ほとけさまのおしえ「noteと古典」
noteに記事を投稿する人のことを「noter(ノーター)」と言うそうです。
そういう言い方だとかっこよく感じますが、私自身は日々の感じたことを「徒然なるまま」上げているだけです。
そして「評価」も気にせず、「フォロワー数」も気に留めません。
そういうと嘘になるので、本当は「フォロワーが増えていれば嬉しいけど、それに囚われないようにしている」といったほうがいいでしょうか?
それにnoteに投稿することは、実は「それ以外の楽しみ」もあるのです。
まずは自分の考えていること、思っていること、興味のあったこと、したことを「残せる」ということです。
そして後で読み返してみて、心を改めることができるところです。
そして、時々いただく「コメント」にお答えする中で、より深く考えたり感じたりすることができるのも魅力です。
そして書き記したものは、「いつまでも残る」ということも魅力です。
その場で消えていくようなものではなく、時には何年も何十年も何百年も残り続けていくこともあるでしょう。
お釈迦様も自分の「説法」がお経に編さんされ、二千六百年も語り継がれるとは思いもしなかったでしょうし、「親鸞聖人」の教行信証もこれほどまで受け継がれることを想像して記されたとは想像しにくいでしょう。
方丈記や源氏物語、枕草子なども「その昔の小さな出来事」が千年以上受け継がれているのです。
ノーターさんの記事の中には、今から千年後、著名な古典として残されているやもしれぬと思うと、とてもワクワクしてくるのです。
仏教には「業(ごう)」の教えがあります。
これは自分の行いは決して消えずに「残り続ける」という教えです。
そしてすぐに結果として現れるものもあれば、ずっと後の世になって評価されることもあります。
今は評価されなくても、自分の想いに従って発信し続ける。
行動し続けることは実はとても「大きな力」なのかも知れません。
☆今日の一句☆
コテコテの
古典も元は
ブランニュー