いきなりレクサス、かよ
僕は経済のことはよくわからない。
株のことも、円相場のことも詳しくはない。
でも、最近、あまりにもそのニュースが大きく取り上げられているのが気になって仕方がない。
もちろん、重要なことではあるのだろうし、投資家にとってはそれこそ飯の種だ。
最近は国も年金を諦めて投資をすすめている関係で、NISAなどを始めている人も多い。
しかし、経済って、そんなことでは、少なくともそんなことだけではないと思うのだ。
そこに現れているのは、あくまでも結果であって、そこに至るまでは、日本中の、いや世界中の人が汗水流して働いた過程があるはずだ。
最近は、あまりにも結果だけを重視して、あるのは結果だけのような風潮があるような気がしてならない。
僕が若い頃は、「いつかはクラウン」だった。
スターレットあたりから乗り始めて、少しずつ大きな車に乗る。
カローラやカリーナのファミリーカーを経て、「いつかはクラウン」に乗りたいなあ、と思ってみんな働いていた。
それが、今では「いきなりレクサス」だ。
確かに若い人でもレクサスに乗っているのをよく見かける。
「なんの仕事してはるんやろなあ」
と、妻とよく話している。
でも、若くても自分のまっとうなお金でレクサスに乗るのは、全然悪いことではない。
しかし、結果だけが評価される、結果だけを見せられる世の中になると、勘違いして、いきなりその結果だけを欲しがる人が出てくる。
働きもせずに、「俺もレクサスが欲しい、今すぐ」
それが、悪い方にいったのが闇バイトではないだろうか。
能力主義や成果主義には賛成だ。
しかし、そこにいたるまでの経過は、もし結果が出なければ、まったく無駄だったのだろうか。
「数字がすべてや。数字が正義や。それが資本主義や」
よく言われた。
僕が人を評価する立場に立った時に、どうしてもいい評価をつけたい、でもその項目がない、そんな社員がいた。
彼はなかなか数字での結果は出ないが、明るく真面目で、彼がいるだけでそこの雰囲気も良くなる。
辛そうな社員も、彼と話すと笑顔になる。
僕も、彼の言葉で頑張ろうと思ったことが何度もあった。
しかし、数字の結果が出せない彼は、不要な人間だったのだろうか。
二宮金次郎の銅像が、小学校からどんどん撤去されている。
僕の学校にもあったが、先日見たらもう無かった。
なんでも、本を読みながら薪を背負って歩くのは、歩きスマホを助長する、そんな理由からとか。
確かにそうかもしれない。
子供の安全を考える親と学校の願いからだろう。
二宮金次郎の詳しい人となりは知らなくても、子供にとっては、勤勉の象徴のような存在だった。
今頃、勤勉なんて言うと笑われるに決まっているし、老害の謗りは免れない。
それでも、あの銅像の撤去と共に失ったものは大きいような気がする。
甘いなあと言われるだろうけれども、僕は、そこまでの経過、努力、頑張り、勤勉、そんなことにもみんなの目がいく社会なら、いいなあと思うのだ。
いきなりレクサスの世の中よりも、いつかはクラウンの方が夢がある。
あ、闇バイトの皆さん、我が家にきても現金はありませんからね。
て言うか、その報酬くらいのお金なら、少し真面目に働けばすぐ手にすることができるよ、きっとね。