操作なども、「自閉接触ポジション」のときに用いがちな感覚刺激の一例です。TikTokで一定の長さの似たリズムの音楽や映像に触れるのも、YouTubeでレコメンドされるがままに様々な動画をスキップしながら視聴するのも、LINEスタンプを送り合ったり、仲間内で共有された言葉遣いでじゃれあったりするのも同じことです。
 私たちは、一定のリズムで繰り返されるインスタントで、わかりやすい感覚やコミュニケーションで自分を取り巻きたがっており、現代の消費環境はそのニーズを支援してくれているわけです。(P44)

多くの人がスマホを使用する理由として「自閉接触ポジション」という点から論じられている。私はスマホに依存するような長時間の使用はそれ自体が楽しいから、コンテンツやアプリに魅力を見出しているからとばかり考えていたが、そうとは言い切れないようだ。

自閉接触ポジションから考えると、スマホを通じた単純な作業や何も考えない視聴や閲覧(ゲームや単調なチャット、YouTube、Instagramなど)は、それ自体に心地よさがあるということだ。そこでは単調さや一定のリズムといった条件が重要となり、それらを満たすサービスこそが人気を獲得する。

私は毎日満員電車に乗って通勤するが、その時隣の人のスマホが嫌でも目に入る時がある。その時、次々とメッセージを見たり、アプリを開いては閉じてを繰り返す人がよくいる。私はずっと暇を潰すために何かを探していると思っていいたがそれだけではない。自閉接触ポジションから考えるとそういう単調な刺激や反応が却って落ち着きを与えているという事なのかもしれない。

 ただしここで照準を合わせたいのは、「自閉接触ポジション」的なものが前景化する背景ではなく、明確で一定のリズムを刻むような刺激からほど遠いものが置き去りにされてしまう事
実です。言い換えると、満足に至るまで時間がかかるもの、必ずメリットが得られるとも限らないもの、満足を得るにはいろいろと学ぶ必要があるもの、精神的・時間的にコストがかかるものが見向きもされなくなり、前提知識がなくても誰でも乗っかれて「いいね」「すげー!」「かっけー!」と言えるような、直感的に共感されやすいものが話題にされ、社会の前景を占めていくということです。(P45)

これについては人気のあるSNSサービスを見ればよくわかる。例えば昔はブログや掲示板、mixiなど、文章を投稿するようなサービスが主流であった。確かに、昔であれば写真や動画をアップロードする環境やシステムが整っていなかったということもあろうが、日記や比較的長めの文章を投稿するものが多かったように感じる。

しかし、それが例えば、Twitterのような短い文章をやりとりする形になって、そこからInstagramやTikTokといった写真や動画のサービスに移り変わっていったように感じる。確かに、文章よりも写真や動画を観る方がインパクトがあってそのモノを認識するのには有利だ。

だが、それは言い換えれば、より早く、よりわかりやすくというインスタントな態度が強くあるということにもなる。長々とした文章ではなく、パッと見て面白いかどうか、興味を惹くモノかどうかを判断したいという姿勢がそこにはある。最近ではYouTubeでもショート動画は多く見られるようになった。より早く、手軽に視聴したいというニーズがハッキリと見て取れる。

 つまり、複数のタスク(マルチタスク)と並行して、対面でのやりとりや行動を処理することに現代人は慣れてしまったのです。あるいは、対面・現実の活動も、「マルチタスキング」の一つとして組み込まれてしまうと言うべきでしょうか。並行処理すべきタスクの一つとして、現実の会話を捉える瞬間がここにはあります。
 物理的にある場所にいても、実際には別のところにいることは珍しくありません。信号待ちをしたり、スーパーのレジを待ったり、会議に出席していたりするとき、興味を惹くものがなくて退屈するなら、私たちはスマホを焦ったように取り出して、音楽を聴き、SNSを開き、誰かにテキストを送り、動画や記事をシェアしています。(P112)


友達も誰も、注文した食事が運ばれてくるのを待つ間や何かを食べている最中に、一生懸命にスマホを見ている。それはスマホがマルチタスキングを助けるアイテムだからであり、マルチタスクキングが求められるくらい社会や同調圧力がスピードを求めてくるからだ。

そういった現状の中では対面でのやり取りや会話ですらマルチタスキングの一つとして処理されれてしまう。(LINEを返しながら隣の人の質問に生返事をするなど)リアルのコミュニケーションだからと言う理由で最優先される世の中ではもはやないということだ。

 スマホという新しいメディアは、〈寂しさ〉からくる「つながりたい」「退屈を埋めたい」などというニーズにうまく応答してくれます。スマホは、いつでもどこでも使えるだけでなく、スマホを含む様々な情報技術が、私たちのタスクを複数化し、並行処理を可能にしています。コミュニケーションも娯楽もその他の刺激も流し込み、自己対話を止めて感覚刺激の渦に巻き込んでくれるマルチタスキングは、つながりへの欲望も、退屈や不安も覆い隠してくれます。
 しかし、〈寂しさ〉からくるマルチタスキングは、いろいろな刺激の断片を矢継ぎ早に与えるものなので、一つ一つのタスクへの没頭がありません。そうすると、ふとした瞬間に立ち止まったとき、「あれは何だったんだ」と虚しくなったり、つながりの薄さ(つながっていても一人ぼっち)を実感したりすることになります。
 常時接続が可能になったスマホ時代において、〈孤立〉は廃食し、それゆえに〈孤独〉も奪われる一方で、〈寂しさ〉が加速してしまうにもかかわらず、わたしたちはそうした存在の危うさに気づいていないように思えます。これまで論じてきた問題点に、スマホというメディアの特性を重ねると〈寂しさ〉という問題が前景化してくるということです。(P124)


我々の多くは常時接続やマルチタスクキングといった環境から「孤独」を味わう時間を失った。1人で何かを考えるのではなく、自分を見つめ直すのではなく、安易にスマホを通じて答えや返事を求めてしまっている。

また、インターネットやSNSの力を使えば「寂しさ」が埋められると考えるのは早計である。それは単にマルチタスキングを通して一時のごまかしを行なっているだけなのだ。スマホを通じたコミュニケーションは根本的な解決にはなり得ない。


本著を読んで思ったのは、スマホをばかり触ってしまうには心理的な理由もが考えられるという可能性と、スマホが孤独や寂しさのあり方を変えてしまったという点だ。スマホがいけない、スマホ依存とは言うものの、では実際に何がどうダメでどういうデメリットがあるのかを説明できる人は多くはないだろう。

本著はそういった曖昧な部分を炙り出して示してくれる。引用にはほとんど載せていなが、哲学に関する記述がかなり多く、哲学が好きな人は特にオススメだ。

頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)