わたしも初心回帰〜!スキのためにしないという決意の言葉
最近ちらほらと、
noteの「スキ」のためでなく自分が書きたいから書くのだ
という趣旨の投稿を見るようになった。
初めはただ何かを書き記したくて、
そしてそれを誰かが見て何かを思ってくれたらそれ以上なくいいことかもしれない
くらいのきっかけであったはず。
多くの人がそう振り返り、またそう考えていると思われる動機は
それぞれ少しずつちがってはいて、
似通うところがあるわたしの動機も同じところと、多少ながら違う部分をもつ。
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うつの休養中に感じるようになった、
生のありがたさや不思議さ、思考癖の変化を
日々更新して流れてしまう非公開のブログやTwitter以外で残しておきたかったのが大きい。
そんなわたしも一様に
「だれかに読まれたい」
「スキがほしい」
の比重が、
「自分のために、思考定着のために書き記したい」
の意思を上回るようになっていた。
人間をすごしていたら、
考えが変わるのは当たり前のことでそれはそれでいいとも思う。
だから自分自身の、
記録目的→文章を上達させたい→褒められてフォロワーを増やしたい→あわよくばライターの仕事がもらえたら…
という変化もいけないことではないと思うのである。
ただ“いけないことではないこと”と、
自分の心の声が(錯覚でなく)“それを真の幸福と感じていること”は違う。
もっと言うのなら、自分を安寧で幸せな方へ導くことから離れる可能性のある変化であるということ。
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「あわよくばライターの仕事がもらえる」ことは超低確率すぎるのである。
それを求め始めるのは、方向性が間違っていると言うより
自分を苦しめる見え方・使い方になってしまっているかもしれないよ ということである。
現時点で言えるのは
復職することになっていて、けれど幼少からの対人恐怖を拭えないのも事実で、
だからもし辞職したら、“別媒体で”ライターの仕事をコツコツと全うしたい。
noteはただ記録がしたくてする。
少し贅沢を言うのなら人に見られるを前提とした文章を心がけて、今ありがたいことにフォローしてくださってる人たちから見てもらう。
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この投稿含め、読んでくださっている人には感謝ばかりである。
承認欲求マンな部分があるとしても、だれかにスキがもらえるのは共感されているようであったり、他者とのつながりを感じられたりして純粋にうれしい。
認められたと受け取るのはすこし危ない考え方な気がしていて気を付けていたいのと同時に、
公開するからにはだれかを傷つけるような思考や文章になっていないかは然り、
勢いに任せていないかを冷静になって見返す推敲の時間を置くことを意識していたい。
以上、
スキのためではないnoteとの関わり方を
心していくという投稿を終えます🙇