言葉について
音楽や美術を楽しんでいる時、鑑賞しているもの同士が言葉を介さずとも「見えないけど何かそこに感じるもの」を共有して一体感を覚えることがある。
言葉で定義することのできない、莫大で漠然とした掴みどころのない何かを言葉で括ろうとするとき、それが制限となることがある。
縦横無尽に広がる空間に名がつけば、そこに内包している光や影が凝固して立体感を損ねてしまうような気がする。
表現の対象やそこを取り巻く空間に同調し、共感し、共振する。
それは、私たち日本人が古来から得意としている「空気を読むこと」と似ている。
BLUEと書かれたミカン
色に関することを専門に講師をしていたとき、言葉に対する認識が個々で異なることで生じる差を埋め合わせる説明に苦労していた。
「赤」と言っても、それぞれイメージする赤が微妙に異なるので、その認識の差を埋める為に”血”とか”トマト”などと言って特定のイメージで認識を均一化する。示したいものがより複雑なものになってくると、相手の知識量、経験値によってその解釈は異なってくる。
抽象的なイメージを伝えたいがゆえに多くなってしまう言葉や、語彙力の少なさが、次第にコンプレックスに変わっていった。同じ頃、鋭利な言葉を乱暴に放つ人が身近にいたこともあり、言葉の取り扱いにおける慎重さはさらに増した。
俯瞰から主観におりてきたとき、言葉の海に疲れている自分に気付いた。
ある日、目の前にあるミカンを手に取り、青のマジックペンでBLUEと書いた。検討違いの言葉を与えられたミカンに取り巻く違和感。
これは「言葉で定義すること」への問題提起をする自身への即席インスタレーションだった。
バベルの塔
定義;一般的にコミュニュケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業(wikipediaより引用)
そもそも、言葉とはどんなものなのか。
言葉は、そのものをどう定義するかによって、価値を伸びも縮みもさせる。
存在の意図に沿って選ぶことは敬意。使い方ひとつでポジティブにもネガティブにも作用する。
言葉をかんがえるとき、寓話「バベルの塔」を思い出す。
もともと言語がなかった世界に、争いを繰り返す人間に神様が怒り、罰として「言葉」を与えた。その後の世界は言語によって分断され、宗教、文化、多様な社会が生まれたというお話。
言葉というものが、どんなものであるのかを考えさせられるこの物語が好きだ。
かつて、言語のない世界は一つだったのかもしれない。露骨な感情表現と、ある種の共感覚で繋がっていたのかもしれない。
🌝
世界に言葉が与えられた日が、今日のような日食だったとしたら。
感じるままが全ての概念に「美しい」とか「怖い」とか「神秘的だ」だとかの言葉を言い合いながら、それぞれの感じ方の違いにさぞ感嘆しただろう。
そして言葉は紡がれ、唄になり、物語になって歴史が語り継がれていく。
いうまでもなく明白なことは、どんなにあがこうと、言葉というのは生きるうえでの主要なコミュニュケーションツールだということ。
その当たり前すぎて見落としていた気付きはのちに来たアート作品脚注の文章づくりや表題付けの言葉選びに大いに役に立った。
今もあらゆる言語でスピードをあげて世界に拡がっていく言葉たち。
膨らんでいく莫大な情報は、大きな雲になっていつか世界を覆い尽くすのかもしれない。
言語の壁が取り払われ、境界がなくなり、新たな言語時代を手に入れた先には、この地球もいつか「星」という括りにおさまって、遠い銀河の記憶として語られる日が来るのかもしれない。
言葉には響きがあり、感情があり、背景がある。
言葉に笑い、言葉に泣き、言葉に縛られる。
その、どこか愛に似ている「今の言葉」たちに、
色鮮やかな敬意をのせて、ここに書き綴っていきたいとおもう。