Ernst Ludwig Kirchnerについて覚書① 1945年以降の評価
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)という悲劇の芸術家について、わたしが知っていることをいくつかまとめてみる。今回はキルヒナーの1945年以降の評価にかんしてここに記す。
キルヒナーについての印象的な引用を紹介してから、この覚書を始める。
「悲劇的な暗鬱と荒漠的な芸術」(ゲルト・H・テウニッセン、1946年12月31日)
「戦争とファシズムによって壊れた」(Freie Press誌、1988年6月)
「帝国主義的な非人間化に対する芸術家の反抗、また、ナチスの美的で血と土的な絵画による芸術の衰退に対する反抗。冷酷さの仮面によって、繊細な芸術家は自己破壊に陥った」(Neue Zeit誌、1988年10月17日)
当時の退廃芸術キャンペーンによって、ナチスの美的イデオロギーに合致しない美術作品は排斥された。ドイツの美術館が所有するキルヒナーの作品は639もの数を押収されたという。作品は退廃芸術展に雑多に飾られてみせしめがおこなわれ、また、競売にかけられ海外へ売り飛ばされた。
退廃芸術の烙印を押され、また戦争と産業技術の発展により精神を病み、キルヒナーは亡命先のスイス・ダヴォスで1938年に自殺した。ところで、現在キルヒナーはドイツ中のモダン美術館でも飾られているほどの人気ぶりである。そこで、死後キルヒナーとその作品はどのように評価が変化していったのか。
キルヒナーの戦後の評価
1933年、つまりヒトラーの政権掌握以降、キルヒナーは公から忘れかけられていた。加えて戦後は1930年に起こった表現主義論争──当時一部の哲学者たちは、表現主義がファシズムに大きく加担したということを証明しようとしていた──が原因で、表現主義に関する研究が滞っていた。しかし、そのような状況のなかで、表現主義の芸術家もドイツの芸術の巨匠として再評価し、近代美術館は競売によって失った作品を取り戻そうする気運が巻きおこった。国単位でも《ブリュッケ》の作品は民主主義のドイツの看板として使われるようになっていった。
西ドイツ
ブリュッケおよびキルヒナーの戦後の評価は西ドイツと東ドイツで別れていた。1945年以降ナチスによって排斥された芸術作品は急速に再評価・名誉回復される──いわゆるリハビリが行われる──ようになった。1945年から1990年にかけて西ドイツでは多くのブリュッケの展覧会が、333ものキルヒナーの展覧会が開催された。1945年10月20日にすでにフランス占領区域で行われたモダン美術の展覧会では、キルヒナーの作品が飾られた。1950年以降は《ブリュッケ》の作品は政治的に「自由の芸術」として推し出された。1955年にカッセルにて開催された国際芸術祭《ドクメンタ》では、ナチスによって排斥された芸術家のリハビリをし、また特に東ドイツの限定的な芸術政策に対抗して芸術の自由を表現するために、《ブリュッケ》の作品は強く推された。キルヒナーの作品は7作品展示された。1959年第2回《ドクメンタ》でも、《ポツダム広場》を含むキルヒナーの作品が展示された。
東ドイツ
東ドイツでは、戦後まもなくは、まだ芸術的自由が残っていた。例えば1946年夏にドレスデン《第1回総合ドイツ芸術展(Erste Allgemeine Deutsche Kunstausstellung)》が開催され、《ブリュッケ》の展示部屋があった。しかし1948年アレクサンダー・ディミシッツ(Alexander Dzmschitz)によって寄稿された《ドイツ美術の形式的方向について。第三者への言辞(Über die formalistische Richtung in der deutschen Malerei. Bemerkung eines Außenstehenden)》では、ソビエト占領区域における絵画の政治化が警鐘され、抽象絵画の低評価へと繋がった。1949年にドレスデンで開催された展覧会ではすでにブリュッケは参加しなかった。この展覧回は2ヶ月の開催期間で来場者は5万人だけだった。1950年のフォーマリスムスキャンペーンによって抽象美術が否定され、ソビエトのビビットなイラストが推された。1960年代から1970年代にかけて表現主義は社会的な芸術史叙述において危機的な状況であり、クルト・リープマン(Kurt Liebmann)の公式記述によると、表現主義は「市民的デカダンスの現象」だったという。
海外
ナチスは美術館の所有する抽象絵画を没収し海外向けに競売にかけ売り飛ばしたため、それらの芸術作品は海外で美術館が所蔵したり個人蔵となった。また、ドイツの美術収集家や画商は、アメリカやイギリスに亡命する際に、そのコレクションも持って行った。これらのことによって、キルヒナーの作品の多くは海外に残っている。
《ブリュッケ》の絵画は第二次世界大戦後に初めて有名になった。1939年ベルリン、押収されたモダン絵画が競売にかけられたルッチェルン・オークション(Luzerner Auktion)は、ドイツの抽象絵画を世界的に有名にする契機となった。フィッシャー・ギャラリーのオークションでは、フランス、ベルギー、スイスの美術館がドイツの絵画を買い取った。ゲオルク・シュミット(Georg Smidt )率いるスイス・バーゼル美術館は1939年に21作品の「退廃芸術」を獲得していた。アメリカの美術館も1945年にはすでに《ブリュッケ》を含むドイツのモダン絵画を獲得していた。亡命芸術家の作品は、このようなアメリカの美術館や収集家の動きによってドイツの美術評論家や画商は自国の芸術に目を引くようになった。
1949年から1958年にかけて重要なアメリカの美術館がキルヒナーの20作品を買い取った。 1950年から1963年にかけて8つのキルヒナーの展覧会が、1957年のポール・カンター・ギャラリー、ベイルリー・ヒルズ、1958年の北カロライナ美術館を含むアメリカの美術館で開催された。
イギリスでは戦後も戦前と同じように、表現主義に対して興味がなかった。1954年にテイト・ギャラリーでドイツ表現主義絵画が展示されたが、その際キルヒナーの作品は含まれなかった。1966年に初めてエジンバラのスコットランド国立美術館がキルヒナーの重要な作品を買い取った。1964年テイト・ギャラリーと1966年にロンドンの無名のギャラリーでブリュッケの展示がされた。1969年にキルヒナーの単独の展覧会がロンドンのマルボロー・ファイン・アート・ギャラリー(Galerie Marborough Fine Art)で開催された。その展覧会のカタログにウォルフ・ディーター・デューブス( Wolf-Dieter Dubes)が書いたことによるとー当時の新聞はこれを否定したがー、キルヒナーは「ベックマンやクレーと並んぶ20世紀のドイツ三大芸術家である」。
1952年にドイツのモダン芸術は少なくとも小さい界隈で展示されていた。しかしフォーヴィズム絵画と同じ括りで展示されていた。1978年ポンピドゥー・センターにおける展覧会《ベルリン・パリ展》ではキルヒナーの作品を含む表現主義絵画が展示され、それ以降、ドイツ表現主義に対する注目が増え、ドイツ表現主義とフォーヴィズムの違いも意識されるようになった。
キルヒナーの現在の評価
1950年以降ドイツでもキルヒナーの展覧会が開催され、関心を呼ぶようになった。当初キルヒナーの作品は、他の《ブリュッケ》の作品よりも好まれなかった。美術収集家と美術評論家の間で、キルヒナーの作品に対する評価が割れていた。
戦後間もなく新聞などに書かれたキルヒナーに関する評価はいずれも否定的であった。「深い孤独」「重い病気」「精神的な圧迫」「描くことへの強迫」「被害妄想」「神経症」「強迫観念」「悪魔と契約を締結」「絶えず変わる作品」。しかし1950年にはすでに「キルヒナーはドイツ表現主義の精神的中心人物」だと見なされるようになった。しかし1960年のドイツ新聞によると、「キルヒナーはまだドイツの芸術意識において確固たる地位を築いていない。かれはまだ歴史的ではなく、ベックマンやココシュカのように現代の芸術に影響を与えていない」。
1968年にアメリカの学者・ドナルド・E・ゴードンによると、キルヒナーは「1900年以降フランスの土から巻き起こった絵画における革命を初めて行ったドイツの芸術家」である。
1979年と1980年、ベルリン、ミュンヘン、ケルン、チューリッヒにて、キルヒナーの生誕100周年に際して行われた大回顧展は、多くの公衆によるキルヒナーへの関心を呼び起こした。15万人がベルリンとミュンヘンの展覧会に来訪し、大部分は若者であった。現在もキルヒナーへの関心は増え続けている。芸術市場ではキルヒナーの作品は7桁の金額が月、各地で単独の回顧展が開催されている。
出典
Anton Michael, Illegaler Kulturgüteverkehr. De Gruyter, Berlin Boston 2010
Christian Saehrendt, „Die Brücke“ zwischen Staatskunst und Verfemung Expressionistische Kunst als Politikum in der Weimarer Republik im „Dritten Reich“ und im Kalten Krieg. Franz Steiner Verlag Stuttgart. 2005
New York Times, Roman Norbert Ketterer 91 Art Dealer. New York 22. June. 2002
Frank Whitford, Kirchner und das Kunsturteil, in: Ernst Ludwig Kirchner 1880-1938. Nationalgalerie Berlin Staatliche Museen, Preußischer Kulturbesitz, 1980
Wolfgang Henze, Das Ernst Ludwig Kirchner Archiv in Wichtrach/Bern und die Abklärung der Echtheitsfragen zu Kirchner“, in: „Bild und Wissenschaft -Der Umgang mit dem künstlerischen Erbe von Hodler bis Jawlensky, Locarno 2003, S. 35-44.
Nicola Kuhn. Letze Versuche: Kirchners „Straßenszene“ aus dem Brücke-Museum ist für Berlin kaum noch zu retten. Einschiffung nach New York. Der Tagesspiel
Hyun Ae Lee, ‘Aber ich stelle doch nochmals einen neuen Kirchner auf’: Ernst Ludwig Kirchner Davoser Spätwerk. Mit einer ausführlichen Zeittafel der Schweizer Jahre 1917 bis 1938. Waxmann Verlag, 2008
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