つべこべ言わず、しあわせでしたと〜「ミシンと金魚」を読んで
「ミシンと金魚」(永井みみ著 集英社刊)を読んだ。
認知症を患っているカケイが、己の来し方を思い出しながら語っていく。
一人称の小説だ。
認知症を患うカケイの意識のおもむくままに語られるため、話は取り止めもなく前後し、時に妄想となり、時に真実となる。
カケイは見たところ、デイサービスを受けながら自宅で暮らしている。
デイサービスのない日には、息子の嫁が介護に訪れる。
息子はとっくに亡くなっているが、カケイにはなかなか理解できない。
カケイは、介護士たちをみんな「みっちゃん」と呼ぶ。
ある日、離婚調停中だという「みっちゃん」から「今までの人生をふり返って、幸せでしたか」と尋ねられ、自分の人生を語り始める。
その人生は壮絶とまでは言わないが、決して楽しいものではなかった。
父から殴られ、継母からも毎日薪で殴られ、チンピラの兄からの勧めで結婚するが、夫は息子が生まれてすぐに蒸発。夫の連れ子に犯されて、女の子を産み落とす。
しかし、己の不注意から女の子を失ってしまう。
認知症でよく言われるように、カケイの記憶は、昔の記憶になるほど鮮やかになる。
過去と現在を行き来しながら語るカケイの視線は、それでも人生を優しく受け止めている。
自分の僅かな預金を「みっちゃん」たちにと言う遺言書を書き上げた後、カケイは自宅の玄関で倒れ、ひとり息絶える。
小説の背景には、カケイの踏み続けるミシンの音が流れている。
念のために注釈すると、ここでのミシンというのは今のコンパクトなものではなく、踏み台のついた大きなものだ。
この作品は、認知症患者の視点から描かれているところに新しさがあるかもしれない。
しかし、欠して、この本を読んで認知症のことを理解しましょうという本ではない。
認知症患者はこんなことを考えて、こんなふうに世界を見ているのですよ。
そんなことを語ろうとしているのではない。
カケイが語るのは、そのためではない。
「この小説の言いたいことは何か」
そんな問いは邪道だと思っている。
作者に言いたいことがあったとすれば、それはその小説の一行目から最終行までの全てであるはずだ。
それでも、あえて、この小説に対して、ひとこと言うとすれば、
「人はみんなこのように死ぬ」と言うことだ。
人はみんな、カケイのように死んでいく。
家族に見守られながであろうが、路上で行き倒れようが、死は常に誰のものでもない。
死は、本人のものでもない。まして、見守る誰かのものでもない。
死とは、それ自体が、どうしようもなく孤独なものなのだ。
問題はどのように死ぬかではない。
限りなく死に近づくまでの、生き方があるだけだ。
それは、その瞬間までは紛れもなく己のものであるはずだ。
カケイが、己のミスで亡くしてしまった娘、道子について語る場面がある。
少し長いが引用する。
最近は、介護文学、老後文学なる言葉があるらしい。
人間は、何でも名づけて、あっちとこっちを分けたがる。
フラットが生きやすいはずなのだか。
バリアフリーと同じように。