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その時に人は〜「じんかん」今村翔吾

応仁の乱以降も、まだまだ治らない世の中。
油商人の長男として生まれた九兵衛の家族を足軽たちが襲う。
父親を目の前で殺され、蓄えも奪われてしまう。
枯れ草を食んで飢えを凌ぐ生活。
母は、自分を食えと言い残して命を絶つ。
もちろん、食えるわけがない。
月明かりの下、弟と2人で母を埋める。
その後、弟の手を引いて村を出ようとする時に、弟がか細く震える声で呟く。
「俺たちは何で生まれてきたのだろう」
この問いが、後々までも、九兵衛の心に残り続ける。

この「人は何のために生まれてくるのか」という単純な問いが、この小説を貫くテーマとなる。
もちろん、答えなどはない。
こんな問いに答えられるような者がいれば、それは詐欺師か怪しい新興宗教だ。

冒頭の九兵衛こそが、この小説の主人公、後の松永弾正久秀である。
歴史上では、希代の悪役とされる松永久秀。
その生涯を、織田信長が安土城の天守閣において、酒を飲みながら小姓頭の狩野又九郎という人物に語り明かす。
信長と久秀、2人の人生はやがて物語の途中で交錯する。

松永久秀。
僕は不勉強で、下剋上の話でいつも引き合いに出される人くらいにしか知らなかった。
詳しい人には今更なのだろうが、この人物、日本史上最悪の男と言われているらしい。

なにより、上様自身盟友である徳川家康に久秀を紹介する際、  
──この男、人がなせぬ大悪を一生の内に三つもやってのけた。  
そう説明している。

3つの大悪というのが、主家乗っ取り、将軍殺し、東大寺焼き討ち。
小説では、松永久秀が、この大悪に関わっていく裏側を描いていく。

小説の中で、久秀は神仏をことごとく否定する。

神も仏も信じない。もし神仏がいるならば、このような悲哀に満ちた世を赦すはずがないではないか。父も、母も、多聞丸らも助けてくれたはずではないか。何度救いを求めても応じなかった神仏を、九兵衛は信じていない。

そして、神仏などは、

人の善なる心を煽る、そのためだけに創り出された紛い物だと思い定めている。

では、久秀が目指す世の中とは。
それは、やがて久秀が仕えることとなる三好元長の口から語られる。

「武士の現れる以前の国になるということでしょうか」  
己が生まれた時、すでに武士は当然のように存在していた。未だ見たことが無い世であることは間違いない。
「いいや。それでは形こそ異なるかもしれぬが、またぞろ武士が湧いて来る。あるべき者の手に政を戻し、二度と修羅が現れぬ世を創るのだ」
「あるべき者とは……」  
九兵衛ははっと息を吞んだ。人間と修羅。堺の自治。すでに元長はその答えを示していることに気が付いたのだ。
「ああ、民が政を執る」

さて、物語の松永久秀は世に語られているような極悪人なのか。
目指す世の中に近づけたのか。

「なるほど、そういうことか」  
ふと人の一生が妙に腑に落ちた。  
夕焼けの先に皆の顔が見えた気がした。一々名を呼ぶまでもない。皆である。

歴史小説とは何だろうか。
これまでの定説とは違う新たなストーリー、人物像、それを、もしかするとそうであったかもしれない、そうであったのではないかと言う視点から描く面白さ。
それと、もうひとつ。
僕は、小説とは何を描くかよりも、いかに描くかだと思っている。
その「いかに」に利用されたのが歴史上の人物であった。
歴史小説とはそのようなものでもあるのではないか。
「人は何のために生まれてくるのか」
目新しいテーマでもない。
ここに答えが書かれているわけでもない。
ただ、人はこのような疑問を持つものだ。
答えはないが、そんな疑問を抱いた時に、人はどうあるべきか。
それが、この小説で描かれた松永久秀の生涯ではないだろうか。

タイトルの「じんかん」とは。

人間。同じ字でも「にんげん」と読めば一個の人を指す。今、宗慶が言った「じんかん」とは人と人が織りなす間。つまりはこの世という意である。


この本、2020年5月に初版が発行されて、直木賞候補にもなっていることから、今さらという気もするが、読後、何かを書かずにはいられなかった。
そんな小説は、やはり優れているのだろう。
もし、まだという方には、おすすめしたい。
それもかなりの自信を持って。
歴史なんか知らなくても大丈夫。
僕も、登場人物の中で、織田信長くらいしか知らなかった。


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