炭鉱遺産、地域の記憶を糧に「現在の住民と、未来の住民と、それに関わる人々が誇りを持てる地域をつくる。」~清水沢プロジェクト代表・佐藤真奈美さん~
この数年、「まちづくり」という言葉が盛んに叫ばれています。
まちづくりといっても色々なやり方があります。地域に観光客を呼ぶこと、地域に移住者を呼ぶこと、地域に産業を作ること。
そんな中、2006年に財政破綻した夕張市で活動する一般社団法人「清水沢プロジェクト」の代表理事・佐藤真奈美さんのまちづくりは炭鉱遺産や地域の記憶を糧に「現在の住民と、未来の住民と、それに関わる人々が誇りを持てる地域をつくる。」こと。
炭鉱で栄えたまち・夕張は炭鉱の閉山により石炭産業は衰退しました。
「炭鉱から観光へ」のスローガンのもと、大きすぎる観光投資を行った結果、管理運営費が膨れ上がり、2006年、財政破綻へと至りました。
※まちのことを詳しく知りたい人は、元夕張市職員・佐近航さんの書いた記事をどうぞ!
「悲惨なまち、ゴーストタウン」と揶揄するメディアやYoutubeの動画。
地域の誇りを失われ、踏みにじられた夕張の人たちに入り込み、幸せをつくろうと活動してきた1人の女性のものがたりを通じて夕張の悲惨な「イメージ」ではなく「リアル」を感じてみてください。
団地が広がっている風景に興味をそそられた。
2001年、佐藤さんが大学を卒業して社会人になってドライブで来たのが、佐藤さんの夕張との初めての接点でした。
その当時のことを佐藤さんはこう語ります。
大学の卒業論文が団地がテーマだったので、団地に興味があったんです。
だから夕張の炭鉱で働く人々の住宅の団地が広がっているときに「なぜこんなところに団地が広がっているんだろう」と不思議に思いました。
ーーもともと炭鉱のことは知っていたんですか?
社会の教科書で出てきたのを耳にしたぐらいで私の生活には全く縁がなかったです。
そこにどんな暮らしがあって、その産業が衰退したら地域がどうなっていくか、というのを今まで私は全く考えたことがありませんでした。
でも、地域を激変させるような影響を及ぼす石炭産業って一体なんだったんだろうって思ったのが夕張に来て感じたことですね。
そこから夕張含め、北海道内を色々回りながら、まちの構造を見るようになった佐藤さん。2006年にその興味は社会人で大学院に入る行動へと変わっていきました。
大学院の研究活動を通じて、地域の住民と関わる。
ーー大学院当時、していた研究の内容を教えてください!
炭鉱住宅が残る清水沢地区で、2つ調査をやりました。
①タウンウォッチングによる地域資源の可視化
②外部の人との関わりによる住民の意識変化調査
です。
①タウンウォッチングによる地域資源の可視化
カメラをもって、清水沢地区を歩いてもらって、「いいな」と思ったものを写真におさめるワークショップを市内の人、市外の人30人程度でやりました。
最後みんなで集まって、撮ったデータを集めて、みんなが映してるものはみんながいいと思うものであると気付いて、地域資源を可視化しました。
↑2008年に行ったワークショップ。
②外部の人との関わりによる住民の意識変化調査
居住中の炭鉱住宅5種類に住んでる人にご協力いただいて、元炭鉱マンと話すイベントをやりました。
住宅を見たいという人も参加するし、元炭鉱マンと話したいという人も参加しました。
外部の人と関わることで、元炭鉱マンの意識の変化があるかないか、という調査をやりました。
変化がある人もない人もいましたが、意識が変わらない人がそのあとキーマンになったりして。
「仕事の話はめったにしなかったけど話すようになった」とか、
「くだらんと思ってたものが褒められた」とか
「投げよう(捨てよう)と思ってたのになんかみんなこれいいっていうんだよな」
とか、調査を通じて変わってきた人がいました。
ーー住民の誇りに気づいたんですね。
はい。言葉の節々に自分たちの住んでいたまち、生きてきた時代に誇りを持っているということがわかりました。
だからその誇りが価値として認められて、まちの人たちが誇りに思って、「じゃあもっと自慢しよう」と思うことがこの地域にとってとてもいいことなんじゃないかな、と思いました。
炭鉱遺産をめあてにやってきた人々が地域と出会い、
お互いに尊敬し合う関係性を築くなかで、
ともに歩む地域をつくっていく、「エコミュージアム」の考え方を活かしたまちづくりを目標に10年間の地域計画を立てました。
※エコミュージアム
居住する地域の歴史・文化・生活などを理解して住民が自らを認識する場であるとともに、来訪者に自らが生活する地域を理解してもらうための場。
大学院卒業後は自分で立てた地域計画を実践。独立へ。
ーー大学院を卒業されてからはどのような活動をされて来られたんですか?
自分の修論で構想した計画を実践しました。
大学院の当時ついていた先生が2009年8月に岩見沢に拠点をつくって、NPOで仕事として地域に関わりました。
2014年まで夕張に限らずいろんな活動に携わらせてもらってから、活動地域を夕張にしぼって独立しました。
↑2011年、夕張清水沢アートプロジェクト。旧北炭清水沢火力発電所を会場に、市営住宅を借り、学生たちが滞在制作を行ったアート作品を展示。所有者の心を動かし、解体一時中断、作品の継続展示・一般公開事業「清水沢アートパワープラント」へ。(撮影 中優樹)
ーー独立してまず手掛けられた活動を教えてください!
拠点づくりです。
私は夕張ではバーチャルな存在で、札幌、岩見沢からなんかよく来る人、という立ち位置が2014年までの私でした。なので拠点をつくって地域とのつながりをつくろうと思いました。
夕張市が集会所にいろんな機能を持たせるため、公共施設とは違う目的で活動したら助成金を出す制度があり、応募をしました。
町内会の人に「町内会行事だけじゃなく、観光インフォメーションや集まり事とかを町内会でやりましょう」とお願いをして、町内会の「宮前集会所」を多機能交流拠点化した「清水沢コミュニティゲート」ができました。
炭鉱住宅1棟を新たな拠点とした新生・「清水沢コミュニティゲート」へ。
2016年、佐藤さんが活動を始めて10年。粛々と活動を続けてこられた佐藤さんに夕張市から声がかかりました。
2016年3月に夕張市が総合戦略を作り、夕張市としては炭鉱らしい風景が残っている文化を大事にして、関係人口を作っていく考えでした。そして清水沢プロジェクトがやってきた活動に目をつけ「炭鉱住宅を1棟保存するので、そこを拠点にしないか」という話になったのです。
↑炭鉱住宅を拠点とした「清水沢コミュニティゲート」。
このことがきっかけで2016年5月に一般社団法人化し、「産業遺産ツーリズムの拠点としての清水沢プロジェクト」 として交流拠点施設・清水沢コミュニティゲートを開設するに至りました。
炭鉱住宅を新たな拠点に再スタートを切った佐藤さん。ここからさまざまな活動を仕掛けていきます。写真とともにどうぞ。
↑旧北炭清水沢火力発電所が場となっている清水沢アートパワープラント。アートイベントや見学会などを行っています。
↑清水沢コミュニティゲートにて。よりどころとなる部屋があったり、こども食堂などのイベントを開催したり、アーティストが滞在して活動したり。そんなみんなのよりどころであり、夕張で何か活動したい人の拠点。
↑2019年、清水沢宮前町の集会場前にてクリスマスイルミネーション。大きな木のない宮前町の小さなツリーは、元炭鉱マンらが単管パイプと梯子を組み合わせて「作っちゃった」ツリー。
炭鉱で働く人は、1度トンネルに入ると道具を忘れても取りに戻れなかったそう。そこで生まれた「ないなら作ってしまう」という炭鉱マンの気質が生んだ小さなクリスマスツリーです。
↑ズリ山(石炭を採る際に出た土砂を積み上げた山)にて。定期的に整備をし、清水沢のまちあるきに不可欠な場として機能しています。ズリ山の頂上から見る炭鉱住宅が広がる絶景はたまりません!
↑2019年3月で廃止になったJR清水沢駅にて展覧会。
写真の展示やアートの展示、あと、昭和56年の住宅地図を印刷したものに「展覧会に来たときの感想などを付箋に自由に書いて貼ってください」という取り組みをしました。
いろんな時期、時代の想いが積み重なって今の夕張・清水沢ができている。それを地図上で可視化することで1人1人が書いていることが清水沢の歴史になりました。現在は同様の展覧会を新夕張駅で実施しています。
ーーコミュニティゲートはどのような役割がありますか?
「ゲート」には2つの役割があります。
1つはまちを訪れる人々と地域の人々が自然に出会う、入り口としての「ゲート」。
もう1つは生活の場を守るための「ゲート」です。
私たち夕張はかき回されてる歴史ですから。
「悲惨なまちだ」って、メディアに取り上げられて。
「自分たちがどうにかしなきゃならん」と変な正義感に駆られた人たちが口々に言って、そしてみんな去っていくんです。
静かな暮らしを守るために、「門を閉ざす」ことも必要だと思っています。
外部との関わりを積極的に持ちながらも、地域の暮らしをしっかり守る。内も外も大事にする佐藤さんに今後の展望はどのようなことを考えておられるのでしょうか。
ーーこれから夕張との関わり方や展望を教えてください!
徐々に収束に向かう地域において、「炭鉱遺産・地域の記憶を糧に、
地域内外の人々が相互に尊敬しあう関係を構築することで、
現在と未来の住民、それに関わる人々が 誇りを持てる地域をつくること」
が次の10年計画における目標です。
夕張ぐらいになると人口や経済が右肩上がりになることはあり得ないと思います。だから人をたくさん呼ぶよりは、今住んでいる人たちが粛々とこれまでの暮らしと文化を継続させて、残していきたいです。
炭鉱住宅が広がる景観を目指していますが、人が住むのは築50年なので厳しい。
住宅として残して維持できる景観として、かつ中の転用をすすめていければと思っています。
人は残らなくても、根付いた文化を景観として活用しながら、地域の宝として受け継いでいくところを目指しています。
↑10年後の夕張の概念図。
佐藤さんにインタビューをしていて、「地域住民の幸せ」をまず第一に考え、心から願う力強い言葉がとても印象的でした。
「まちを残す」前に、「まちの人」を大切にする。それが地域の住民の誇りを作り、自慢をし、地域外の人に良さが伝わり、受け継がれていく。
「住んでよかった」と誇りに思える地域内の人、「関わってよかった」と思える地域外の人、そしてその両者をつなぐ佐藤さんのいる夕張には、一生誇り高き文化が受け継がれていくと信じています。
北海道に移住した社会人2年目・まーきち
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