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怒りがコントロールできない人

怒りは「最強の味方」と思っている人もいるだろうが、「最強の敵」ともなるのが怒りだ。怒りの感情は、自分を鼓舞するが、自分を攻撃もする。

怒りはとても扱いにくくて厄介なものだ。怒りが大きくなれば非常に危険な状況になるだろう。人生において怒りほど人を翻弄するものはないように思う。

怒りがコントロールできない人は、怒りにコントロールされることになる。

■怒りがコントロールできない

怒りとは人間や動物が持つ感情だ。怒りは音速でやってくる。その音速に追従することは極めて困難なことだ。

わたしも若い頃は気が短く、怒りを抑えることが難しかったように思う。

怒りを対処療法で抑えることは難しいと思う。

近年よく話題にもなる「アンガーマネージメント」なるものがある。

そこで言われているのが、怒りを6秒間我慢するという考え方。最初の6秒間我慢できれば怒りは徐々に収まって来るというもの。

最初にこれを何かの本で目にした時、わたしは思わず笑いそうになった。

「これ効果を検証しているのかな?」

これを考え出した人が誰なのか興味はないが、恐らく「本気で怒りというものに苦しんだ経験のない人なんだろうな…」と思う。

これはあくまでもわたし個人の感想だが、この思考法は、机上の空論としか思えない。

こう言うと、「最初から考えを放棄するのは良くない」と言う人がいるかもしれない。

わたしは若い頃から怒りによる失敗を何度か経験している。人生に於いて、「あの時、怒り狂ってほんとに良かった」などという記憶はまったくない。

自分なりに自己啓発本を読んだり思考法を試みたりしながら改善する努力はしたつもりだ。

その結果わたしが出した結論は、怒りは「対処療法」では防げないということだ。

なぜなら、怒りを作り出すのも怒りを抑えようとするのも同じ自分だから。怒る自分が怒る自分を同時に抑え込むことは至難の業だ。

もう一人の冷静な別の自分が必要になってしまう。それが出来ないからみんな苦しんでいるのだから。そんな高等テクニックが使える人間なら、はなから怒りに翻弄されたりはしないはずだ。

6秒間我慢できる怒りなら、それはたいした怒りではないように思う。たかが6秒間なら我慢できるだろうと思うかもしれないが、強い怒りが発する切り返しには1秒あれば充分だ。本気の怒りとは、それほど強力で素早いものだ。

「それは、単なるあなたの努力放棄では?」

出来ないと分かっているのに苦しむのなら、それはもはや努力とは言えないと思う。

■怒りのメカニズム

では、どうすれば怒りをコントロールできるのだろうか?

まずは、怒りのメカニズムを知ることだろう。怒りが己の感情である以上、そこには怒りを起こす理由があるはずだ。

・直ぐに怒ってしまう理由
・怒りを抑えられない理由

感情を抑えられるものは感情しかないと思う。

怒りとは「2次感情」であると言われている。

つまり、ある出来事に対して自分がどう感じるかによって、その後の自分の感情(2次感情)が決定されてしまうということだ。

たとえば、同じ出来事を2人の人間が同時に体験したとしよう。

2人それぞれが違う感じ方をしたとしたら、その後の二人の行動には違いが出てくるはずだ。

感じ方の違いで怒りの度合いも大きく違ってくるということだ。何なら、まったく怒りを感じない人もいるかもしれない。怒りとは周りが作り出しているものではなく、本当は自分が作り出しているということだ。

周りが1次自分が2次、だから2次感情だ。自分が怒っているのは全部周りのせいだと思っている限り、怒りの力に翻弄される人生を歩むことになる。

「怒りは自分発」という言葉を常に頭に置き、事に臨んで対処すべきだ。

それを日頃から習慣づけていないと、いくらその場しのぎの対処療法を行っても根本的な改善は望めないと思う。

枝葉を切っても根は残っている。そして枝葉は直ぐに伸びて来る。

■怒りはコントロールできるのか?

激しい怒りは凶器となり、人間関係を阻害し、時には取り返しのつかない事件にもなる。

大事な事は心の枝葉ではなく幹を強くしていくこと。幹を強くした上で枝葉のことを考えるべきだ。6秒ルールも幹を強くした後にやるのなら有効かもしれない。

では、「心の幹を強くする」とはどういうことか?

怒りの感情が強い人は、自分にも他人にも

~でなければならない
~であるべきだ
だから、あなたを許せない


といった感情が強い人ではないだろうか。

これは個人が持つ一つの正義だ。あくまでも個人の中での正義。自分の正義は世間の正義と言わんばかりに、相手にそれをすぐさまぶつけてしまう。

自分が思うルールの中でしか生きやすさを感じることが出来ないということだ。

自分と違うものは間違っているという考え方。それはつまり己の弱さというものだ。幹が弱いということ。

怒りを人のせいだけにしている間は、自分の幹の弱さには気づけない。気にくわない事を言う相手は、言わばそれを気付かせてくれる存在なのかもしれない。

すべての責任を誰かに押し付けている人は、実は自由のない人になっている。

相手が正しいとか、間違っているとかではない。相手の言動をどう料理するかは自分次第であるということだ。だから「怒りは自分発」なのだ。

決して我慢した方が良い、と言っているのではない。それでは弱さに他ならない。

感情の主(あるじ)になるということだ。怒りを主にさせてはいけない。

怒りをコントロール出来ない人は、一刻も早く “ねばならない”「正義の人」 を卒業しよう。

問:「なぜ、今日自分はあんなに強く怒ってしまったのだろうか?」

そう自分を振り返り、次のように心を整理してみよう。

原因:なぜ自分は怒ってしまったのか?
結果:怒った結果どういう状況になったのか?
反省:自分に悪いところはなかったのか?
修正:改善すべきこと()を認識する
行動:小さな怒りから認識を改善・修正していく
改善すべきこととは、視点を変える(認識を改める)ということ。
視点を変えるとは、自分を俯瞰(ふかん)で観るということだ。

これを、怒った日のルーティーンにしてみる。これは、対処療法ではなく根本治療でもある。

我慢したり自分を悪者にする必要など決してないが、「相手に悪いところはなかったのか?」を優先しないことだ。それを優先してしまうと、この心のルーティーンは上手く行かなくなるだろう。

■まとめ

怒りは扱いにくく、使い方を誤れば非常に危険な代物だ。

怒りは2次感情

自分が怒っているのは全部相手のせいだと思っている限り、怒りの力に翻弄される人生を歩むことになるだろう。

「怒りは自分発」という言葉を常に頭に置き、事に臨んで対処すべきだ。

それが日頃から出来ていないと、いくらその場しのぎの対処療法を行っても根本的な改善は望めないと思う。

すべての責任を誰かに押し付けている人は、自分に自由がない人だ。人のせいで生きている。

相手が正しいとか間違っているとかではない。相手の言動をどう料理するかは自分次第であるということだ。だから「怒りは自分発」なのだ。

わたし達は一刻も早く “ねばならない”「正義の人」 から卒業しよう。

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