対話全ての人には対話する権利がある 対話とは、文字通りに解釈すると、二人の人が向かい合って、対になって話すことである。辞書的な定義も様々で、文脈によって意味合いが異なるが、一般的に言えば、表面的な会話よりも、深く、互いに心をさらけ出して、本心で話し合うように捉えられる。さらに、「対話会」やオープンダイアローグのように、一対一に限らず、複数人で話し合う場合に使われても、意味は通じるであろう。 岩波新書「対話する社会へ」の著者である暉峻淑子は、対話は人権の一部であるとする。
まともな人が差別発言に怒る理由を説明する。 怒りの発生の機序まともな人、やさしい人、弱者を助けようとする人、人権を尊重しようとする人にとって、差別発言は腹立たしい。そもそも差別発言は全て間接的な人権侵害なので、発言として妥当ではなく、人の目に触れてはいけない存在、社会に可視化されてはならない存在である。目にも耳にも入らない、存在自体が認識できない差別発言に対して腹を立てることは不可能である。 ヘイトスピーチや差別発言は、現在の社会制度では防げず、周囲が善意でいくら批判や啓
真っ当な対話の場を構築する方法を考察する。 対話主義とは対話は全ての人の権利であると同時に責任であることを「人権と対話と人格」で説明した。対話が民主主義の土台となること、平和な世界の構築に不可欠であることを認めない人はいないはずである。人権を尊重し、さらに対話の価値を尊重す態度を「対話主義」と呼ぶことにする。そして対話主義を自認する人を「対話主義者」と呼ぶ。 反対話主義とは一方現実には、対話を破壊して放棄する、さらには対話そのものを否認する、反社会的な個人が存在し、かつ集
タバコのポイ捨てを注意すると、謝って拾う人もいれば、だまってしぶしぶ拾う人、拾った後悪態をつく人、反応は様々だが、酷い場合には完全に開き直ってしらばっくれる。そこで口から出る言葉は滑稽なほど類似している。自己中心的で無責任で反社会的な精神性で生きてきた結果、同じような話法を身につけてしまったわけであるが、反社会的な話法を考える上で、単純化された例として参考になると思うので、引用して説明する。 ごめん開き直って謝らない場合もあるが、謝る場合もある。一度謝れば全て水に流されると
人権の概念を発展的に考察していくにあたり、人権の機能を大まかに縦と横に捉える見方を説明する。(ただしこれは、一般には理解されない表現と思われるので、あくまで参考として使われたい。) 法務省による人権の定義「人権」の意味は文脈によるが、法務省の「人権尊重の理念に関する国民相互の理解を深めるための教育及び啓発に関する施策の総合的な推進に関する基本的事項について(答申)」というページでは以下のように定義されている。 人権には縦と横の側面があると言える人権の概念の歴史は、広く説明
思考実験として、人格を社会制度に組み込むための人権制限について考察する。 人権制限は人の権利の制限である「人権制限」と聞くと恐ろしく聞こえるかもしれないが、ここで書くのは、性犯罪者や凶悪犯罪者など、反復的に反社会的行為をする者(反社会的人格)を野放しにしない、普遍的で社会的仕組みの考察である。反社会的な人格が、反社会的な行為をするので、行為を防ぐのではなく、人格そのものの制御するために(広い意味での)人権を制限する。人権の定義に基づく「人格」の定義については、「人権と対話と
抗議行動を嘲笑する人々が存在する理由を説明する。 反利他主義的は利他主義的行為を嘲笑する結論から言えば、抗議行動を憎悪し嘲笑するのは、利害が相反する反利他主義的な人々である。この構造は単純で自明であるから、この文章で定義された概念に従わずとも、どのような形でも、社会に広く理解されることを望む。 抗議行動は利他主義的行為である例えば、大きな公共事業が計画され、工事が始められ、進められようとしている。反対する地域の住民が、場合によっては、法律や秩序を破ってまでも、抗議し、妨害
対象:まともな人 目的:「反社会的」という言葉の意味を説明する。社会に存在する反社会的な物事に対する理解を深める助けをする。反社会的なものを「反社会的である」と形容することに躊躇わないようになる助けをする。 「反社会的」は単独では使われていないことが多い 「反社会的」という言葉は、(2023年現在の)日本では広く使われていない。一般に使われる場合は、「反社会的勢力」「反社会的組織」「反社会的行為」のいずれかで、「〇〇は反社会的である」という表現自体は理解可能であっても、厳
反社会的な人々の言動の観察から、「反利他主義」という性質を発見したので簡単にまとめる。 利己主義が反利他主義に帰結する「利他主義」とは、自身より他者の利益を優先する考え方である。人間は誰しも完全ではないので、一時的には利己的に考えたり振る舞ったりすることがある。社会ここでいう利他主義は、そういった一時的な言動ではなく、継続的に長期的に利他的な物事に関心をもって考えたり行動したりする性質、そして思想の方向性を意味する。社会においては、弱者を助けたり自然を守ったり、社会の脆弱な
温暖化懐疑論者とは、温暖化や気候変動から目を逸らそうとする論者である。(日本における)歴史修正主義者とは、日本の歴史のうち、都合の悪い部分から目を逸らすために、悪意を持って修正しようとする論者である。一番分かりやすいのは、南京大虐殺否定論で、「本当は大虐殺はなかった(ので中国に謝る必要はない)」という、いわゆる日本の「保守」の幼稚な願望にもとづく主張である。 なぜこのようなことが起こるかは、論じるまでもないが、例えば自動車産業や石油産業であれば、自身の正当化のため、CO2が
利他と利他主義と反利他と反利他主義について説明を試みる。 反利他主義は反利他的な精神性である弱者をいじめたり自然を壊したりするのは簡単だが、弱者を助けたり自然を守ったりするのは困難である。ポイ捨てとゴミ拾い、デマの拡散と訂正など、現実的な具体的な例を挙げるまでもなく、これら対立は非対称である。 社会を広く劣化させる性質が「反社会的」であるのに対し、利他的な行為を妨害しようとする性質を「反利他的」と呼ぶことにする。そして、反利他的な精神性に侵された考え方を「反利他主義」と定
「反社会的」という言葉は、日本では広く使われない。一般に使われる場合は、「反社会的勢力」「反社会的組織」「反社会的行為」のいずれかで、「〇〇は反社会的である」という表現自体は理解可能であっても、厳密な意味は、定まっていないと言えるだろう。 一方、日本には、「反社」という俗語がある。「反社」とは、「反社会的勢力」の略で、歴史的には、まず「暴力団対策法(暴対法)」によって定義され、その後意味が拡張されて、反社会的な方法で経済活動を行う集団を広く「反社」とみなすようになった。
差別発言など反社会的な言論は人権侵害であって許されないことを説明する。 「他者の人権」は「表現の自由」より優先する言論の自由(表現の自由)は、日本国憲法の第21条によって、基本的には保障されている。ただし、誰が何を言ってもよいということには、当然ならない。他者の人権を尊重する限りにおいて、自由が保障される、と考えるのが自然である。言い換えると、「他者の人権」(憲法上の表現では「公共の福祉」)は、「表現の自由」より優先する。 「表現の自由」に限らず、「信教の自由」も同様で、
Twitter上で「吊し上げ」という言葉を見かける。反社会的な主張をする勢力のうち、特定の誰か一人が批判されたり、あるいは訴えられたりする状況を指しているようだ。 SNS上に限らず、反社会的な勢力は、多人数で一斉に主張する。責任の所在を分散し、個々への反論を困難にしながら、主張を広く伝えることができる。こういった言論態度自体が反社会的行為といえるが、残念ながら、現在はまだ反社会的人格への(発言権を含む)人権制限は実現していない。 対抗する手段としては、対象を絞って、対話放
悪の分類で書いたように、「反社会的行為」は「人格」の問題の結果で、反復性があり、処罰だけで問題が解決する見込みは少ない。さらに言うと、悪意を持って、計画的に悪事(=反社会的行為)をする人は、法的な処罰をリスクに含めて行動することも想像できる。こういった反社会的な人格にとって、謝罪というのは瞬間的で、形式的で、謝罪をすることで証明できることはない。 例えば、タバコのポイ捨てを見かけて注意したとする。その人が「ごめん」とだけ言って、自分が捨てた吸い殻を拾いもせず、立ち去ったとす
「悪を分類する」などと言うと、様々な先人達が議論し尽くしたはずで、自分のような無知な人間が語るのはおこがましいが、敢えて、何も知らないなりに、自分の考えを書く。 悪を性質によって分類する繰り返し説明するように、自分の関心事は反社会的行為であり、これを悪の一種として、明確に分類することが目標である。結論としては、反社会的行為は、「個人的ではなく社会的」であり、「過失ではなく故意」であり、「一時的ではなく反復的」である。 個人的(私的)か社会的(公的)か 過失か故意か 一