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【気まぐれコラム】のほほんとのーととほんと|月刊まーる編集長@石垣島|『彗星』『暇と退屈の倫理学』

『彗星』 via 奥さん

こんばんは。本日はゴールデンウィーク最終日。(を、ちょっと過ぎたところ)
みなさまは今年のGW、どのように過ごされましたでしょうか。

僕は、ミュージシャンのオザケン(小沢健二さん)へのどハマりが始まる予感のGW でした。もともとオザケンファンの奥さんがGW中のライブに誘ってくれ、「せっかくだから」と、初参戦してきたのです。
(ちなみに『月刊まーる』5月号には、そのオザケンファンの奥さんが書いた「移住ストーリー」が掲載されています。よろしければこちらから、ぜひ。)

今日は、そのライブでも演奏され、僕の頭から離れなくなった『彗星』という曲をピックアップさせてください。

『暇と退屈の倫理学』 via 荒木さん

ここで時はすこし戻り、3月。
月に一度、石垣島の友人2人(荒木さん、下地さん)と一緒にやっている「読書感想会」。荒木さんが3月の課題図書に選んだのは、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』でした。

ベストセラーとして本屋さんに平積みになっていた時期もある本だとのことなので、ご存知の方も多いと思います。

我々にとって「暇」、「退屈」とはどのようなものか?
我々はいかにそれらと付き合っていけばいいのか?
ということをテーマにした本です。(だと思います。)

「環世界」 by ユクスキュル

『彗星』が好きな方にぜひ読んでいただきたいのが『暇と退屈の倫理学』。
『暇と退屈の倫理学』推しの方にはぜひとも聴いていただきたい『彗星』。

『彗星』と『暇と退屈の倫理学』を結びつけるのは、「環世界」という概念です。

【環世界】
環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。

すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。ユクスキュルは、動物主体と客体との意味を持った相互関係を自然の「生命計画」と名づけて、これらの研究の深化を呼びかけた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

すごーく乱暴に言えば、「生き物はそれぞれに特有の感覚を通して世界を感じているんだから、それに応じて、世界の感じられ方は全く違うものになるよね」みたいな意味合いだと、僕は解釈しています。

また、上記では"すべての動物はそれぞれに種特有の”とありますが、同じ種のなかでも(つまりヒトとヒトの間でも)、ある程度、世界の見え方、感じ方は違っているのが当然でしょう、と思います。
(よく言われる「国によって虹の色の数が違う」というのはその例でしょうし、石垣/内地における「そば」が想起させるものの違いも、もしかしたらそうかもしれません。)

「環世界」 from 『暇と退屈の倫理学』

『暇と退屈の倫理学』ではダイレクトに「環世界」がキーワードとして登場します。

とてもかいつまんで趣旨をピックアップすると、

  1. 人間は退屈し、それは時に破滅的な結果を生み出す

  2. なぜか人間だけが退屈をする

  3. それは人間の持つ、ある能力に起因する

  4. その能力とは「環世界の移動能力」である
    たとえば、本を読んだり映画をことによって他の人間の環世界を疑似体験することができるし、オフェンス視点/ディフェンス視点など、一つの物事を複数の視点で見ることができる

  5. つまり、現代の人間は「環世界の移動能力」を持て余している(不用意にそれが発動してしまう(=夢中になれない)&うまく活用できていない)が故に退屈を覚え、不幸を感じる

「環世界」 from 『彗星』

ここで、もういちど、『彗星』のMVをみて、歌詞を聴いてみてほしいのです。

今ここにあるこの暮らしこそが宇宙だよと
今も僕は思うよ なんて奇跡なんだと

『彗星』歌詞から一部抜粋

「今ここにあるこの暮らし」の奇跡を歌い上げるのとともに映し出されるのは、オザケンと息子さんが大衆食堂でトランプ遊びに興じる、おそらく「今ここにあるこの暮らし」なシーン。そして、トランプ/ハチ/水/食堂の料理人/オザケン/地球 etc…と、目まぐるしく入れ替わる視点(=環世界)。

それら溢れ出す環世界は、奇怪だったり、新鮮だったり、暖かかったり、僕たちを"退屈"させることがありません。

僕がこの音楽とMVに見出したいのは、「自分の身の回りに満ちているさまざまな環世界に気づき、想像し、愛でてみることで、"今ここにある暮らし"はいくらでも、壮大だったり、驚きに満ちた愛すべきものなるんじゃない?」というメッセージです。

自分の影法師を踏むように当たり前のことを
空を横切る彗星のように見てる

『彗星』歌詞から一部抜粋

「自分の影法師を踏む」というのは、それが当たり前だとも気づかないくらいの当たり前です。

何かしらの明かりがあれば、僕らの足元には自身の影が落ち、僕らはそれを踏んづけている。この歌の中では、それを「空を横切る彗星のように見てる」。

それは、「自分の影法師を踏む」という当たり前を、文字通り天文学的な確率でしか起こらない彗星との遭遇のように、驚きを伴ったまなざしで見つめることでしょうか。

それとも、壮大な彗星(あるいは宇宙)の視点で、「地球」「生物」という、これまた文字通り天文学的な確率で生まれた奇跡的な存在を眺めることでしょうか。

「環世界」of 奥さん&荒木さん

…と、お風呂に入りながら考えた自分なりの解釈をつらつらと書き綴ってきました。

もちろんこの解釈自体も、僕自身の環世界に出現した『彗星』であり、『暇と退屈の倫理学』であり、「環世界」であります。

なので、お読みいただいた方のなかには、納得がいくものでなかったり、全然わかってない!と言いたくなったりする方もおられることと思いますが、それはたまたま視界に入ってきた彗星なのかもしれないし、雲か霞か見間違いのようなものかもしれない、と、ご容赦いただけますと幸いです。

こうして僕がこの文章を書いていることも、奥さんや荒木さんが、僕の環世界を揺さぶる「彗星的存在」として出現してくれたからなのだと、今は思えます。(『暇と退屈の倫理学』では、この彗星的存在としての出現が「不法侵入」と表現されています)

『月刊まーる』 from 「まちのコイン まーる」

僕たちは普段、意識しないでいると、「自分の環世界のうち、多くの人と共有できる部分」に目を向け、大切にし、表現する機会が多いのではないかなあ、と思います。一方で、「みんなにはわかってもらえない部分」には蓋をすることに慣れ、いつの間にか忘れそうになったり、どうやって取り出せばいいかわからなくなってしまったり。

そういった「みんなにはわかってもらえない部分」を、少し取り出してみる、光に当ててみる、ちょっと磨いてみる。そんなことのお手伝いをできる場として『月刊まーる』が存在すればいいなあ、と願っています。

「みんなにはわかってもらえない部分」を常に晒しておくのはちょっと怖いものですが、誰かの視界を掠めるかもしれない彗星のようにシュッと、一本の記事として、あるいは一行の言葉として、世界に放つのは、少しワクワクする体験です。

『月刊まーる』での記事執筆にご興味を持っていただける方がおられましたら、ぜひお気軽にご連絡くださいね。(下記インスタのDMにでも、お願いします。)

では、生活へ帰ろう!

『月刊まーる』編集長 佐藤
Instagram:@mi_jin_co


▼『月刊まーる』5月号、ぜひご一読ください!


この記事を書いた人

佐藤仁
『月刊まーる』2代目編集長。
月刊まーる以外のお仕事は、グラフィックやサービスのデザインなど。
私設図書館「みちくさ文庫」運営(現在リニューアルオープンに向けDIY中!)


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