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映画『回路』が死から語らせた本来語られない筈の絶望について
はじめに:死を恐れるって何を恐れているの?
「いつか必ず死んでしまうことが恐ろしい」、実際にそう感じるかは人によるが、たとえ誰であっても、(少なくとも生きている限りは)この恐怖にいつ襲われてもおかしくない。とは言え、死を恐れることは出来ても、それの何が恐ろしいかを理解することなど出来るだろうか。「そんなの簡単だ。」と答える人もいるかもしれない。おそらくその人は「(生命が停止することで)自分の存在が消滅してしまうのが恐ろしいのだ。」と答えるだろう。しかし私には、この答えに二つの疑問がある。
一つ目の疑問は「何故自分が死んだら消滅するなんて分かるの?」だ。我々が経験できる死は必ず他人の死だ。自分の死を体験することはないので、死んで本当に消滅するかなんて分からない(し、死後も実は消滅しないと説く思想や宗教も色々ある)。そんな疑問は屁理屈だと言う人もいるかもしれない。自分の死は体験しないとはいえ、自分も他人も同様に生きていると考えるならば、他人と同じ死(による消滅)が自分にも生じると考えるのが自然だからだ。しかし消滅を理解するには、元の存在が消える様子を別の視点から捉える必要がある。実際、自分が消滅する様を恐れるためには、それを理解する別の視点を(想像上で)一旦経由する必要がある。この時点で、どうあれ自分の消滅(への恐れ)は別の視点上の取り決めでしか成立せず、素朴に認められない。ただ、この疑問はそこまで本質的ではない。真に問題にすべきは、次の二つ目の疑問だ。
二つ目の疑問、それは「自分が死ぬことについての一番の恐れは、(本当は)自分の消滅ではないんじゃないの?」というものだ。こちらの疑問については、反論云々以前に意味が分からないと思う人が多いのではないだろうか。死という現象が(生命の停止による)存在の消滅につけられた名前である以上、それ以外の何かを恐れていたなら、それは最早死以外の何かへの恐怖になるじゃないかと。勿論この違和感は自然なものである。しかし(単に)自然なことは、それが問題のポイントをついてることを必ずしも意味しない。(一つ目の疑問もそうだが)死と消滅が兎角結びつくのは、単に我々の見方からはそれが一番理解として馴染むからに過ぎない。となれば、日常に生じる死以上に死の核になる部分が明確に見えれば、(自分の)消滅への恐怖だとしか思っていなかったものも、その内に潜むより根源的な恐怖に気付くことは十分あり得る。
黒沢清が手掛ける映画の一つに『回路』がある。この映画を「新しい死生観を提示している」と評価する人がいることは私も知っていたので、この前YouTubeで無料配信されたのをいいことに、私も見てみた。そのうえで、成程確かにこれは日常的な理解より一歩深く死について踏み込んでいると思われたので、本noteで『回路』に即しつつ、死について考察した次第である。この映画を手掛かりに、「死は消滅」という単なる自然な理解をこえた、もっとそもそもの死への恐怖を探っていこう。
本論:『回路』から探る死の理解と死の恐怖の原点
①この映画の簡単なあらすじ
さて、本格的に死の恐怖を探る前に、ごく簡単にこの映画のあらすじをまとめておく。大枠から話していくと、パソコンをインターネットに接続させたら死者の世界(あの世)に繋がってしまい、死者が生者の世界(この世)に逆流して溢れかえってしまうという物語だ。死者は直接生者に襲い掛かる訳ではないが、死者に対面した(死者と顔を見合わせた)人達は、段々と生気を失い虚ろに孤独に苦しむ様子だけを残し、やがてその姿を消す。そして消えた場所には(死体があった痕跡の様な)黒い影だけが残る。この映画では最終的に、日本のどの場所も人の気配がなくなっていき、(生者か死者か判別がつかない)人影がたまに映るだけになる。そしてかろうじて残っている生者の何人かが、船に乗って南米の方向へ、言わば(この映画の中では)まだ十分にネットが普及せず死者を忘却できるかもしれない場所への(一か八かの)旅に出て映画が終わる。では、こうした『回路』の話のどこが死に踏み込んでいると言えるのだろうか。
②映画『回路』を手掛かりに解き明かす死の恐怖について
①で書いた様に、この映画では死者が存在する。よって死は単なる消滅を意味しない。実際この映画でも、人が消えた後に残った影が、生者によっては、影でなくその人そのままの姿に見えることもある。それに加え、この映画ではあの世とこの世を繋ぐ「回路」が開かれ、死者がこの世に流入しているのだから、生者と死者の間に(表面的な違いは有れど)本質的な差は存在しない。(注1)よって、『回路』では、たとえ死が消滅ではなかったとしても、尚残る死(や死者)への恐怖を描いている(し、その点で一歩深く死について踏み込んでいる)と言えるのだ。
ただしこの様に述べると、早速次の様な疑問を持たれる方がいるかもしれない。「たとえ『回路』が(単なる)自分の消滅には留まらない死への恐怖を描いていたとしても、それはあくまで、あの世とこの世が繋がるという設定上の話ではないか。そもそも死を自らの消滅(死者やあの世は想像の産物)だと確信して(それに恐怖す)る見方とは初めから話がかみ合わないではないか。」と。しかしここが重要だが、映画『回路』から死の恐怖を探るために重要なのは、(単なる)映画内の設定や世界観そのものではない。(『回路』にリアリティーを感じるにしろ感じないにしろ)何故そんな世界観が設定されたのかを、映画内の個々の描写から探ることが肝心なのだ。死が事実どうであれ、それの何に恐怖するかを明らかにするには、死の様々な受け止め方の根っこで共通しているポイントを見定める必要がある。そのことを念頭に置きながら、映画『回路』の描写を検討していこう。
まず特徴として挙げられるのが、(『回路』のインターネットで繋がった)死後の世界では、パソコンのモニターの中に一つの部屋、一人の死人しか映らない点だ。(同じモニターに)別の死人が映る際は、別の一つの部屋にまた一人だけ死人がいる映像に切り替わる。また、死人が現世を徘徊する際もずっと単独のままで、死人同士が遭遇する様子は一切ない。こうした表現が示す様に、死人は一度死を引き受けてからは永遠に孤立する。何故この様な表現が、(実際に存在するかはさておき)死人の描写として有効になるのだろうか。
私達は生きている間当然の様に他人と言葉を交わし共存している。また、自らを無数に存在する人間の内の一人として理解している。しかし果たして、実際に死を経験しても尚この様な理解をすることが可能だろうか。死は(それが事実どの様なものであれ)唯一一度きりしか起きない。そして一度起きれば、もう二度とその経験を、たとえ死人相手であれ共有することは出来ない。何故なら、他人の死はその個人の人生の終焉であったのに対し、実際に起きる死は、他ならぬこの自分の人生に終焉をもたらすからだ。たとえ仮に、死後に(何なら生前の記憶や人格を引き継いだままで)死人になったとしても、死そのものを言葉の上で共有することは出来ない。共有しようとしたところで、相手は必ずこの自分の死を(此方とは)ズレて理解するしかないからである。よって、映画『回路』の設定が成立する背景まで理解しようとすると、必然的に死の一番肝心な部分は他人に伝わらずに、自分一人だけの理解として引き受けるしかない。この点で、『回路』の死人の描写が確かな説得力を持つ
しかしこの様に述べると、今度は次の様な疑問を持つ方が出てくるかもしれない。「死の理解が自分と相手では必ずズレてしまうのを認めたとしても、果たしてそこから死が自分一人だけを孤立させると言えるだろうか。我々は生きている段階で、既に「この自分」についての理解がズレているが、それでも問題なく相手と言葉を交わし共存しているではないか」と。こうした疑問を持たれた方は、もう一度生者と死者の違いに注目して頂きたい。生者は何をするにしても、またどういった人間であるにしても、ともあれ既に生きている。(注2)そして我々は(既に)生きた上での中身を言葉にして相互理解するので、生きることそのものの理解がズレたとしても、共存するのに何も困らない。一方死はどうか。死がこの自分を消滅させるのであれ、あるいはその後も(この自分が)死人として存在し続けるのであれ、死により必ず人生は終わる。そして実際に死が訪れてさえしまえば、否応なく自らが迎える終わりを自覚するしかなくなるし、また(他人と共有できる様な)他のあらゆる理解は、(この自分が引き受けた)死の孤立を埋められない。(注3)となると、死への恐怖は、必ずこの(誰にも理解してもらえない)孤立に関わるものである筈なのだ。死における孤立は、消滅以上に、死についての理解に必然的に伴っているとも言えよう。そのことに注意した上で、映画『回路』が孤立についてどこまで解析しているのかを確認し、本論を締め括ろう。
『回路』が描く死の孤独にとって一等重要になるのが、この映画の登場人物である川島亮介(加藤晴彦)と唐沢春江(小雪)のやり取りである。亮介は、現に自分や春江が生きていることから、モニターに映った死後の世界や死人をまともに取り合う必要はない(死に脅える必要はない)と春江を説得する。一方の春江は、死人と生者が地続きなら、死後も永遠に一人ぼっちで、それは(本質的には)生きてる間も死同様本質的に一人ぼっちであることと変わらないと思い悩む。言わば亮介は(現に生きているという)事実から死と決別する態度をとるのに対し、春江は死をどうゆうものか理解することから捉えようとしている。よってこの映画の中で二人の視点が(一部重なることはあっても)かみ合うことはない。では、この二人の視点を対比させることで死の孤独の何が明らかになるだろうか。
先ずは亮介の態度から検討すると、現に自分は生きているから死を取り合わないという表明には確かな説得力があると言える。単純な話、自分が生きている事実がある以上は、死の方は不在になる(現前しない)に決まっているからだ。(注4)ただしこの確信が通用するのは現実直下の今この瞬間でしかない。これからの自分がどうなるかについて思いを巡らせるなら、(人生の終わりとして)必ず死への恐怖も引き受けなければならなくなる。一方の春江は、理解ありきで死に思いを巡らすため、死の孤立から捉え返せば生も本質的に同様の孤立を抱えることに気付けるものの、(亮介が前提にしていた様な)現に自分は生きているという端的な事実を見失いがちになる。言わば亮介が生の事実にかまけて死の恐怖の実態が何であるかがさっぱり見えていなかったのに対し、春江は死の恐怖の何たるかをつかめていたが、それ故にそもそも自分が生きていることの自覚が不十分になっていった(自分が死人とどう違うのかよく分からなくなっていた)訳だ。これら両者の視点を複合的に捉えた時に、初めて死の孤立、ひいてはそれによる恐怖の実態が明らかになる。
本来死は、自分が生きている事実に即して向き合う限り、それへの恐怖は想像の域をこえられない。生きている事実の延長線上で死を捉えられない以上、決して現れないものへの(不毛な)恐怖としてしか感じようがない訳だ。しかし一方で、死は生の理解に必然的に伴う。それ故に、私達は(たとえ想像上に過ぎずとも)他人の死から同様に理解できる(この自分の)死に恐怖することからも逃れがたい。ただ、単に他人の死に重ねて死を恐怖するだけなら、その恐怖は一番馴染みやすい想像の仕方(例えばこの自分の消滅)に委ねられるだけになる。しかし映画『回路』は、死の側を生の側へ逆流させる状況を(思考実験的に)立ち上げることで、私達に否応なく死の理解の原点について気付かせた訳だ。それが春江の気付きでもあった、生は死によって孤立をむき出しにされ、完全に共有不可能な世界にこの自分が押し込まれることである。(注5)死の恐怖が生の理解に伴うものである以上は、(たとえ死が事実どの様なものであろうと)先ずもってこうした(死による)孤立がそもそもの死の恐怖となる。元々あった恐怖を(特定の想像の仕方で)別様の恐怖に変質させてしまうことなく、適切に元通りのままに恐怖し、またそこから適切に絶望するための一助にこのnoteがなってくれれば幸いである。
<脚注一覧>
(注1)因みに映画『回路』が「あれ、もしかして俺って生きているつもりだけど、死者と同義の存在になってるんじゃないか」と再確認させる映画であることをYouTubeで解説してる方がいたので此方でも紹介しておこう。→https://www.youtube.com/watch?v=Zoeom4ATH7I
(注2)確か大森荘蔵が『流れとよどみ』の中で、「食べる」「眠る」「遊ぶ」等々といった行為に対して、「生きる」ことだけは常に既に成立しているという特別さを議論していた筈である。残念ながら、今手元にないので確認できないが、今後確認できた場合は、こちらの注に詳細を書き足す。
(注3)しかしここでも尚「もし死後の世界がある(か死人が存在する)のなら、(この自分についての理解がズレても共存できたのと同様に)死の理解がズレたまま共存は成立する。」と反論したくなる人がいるかもしれない。しかしこうした理解は(例外なく)死を生の延長として理解を変質させている(つまり本質的に死を拒否することで共存を尚成立するものと見なしている)。少なくとも死を人生の決定的な終焉と位置付ける以上は、そもそもこうした話が出来なくなる点に注意してもらいたい。
(注4)因みにこうした筋道から、死が(現に生きている)我々にふれることは決してないことを強調した哲学者(の代表格)として、エピクロスを挙げられるだろう。ただし此方の著作も今手元にないので、今後確認できた場合は、こちらの注に詳細を書き足す。
(注5)因みに、この映画の後半で春江は、自分(と自分がいる部屋)だけが、(他の死人同様)パソコンのモニターに映っていることに気付く。そこから彼女は、たとえこの自分が(本質的には)死者と同義になって孤立していても、他の死者も同様に孤立していることから、共有できなさを共有できる(共有できないことが俯瞰的に各モニターの様に並列される)ことに思い至る。そこで「私一人じゃない。」と笑顔になり、死人と対面し接吻するシーンがあるが、勿論この接吻のシーンには、春江一人しか映っていない。ここには理解を突き詰めていった結果折り合いがつく地点と、それはそれとして実際何も変わっていない(相変わらず完全に孤立している)有様が同時にアイロニカルに表れていると言えよう。