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第5章 『メイク・ザット・チェンジ』と『新装版 マイケル・ジャクソンの思想』


アルミン・リジ&ソフィア・パーデ(長谷川圭/セイヤーン・ゾンターク訳)『メイク・ザット・チェンジ』(日曜社、2020)と『新装版 マイケル・ジャクソンの思想』(アルテスパブリッシング、2021)の書評文


 私がマイケルの評伝『メイク・ザット・チェンジ』を読んでゲンナリしたのは、同書の後半の頁から生前のマイケルを取り囲んでいた人たちの経歴や活動がしるされており、マイケル本人の話は少なくなったからです。同書では、その取り囲んでいた人たちの大半がマイケルを利用しようと、結果的に彼の命を奪ったことがしるされています。そう云う取り囲んでいた人たち一人ひとりをみると、これと云った印象が特になく、何と云うべきか、あまりにも拍子抜けするような動機でマイケルを利用したと云うことです。一人ひとりの人間は卑小で、つまらない人ばかりでした。なので、私は同書の後半の頁から大変つまらなく感じました。

 ただ、私はマイケルとその取り巻きの人たちの関係をみたとき、一つの時代の流れをみたような気がします。安冨さんは『マイケル・ジャクソンの思想』の中で、マイケルの存在自体が「奇跡」と形容していましたが、考えてみれば、マイケルが活躍した時代はアメリカが超大国として君臨し、「アメリカのスタイルこそグローバル・スタンダードだ」と云われていた時代です。20世紀後半のアメリカが超大国として君臨できたのは、マイケルのような異端的な人物でも十分に活躍する場を与えることができた、それぐらいの余裕があったとも云えます。逆に、マイケルの晩年とアメリカが没落した時期はかなり重なります。現在のアメリカが中国に追い抜かれようとしているのは誰の目にも明らかで、『幻影からの脱出』でも第3章ではアメリカのモンロー主義への回帰に触れ、終章でアメリカに依存しない同盟について提言されていますが、それはアメリカ自体が衰退しているからだと云えます。

 マイケルが活躍した時期はちょうど新自由主義がぼっ興した時期とも重なります。あるいは、冷戦が終結し、資本主義が社会主義に勝利したと云う認識が広がった時期でもあります。ある意味では、マイケルを殺したものはイデオロギーや政治権力ではなく、資本主義的な欲望と云えるかもしれません。だからこそ、取り巻き一人ひとりをみてもつまらないわけです。資本主義とは何なのかについてはマルクス以来かなりの人が論じていますが、私はそれを支えている「欲望」に注目すべきだと思います。

 そのさい参照にすべきなのが、スタンダールの『赤と黒』フローベールの『ボヴァリー夫人』だと思います。両著とも19世紀のフランスで書かれたものですが、主人公たちは「欲望」によって我が身を破滅させてしまいます。『赤と黒』では、ジュリアンと云う青年が「赤い服」を着る軍人か「黒い服」を着る聖職者になろうとして出世をしようともがく姿を、『ボヴァリー夫人』では、冴えない医者と結婚したエマが華やかな世界に憧れ、不倫や使い込みをして破綻する姿を描いています。実は、この両著の主人公たちが「欲望」を抱くようになったのは、「読書」をして「想像力」を持つようになったからです。ジュリアンはナポレオンの語録集やルソーの著作を読み、立身出世の夢を描き、エマは小説や物語を読み、舞踏会に足を運び、華やかな世界への夢を抱きます。


 
 安冨さんは『生きる技法』で、「憧れる」の語源は「あくがる」で、「魂が自分から離れてしまうこと」を指し、「憧れる」と云うことの本質を「自分ではない何かになることだ」と看破していましたが、両著の主人公たちはそれを見事に表現しているとも云えるかもしれません。

 政治学者の宇野重規さんは『トクヴィル 平等と不平等の理論家』の中で、ジュリアンやエマが抱いた「欲望」は小説の世界の特異な人物の話ではなく、フランス革命以後に進んだ「デモクラシー」の雰囲気をつかんだものだと述べています。つまり、革命前では一部の特権階級だけが享受できた職種や文化も努力すれば、どんな人でもつかめる云う機運が広がったと云えます。あるいは「平等」であるがために、他の人とは「自分が違う」と云う差異化が求められた、とも云えます。そのため、ジュリアンもエマも「欲望」を抱き、自分ではない者に憧れますが、同時に「現実」を突きつけられます。また両著の主人公はいずれも自らの「欲望」のために人を傷つけたり、裏切ることで、結果的に破滅に進んでいきます。
 マイケルは、そう云う「欲望」の欺瞞性を指摘したのだと思います。しかもそれを音楽や映像と云う文字や言語ではないもので、表現したのが大きかったと思います。「欲望」のもとになった「想像力」を別の方向へ転化させようとしたとも云えます。


もっとも、マイケルとは別の方向で「欲望」を統御する方法があります。それが中国式の監視社会と云えます。

 よく政治には興味がなく、わからない、あるいは政治の話題よりも仕事をしろと云う人がいますが、近代市民社会の成り立ちをみると、必ずしもおかしい意見ではありません。哲学者のヘーゲルは近代市民社会を「欲望の王国」とよびました。理由は、政治のような面倒なことを一部のエリートにまかせて、一般の市民は経済や文化活動に打ち込むことで、自らの「欲望」を達成することを是とするからです。つまり、経済活動を進めればすすめるほど、政治に参加する人は少なくなるわけです。以前、『原発危機と「東大話法」』で香山リカさんが「反原発」を唱える人は「ひきこもりやニートなど無職だ」と断言していましたが、ヘーゲル風の理屈で云えばそうなります。

 もっとも、20世紀に入ると、事態が変わります。理由は人口が増加し、社会が大きなっていったからです。ヘーゲルはナポレオンと同時代を生きた人間でしたが、その頃にはいなかった「大衆」と云う存在が現れてきます。都市部は人口が増えるとともに、貧富の格差が広がっていきました。「欲望」のままに経済活動を進めれば、当然競争は激しくなり、困窮者が大勢出てきます。しかし、「欲望」を叶えることを優先しがちな「大衆」では社会全体を制御することはできません。

 そこで、現れたのがレーニンの前衛思想やファシズムと云えます。前衛思想は一部の突出したエリートたちが社会を引っ張っていくことで、ファシズムはイタリア語で「束ねる」を意味する”Fascio”からきています。現在では「全体主義」と云われるこれらの思想は「欲望」のままに進んでしまう「市民社会」の代案としてみなされます。

 第二次大戦後、西側先進国では前述のような思想の蔓延を防止するために、「福祉国家」と云う路線がとられます。『幻影からの脱出』の「田中主義」はその日本版と云えます。各国が行なったのは、「欲望」のままに経済活動を推し進めれば、労働者にしわ寄せがよってくるので、そうならないために、「再配分」を行おうと云うわけです。

 もっとも、そう云う「福祉国家」も80年代のイギリスのサッチャーやアメリカのレーガンの時代になると、解体の方向に向かっていきます。その流れで、出てきたのが「新自由主義」と云うわけです。実は、そんな新自由主義の時代に呼応したのが、中国の鄧小平でした。彼が行なったのが「改革開放路線」で、現在の中国が経済大国になる礎を築きます。デヴィッド・ハーヴェイは『新自由主義』の中で、新自由主義は「国家権力と手を結び、縁故資本主義になる」と云います。どう云うことかと云うと、政府が行なう仕事を市場にまかせるのが「新自由主義」ですが、そのさい、「誰に、どうまかせるのか」で一部の企業と政治権力の「縁故」が重要になってきます。結果、公平なようにみえる競争はかなり不公平なものになっていき、格差が拡大するようになります。だからこそ、新自由主義と中国の統治スタイルはかなり親和性が高いと云えます。

 ある意味では、ヘーゲルの述べていた「欲望」の問題をテクノロジーで解決しようとしているのが、現在の中国と云えるかもしれません。

 
 それに対抗するために、様々な思索が行なわれていますが、そのさいに、マイケルの思想が重要な意義を持つように思えました。




最近、熱いですね。