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日記/ ドにもドらないよ

昨夜、10時前から、エックハルトの説教集を読み始める。ムードを大切にする派として、グレゴリオ聖歌をDLして聴く。たちまち猛烈な眠気が襲い、解説の三ページ目で翌朝を迎える。枕元に、ノースカラーズの芋けんぴの空袋が転がっているのが、おそろしい。グレゴリオ聖歌には、夢遊的に芋けんぴを貪らせる霊力でも備わっているのだ。

音楽はわりとよく聴く方だが、楽典にはうとい。何なのだ、これ、音階が変だ。すごい、もののけ姫がアシタカも乙事主様も黙殺し、ひたすら山奥へと分け入るような、そうだ、これはあれだ、祝詞のりとに、かなり近い位相に在る。かしこみ畏み、はぁれーるーやー。"Scarborough Fair" スカボロー・フェア を聴くときの、

前記憶的になつかしい思いと、これはすこし、似ている。わたしは神社がどうにも好きで、教会もなんとも好きで、さりとて、それを 「無神論的」atheistic だの「八百万の神的」pantheistic だのと云うのは大間違いであり、すべての道は神なるものへ通ず、そのあたりは、嗅覚のみで生きているので、あ、こっちは少し近いと、どのようなやくざな理性より、どのような後づけの知識より、これは確かなのだ。聖典――なり、あらゆる神の教えなり――は、いわば、あくまで基礎・・体力をやしなう養分であり、読めば読むほど、あるいは、緻密に研究を重ねるほど、神がよく感じられる、という類のものでは、決してない。無と有の不可思議なり、存在の変てこなり、ことばの魔なり、時間のメビウス感なり、そのような原初的な why's がともなって――それらが消化酵素だ――ことばの意味を超えた、しかも、この世ではことばで在らざるを得ない、あるもどかしい念、それが、来る。来ちまえば、そこからわざわざ俗へと引きかえすのは、かったるくて仕方ない。以上、あくまで直観だ。話すこと/書くことの快楽を突きぬけ、その恐ろしさ、無力、害毒、沈黙への誘い――それを、すこしは知らぬわけでもない。この日記は、グレゴリオ聖歌が書かせたものである。とりあえず、芋けんぴについては、不可知、としか言いようがない。やはり、グレゴリオ聖歌が食わせたものであるのだ。

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