茶々の最後のセリフを書き起こしてみた
日の本か
はっ
つまらぬ国になるであろう
正々堂々と戦うこともせず
万事長きものに巻かれ
人目ばかりを気にし
陰でのみ妬みあざける
優しくて
卑屈なか弱きものたちの国
己の夢と野心のために
なりふり構わず
力のみを信じて戦い抜く
かつて
この国の荒れ野を駆け巡ったものたちは
もう現れまい
茶々はようやりました
「どうする家康」最終回での茶々のセリフを、NHKプラスを見ながら書き起こしてみた。
書き起こしてから検索してみると、もう既にいっぱい出てるやん。
わざわざ書き起こしとかせんでもよかったやん。
でも、まあ、その努力が大切と言うことで。
このセリフ、もしかしなくても、間違いなく、今の日本、日本人に対して吐かれている。
それが作者の意図であることは明らかだ。
しかし、同じセリフを今を舞台にした映画やドラマ、小説の主人公に言わせれば、それはもう、陳腐の極みになる。
この時代の茶々に言わせてこそのセリフだろう。
その後の260年に及ぶ江戸時代が、今の日本人を作ったとよく言われる。
文化、習慣、しきたり、考え方。
明治以降も、西洋的なものとなんとかうまく折り合いをつけてやってきたが、その綻びが出始めているのが、今なのではないか。
人間は、もともと争う生き物なのだ。
競争し、戦い、勝ち残ったものだけが生きていく。
それは、同じ人間相手でも、自然が相手でも同じだ。
僕たちは誰も、本来は、狩猟採集民族なのだ。
だから、子供の頃から、喧嘩もする。
運動会で一等になれば嬉しい。
テストの成績が上位なるように勉強する。
競争は、本来、いいものでも悪いものでもなく、自然なものだ。
その取り扱いを誤っただけの筈なのに、すべて
責任を競争に背負わせてしまった。
人々から戦う機会を奪ってしまった。
その結果が、
ネットの誹謗中傷などは、その通りだ。
別に、争え、戦えと言うわけではない。
戦争を肯定するわけもないし、それとは違う話だ。
むしろ、戦争を否定するための、幻想としての競争なのかもしれない。
だから、運動会の徒競走で「べべ」、つまりビリだった子がいじめられたりしたことはなかった。
テストの成績の悪い子の発言権が奪われることもなかった。
それが、今では「優しくて 卑屈なか弱きものたちの国」になってしまったのだろうか。
自民党の裏金問題にしてもそうだ。
昔なら、これだけの問題なら、自民党の中から改革の声を挙げ、党を割って出るような議員もいた筈だ。
「マー君はようやりました」
違うか。
でも、せめて自分の手の届く範囲では、そう言って死にたい。
手の届く範囲、半径1メートルくらいやん。