『情況』の2024年夏号「トランスジェンダー特集」への抗議文への抗議文
私が抗議文の何に抗議しているか
さて、この文章を書き始めた段階で既に時刻は深夜24時をまわっている。明日(というかもはや今日!)も仕事があるのに、何故私は貴重な睡眠時間をけずってまでnoteを書いているのか。それは、『情況』の2024年夏号「トランスジェンダー特集」への、以下の二つの抗議文を目にしたが、どちらも内容に問題があり、もしこのまま『情況』の運営に悪影響が出たらよくないと判断し、ささやかながら抗議への抗議を表明しようと考えたからだ。
以前私は、Mrs. GREEN APPLEのMV「コロンブス」の、大炎上による公開取り消しにも異を唱えたが、きちんと検討が行われない形での抗議(による何らかの軌道修正や取り消し)には反対するのが私の基本的な(社会的)姿勢である。何故これら二つの抗議文には問題があると考えたのか。それをこれから簡単に説明していこう。
1.「『情況』に関する声明」の問題点
初めに断っておくと、私がより問題ありと考えているのは、「『情況』に関する声明」の方だ。なので先ずはこちらから取り上げ、次に「『情況』は国家か?」を問題にする。この声明は、『情況』が「差別の容認と保守的党派性に陥っている」という問題意識のもと公表されている。しかし私は、(極端に言えば)もしこの声明で言われている内容が全てその通りだったとしても、少なくともこの声明は支持しない。何故か。それは、この声明文が何一つ裏付けをとっていないからだ。この声明は、四つの指摘から構成されているので、順にまとめつつ各々のよくない点を見ていこう。
一つ目の指摘は「「言論の自由」の名の下に「トランスヘイトの自由」を掲げる論考を掲載した。」というものだ。この様に言っているにも関わらず、具体的にどの論考がそうなのか、またその論考はどういう文脈・内容で「トランスヘイトの自由」を掲げていたのかがさっぱり書かれていない。(私は実際に『情況』を購入して確認したので見当がついたが)この指摘だけを見て、それが妥当だと考えるのは不可能だ。最低限、その論考の有害性を解析した上で「議論すること自体が差別への加担である」と言ってくれなければ、同意のしようもない。
二つ目の指摘は、(『情況』編集部が)執筆者に「テーマや構成の概要を正確に伝え」ておらず、「編集部に「開かれた議論」を誌面において実現する気が」ないというものだ。しかし実際に『情況』を確認したところ、(トランスジェンダーがテーマとして統一されてるものの)各執筆者同士で対立する様な見解は普通にあった(例えばペニスのついたトランスジェンダーの人で女風呂に入ろうとする人がいるかについての、よだかれん氏と千田有紀氏の見解の相違など)。なので、これを読んだ人から別の論考に加担したと考えられる心配があるとは(少なくとも直接には)考えにくい。また、(『情況』編集長の)塩野谷恭輔氏は冒頭の前書きにて、「おそらく真の問題は、排除したり痕跡を消し去ったりすることで、現実に起きたことをなかったことにできる、想像的に抹消できると考えられている点である。」(8頁)と書かれている。よっておそらく塩野谷氏からすれば、寧ろ問題ありな考察は、何がどう問題なのか確認できる様にするのが「開かれた議論」だということになるのだろう。となれば二つ目の指摘も、塩野谷氏の見解や、対立した論考が普通にのってる雑誌のスタイルを踏まえてなお、この特集に並べられることの問題点まで言及してくれなければ、やはり同意のしようもない。
三つ目の指摘は、「今回の特集は、「変革」を掲げる雑誌が保守系総合雑誌と並んでバックラッシュに加担」したというものだ。しかし、(一つ目の指摘同様)「主たる寄稿者のイデオロギー的傾向が保守的リベラリズム(「言論の自由」の墨守)やいわゆる本質主義(男は男、女は女)と親和的な方向に偏っている」とまで書かれているのに、どの論考がそうか、またどういう文脈であるかは書かれていない。よってこれまた、この指摘だけから、それが妥当だと考えるのは不可能だ(これも私は実際に『情況』を購入して確認したのでどれがそう言われているか多少見当がついたが)。それに加え、「言論の自由」や「男は男、女は女」は、単に加害的な問題を含むという話では済まず、一方で我々の理解の仕方に関わるものである。よって、それを墨守とか本質主義といったところで、それらがどう逸脱しているのかを解析しなければ、(単に忌避すればよいものではない以上)やはりこの指摘も同意のしようがない。
四つ目の指摘は「『情況』は、傷つけないことを至上価値とする「ポリティカル・コレクトネス(PC)」を批判しながら、”みな対等に争える”という別のコレクトネス(”正しさの体裁”)に陥っているように見える。」というものだ。これまた(一つ目・三つ目同様)どの論考(同士)がそうか、またどういう文脈でそうなっているのか全く書かれていない。それに加え、この様に指摘したいのであれば、各論考同士の掛け合いが、どの様な力関係の不均衡を生み出しているのかを何かしら示唆すべきだろう。ただ「現実的力関係を隠蔽・否認している」と言われたところで、どうそれを是正すればいいのか、また何を以て力関係による隠蔽が除去されたかの判断のしようがない。よってやはり同意のしようがない。
以上四つの指摘の問題点を簡単に確認した。その上で私が一等まずいと思うのは、この声明文の抗議内容が、そもそも正しいかどうか以前に、肝心な部分が何一つ分からない点だ。それこそどういった価値観の人であれ、(勝手な思い込みによる補完抜きで)この声明文に同意することが出来るだろうか。正直私には、この声明文に同意する人たちは、(互いに肝心な理解はないまま)暗黙の了解の上で与している様にしか思えない。どういった抗議文であれ、せめて肝心な部分の確認がとれる形で行われるべきである。それがないまま、『情況』に「方向転換を強く望む」ことに、私は強く反対する。
2.「『情況』は国家か?」の問題点
では次に「『情況』は国家か?」の問題点に移るが、(はじめに少し書いた様に)こちらの抗議は、「『情況』に関する声明」よりもいいと思われる。何故なら、ともあれ塩野谷氏の文章や『情況』の方針について取り上げたうえで抗議しているからだ。なのでどうあれ、(「『情況』に関する声明」よりは)どう抗議しているのかが分かる。ただし、それでもやはり此方の抗議にも問題があると私は考える。それは何かというと、書かれている抗議の内容が(賛否はさておき一応理解はできるものの)要領を得ない点だ。「『情況』は国家か?」は大きく分けて三つの指摘がなされているので、それらを順に取り上げて、それぞれどう要領を得ないか確認しよう。
先ず一つ目の指摘として、(「『情況』は国家か?」を執筆された)小峰ひずみ氏は、何が差別かの線引きは「いやおうなくヘゲモニー闘争に巻き込まれる」ものとし、そこでは「超越論的な立場」さえもひとつの政治的立場であるから、「今回の特集で論客を選んだのは、編集部」である以上、各論考を取り上げて公に流通させた責任を取るべきだという見解を述べている。そして特に今回の特集では、「差別かどうか」を判断して採用した各論考の責任を取るべきだという訳だ。
さて、こうした小峰氏の指摘を汲むためには、ともあれ『情況』編集部がどういう基準で各論考を採用したかを考える必要がある。しかしその基準を考えるなら、今回の特集は編集部が単に内容に同意したもので組まれた訳ではないのは明らかだ。何故なら『情況』は(ノーディベートにより)「同じイデオロギーに立つ人だけが書く内輪的な雑誌しか刊行されず、その支持者しか購入しない」(12頁)事態を防ぐための特集を組んでいたからだ。となれば、小峰氏が指摘する様な採用の責任を(編集部に)取らせるならば、採用の恣意性を各論考のバランスから考える必要がある。特定の論考の特定の箇所が差別的に見えるというだけでは、それが直ちに責任問題になるのかが分からない。雑誌全体を読んだ際に問題が問題として明らかになる議論が可能になっていれば、採用について負い目があるとは言えないからだ。小峰氏は差別的言説を(公に)温床する様な「両論併記」のスタイルを醜悪と見なしている様だが、『情況』全体を通して温床されている差別、及びそれを成立させた採用の仕方の不均衡(恣意性)まで指摘できるのなら、編集部への責任追及の道理も分かるようになる。しかし、「『情況』は国家か?」の抗議文では、編集部が論客を選んだことを、「編集部が掲載論文を「差別かどうか」判断した」レベルで問題にしようとしているため、そこから直ちに編集部に「責めあり」とは言えないだろう。
二つ目の指摘として、小峰氏は、懸念の表明が「異物の排除・排斥」による差別につながるし、「「懸念」はセキュリティの論理を全面化させ、法を停止させる例外状態を呼び寄せる魔法の言葉」だから、『情況』(もとい塩野谷氏)は「「その懸念に惑わされるな」という言葉を対置」する方針を取るべきだとしている。言わば『情況』誌は、少数だったり阻害されやすい立場を包摂し、またそれだけ法に解釈の余地を残せる様に、(特集のテーマを決めつつ)各論考も採用すべきだということだろう。
こちらの指摘も、(妥当しているか以前に)どれだけ理解することが出来るだろうか。小峰氏も「「懸念」の存在こそ対象化し問題にしなければならないと思います。「懸念」に突き動かされてはいけないのです。」と言われているが、懸念が(今回の『情況』が特集を組んでいる様な)異物に抱く危機感であるならば、先ずは異物を理解しないことには、懸念もコントロールしようがないだろう。異物への理解抜きに、いきなり懸念に加担しないように呼び掛けたところで、それもまた別様の「「懸念」に突き動かされて」いる事態に陥ることは想像に難くない。となれば、個々の危惧(や今回の論考)がどう異物を蔑ろにしているかを明らかにし、そこから異物への理解を再構築する筋道を『情況』誌に求めたなら、その指摘を汲むことも出来るかもしれない。しかし、「『情況』は国家か?」の抗議文では、「懸念」という言葉が散見されることから、直接『情況』が懸念に加担していると難じているので、それがどれだけ(各論考の)問題として表れているか不明瞭になっている。
三つ目の指摘として、小峰氏は、(塩野谷氏が)「「キャンセルカルチャー」「陰謀論者」はプラットフォ―ム上の勢力」なのに、「「こんなやつらが存在している」という事実を描写しているかのように書いて、実は行為遂行的に「作り上げている」」点を問題にしている。言わばプラットフォームを基準にした仮想敵への議論の正当化は検証性に欠き、正しい解釈を制定する試みが守られていないというものだ。
この指摘が妥当であるとするためには、塩野谷氏が本当に恣意的に問題を作り上げ考察しているかを確認する必要がある。となると彼はキャンセルカルチャーの話の後に続けて「今ある世界には過去の痕跡が刻まれていて、現在そこにあるものだけでは解釈できない部分がたくさん存在する。」(8頁)と言っているので、果たして今回の『情況』誌の各論考が現在の解釈の外側まで志向していたのかが答えになるだろう。これが例えば、単に『情況』が根も葉もないデマやヘイトを拡散しているだけだったならば、元々ありもしない外部を「キャンセルカルチャー」「陰謀論者」になぞらえて(検証不可能な)でっちあげをしていたのだとして、小峰氏の指摘の信憑性が増すと言える。ただしその逆で、今回の各論考が従来封じられていたような問題や考察を何かしら浮き彫りにしてるのであれば、(外部を拒絶するノーディベートとしての)「キャンセルカルチャー」「陰謀論者」を問題視する必然性(や今までそれを抑圧していたものへの検証)も認められる。ともあれ、これも『情況』の各論考が踏まえられて、初めてその指摘の妥当性が明らかになるものなので、塩野谷氏の言い方だけをもって非難する訳にはいかない。
以上、「『情況』は国家か?」の各問題点も取り上げたが、それらに共通するのは、(本節の初めに書いた通り)各指摘がどれだけ妥当するのかの要領を得ない点だ。それはつまり、「『情況』は国家か?」に書かれていることだけで『情況』に問題があったと(正確に)見定めるのは不可能で、どうあれ『情況』の内容を一通り確認する必要があるということだ。ここが重要で、単に問題がある雑誌はそれが告発されればいいというものではない。そこで何がどれだけ問題になるのか(或いはならないのか)がきちんと検討されることが先ず何より尊重される必要がある。本noteがそのための役割を多少なりとも果たせたなら幸いである。ところで、これを書き終わった時点で既に時刻は午前七時半をまわっている。今となっては、私が完徹して出社することになったのも無駄じゃなかったと思えることを祈るばかりである。
※本当なら、『情況』の各論考も取り上げて、本当にそれぞれの内容が抗議される様なものだったのかを、私からも検討しようかと思っていたが、時間切れなので省略する(あとあまり無理するとマジで倒れるかもしれない)。もしそれもしてほしいという声がいくつもあったなら(或いは誰かサポートで投げ銭してくれたなら)、そちらもきちんと書くかもです(なければもういいかな)。