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小峰ひずみ氏の問題提起への指摘文

はじめに:私が小峰氏の問題提起の何を指摘するのか

 さて、この文章を私は貴重な休日を割いて書いて…………といういつもの(だれとくな)前置きは省略し、さっそく本題にうつるが、私は本noteで小峰ひずみ氏の以下の二つの記事には問題があると見なし、それを指摘する。以下、これらの記事に言及する際は、上を「卑劣か?」記事、下を「防衛戦」記事と省略して呼ぶことにする。

以前私は以下の記事でも、小峰氏の記事への抗議文を書いている。

 ただし、今の内にことわっておくが、今回の指摘は、以前の記事よりも(内容的に)厳しいものになる。というのも、以前の記事は(賛否はさておき)一応は氏がどういった抗議を行いたいのかは理解できたので、それに納得するために必要な筋立てを要求するレベルの抗議で済んだ。しかし今回取り上げる二つの記事は、筋立てそのものを拒否している。どういうことか。

 今回私が指摘する二つの記事の内容は、基本的に小峰氏の要求(や根拠なき断定)と、その要求をする(氏からした)必然性の解説しかない。よって、そこには要求の内容の妥当性を理解するための説明がはじめから欠如している。そして氏はそれを承知の上で要求をしており、説明を拒否することも氏の要求(をだす必然性)に含まれている。本noteの私の指摘は、そうした(妥当性の検討を欠く)一方的な要求(や断定)は認められないでしょうという話を逐一繰り返すだけである。

 自分でこんな指摘文を書いておきながら言うのもなんだが、正直私は気がのらずにこの文章を書き続けている。小峰氏ご本人が承知の上でやられているムチャを、私がバカ正直にムチャはムチャだから指摘していくよと、釘をさすばかりの内容になるからだ。書いてて何が面白いのやら。しかし面白くなくとも、大事なことは大事(だから蔑ろにしてはいけないん)だよという必要は私も感じているので、やるだけやっていこうと思う。勿論私はこの指摘文も議論として扱われることをのぞんでいるので、このnote(や今までの私の文章)におかしな箇所があると思われた方は、どなたでも忌憚なき批判をくわえてもらいたい。

 本noteは基本的に三つの章立てで整理する。初めに、小峰氏が一方的に行っている要求(や断定)の中で特に大きな問題になるものをまとめる。次に何故氏がそうした要求(や断定)をするのかについて、氏からの必然性をおおまかにまとめる。最後にそれら二つに対して、私がそれらの話は認められないでしょうと釘をさすという流れでまとめる。

①.小峰氏が何を要求(したり断定したり)してるか

 では、小峰氏の要求(や断定)の中で、(細かい話まで取り上げると際限がなくなるので)特に問題になりそうなものを順にまとめよう。小峰氏の大体の要求は、『情況』2024年夏号の討論会に関わるものになっている。私は見ていないが、この討論会のゲストの一人として小峰氏は参加される予定だったようだ。そして「防衛戦」記事によれば、小峰氏は(『情況』側の要望により)討論会を降板されている。

1.『情況』の討論会で、他の登壇者の議論につきあわない。

・小峰氏は他の登壇者の主張に賛同も反論もせず、そもそも議論自体を拒否するという要求(態度表明)を、「卑劣か?」記事で行っている。

2.討論会で『情況』の編集方針への異議申し立てをする。

・小峰氏は『情況』の(トランスジェンダーに関する)「両論併記」の編集スタイルに特に問題があると見なし、マイノリティー側を擁護する編集(及びそれに関する討論会)をするよう要求し、またそれについての議論を討論会で行うことも要求している(「卑劣か?」記事)。

3.小峰氏を登壇させて議題を変えた討論会をするか、『情況』編集部が小峰氏に反論文を書くべき。

・2の要求が受け入れられなかった場合は、その要求を含めた記事を議論に値しないと『情況』編集部が考えたことになるため、何故そう考えたのかの理由が分かるような反論文を(編集部が)書くべきだと要求している(「防衛戦」記事)。

4.他の登壇者が差別者(トランスヘイター)と、トランス当事者等から思われていることを前提とする。

・討論会の間、他の登壇者である谷口一平氏と小谷野敦氏の両名がトランスヘイターだと(トランスジェンダー当事者達から)思われていることを前提に考えることを表明(断定)している。よって、(前提であるため)本当に二人がトランスヘイターなのかは証明しないまま、1と2を要求するとしている(「卑劣か?」記事)。(※1)

5.『情況』編集部が他の登壇者をどうすればよいのか考え直すべき。

・この討論会はトランス当事者の信頼を得ていない点で不成立であると小峰氏は考えているが、(小峰氏でなく)『情況』編集部が他の登壇者をどうするか考え直すべきだと断定している。(「卑劣か?」記事)。

 (細かい話を抜けば)大きく問題になるのは、以上の五点になる。それでは次の章で、小峰氏にとってどういう必然性でこれらの要求(断定)をしていたのかを確認しよう。(※なお、丁度ここまで書いたタイミングで「卑劣か?」記事が有料になったので、ここから先は、有料部分に関わる内容は私の記憶を頼りに書いていくことをことわっておく。もし勘違いしたことを書いていたらご指摘ください。)

②.これらの要求(断定)をする小峰氏にとっての必然性は何か

 では、何故小峰氏は①で取り上げた要求(断定)をしているのかを、順々に取り上げていくが、先ずは五点の要求全ての下敷きになっているポイントを提示しておこう。それは、小峰氏がこの討論会(ひいては両論併記の議論)を行うこと自体が、トランスジェンダー当事者を迫害することに繋がると考えられている点だ。

 多少私の推測も交えつつ話すと、おそらく小峰氏は、例えば実際に身体の性別と自らの性同一性が一致しないといった様な違和感(苦痛)を感じる人達が(人類全体の内で)ごく少数である以上、そうした少数の人達の言葉を優先的に取り上げなければ、自然人々の性(ひいてはトランスジェンダー)への理解は、多数派と一致し、少数派の理解は蔑ろにされてしまうと考えておられるのだろう。また、さらに言えば、小峰氏は「ノーディベート・ノープラットフォーミング」を(基本的には)支持されてる様だが、議論の枠組み次第では、たとえトランスジェンダー当事者(実際性の違和感を感じる人達)の言葉でも、当事者の迫害に繋がるとも考えておられるようである。なので、「卑劣か?」記事(の無料部分)でも、件の討論会にトランスジェンダー当事者を呼ぶだけでもダメで、プラス『情況』の特集の仕方に批判的である必要があると言われている(小峰氏によれば他登壇者が特集の仕方に肯定的であるため)。では、前章の五つの要求(断定)が、それぞれ小峰氏にとってどの様な必然性で言われているのか簡単に確認していこう。

 先ず1だが、これは先程書いたポイントが如実に表れているのだろう。小峰氏から見たら、そもそもこの討論会が、「ノーディベート・ノープラットフォーミング」を採用する人達を登壇させられない時点で、誰に何を語らせても少数派の迫害に繋がるのだろう。よって、議論自体を拒否したのだと。

 次に2だが、これは1の延長線の話で、小峰氏から見たら、議論の枠組み自体が少数派の迫害に繋がる以上、(議論の場に関わる)編集の仕方自体が変更され、そもそもトランスジェンダー当事者にとって不都合な話が出てこないような場が整えられる必要があるという話なのだろう。なので他登壇者との議論を拒否しても討論会には参加するということに。

 そして3だが、これは1と2が小峰氏からしたら(少数派を守るための)大義を抱えた批判だから、これに応じないのであれば、きちんと反論というかたちで議論に応じるべき(小峰氏の要求が単に通過されるのは不誠実)だという話だと思われる。

 4については、「卑劣か?」記事の有料部分に関わる部分なので私の記憶だよりになるが、確か討論会が対立的な枠組みを組んでいる以上、谷口氏と小谷野氏が本当にトランスヘイターか立証した時点で、討論会の前提にのってしまい、少数者の迫害に繋がるからといった話だった筈だ。それでも、小峰氏からしたら他登壇者は議論を拒否すべき相手になるためトランスヘイターとして(討論会においては)扱うと。

 最後に5は、これも有料部分なので私の記憶だよりに書くと、小峰氏からしたら責任は(小峰氏でなく)『情況』編集部にあるのが大事だという話だった筈だ。議論の設定自体が、少数者への迫害に繋がるのだから、その場を設立する側が責任を持つ必要があるのだと。

 以上、私なりに小峰氏にとっての諸々要求するに至る必然性をまとめた。それでは最後に③で、①②全体を踏まえた上での問題点を指摘して、本noteを締め括ることにする。

③.小峰氏の問題提起への指摘

 それではこれから小峰氏の各内容に対してよくない点を指摘していくが、前もって言ってしまえば、小峰氏が書かれていることに指摘すべき所が幾つもあることなんて、誰にでも容易に分かる。何せ氏は、討論会に出ながらまともに議論しないつもりだったそうだ(し何なら一定の条件下では討論会を妨害までするとまで「防衛戦」記事で書いている)し、説明抜きに他登壇者をトランスヘイター呼ばわりする(話の前提にする)し(※2)、『情況』編集部には、一方的に場の設定に失望しておきながら、どう討論会を変更してほしいかは何も言わないし、その上雑誌の編集方針は氏が干渉すると言っているのだから(他にも色々あるがキリがないので省略する)。私が本noteで取り上げた小峰氏の記事に賛同している方々も、まさか氏が書かれていることに何も問題がないとは思われていないだろう。おそらく、問題があるのは承知の上で、その上で氏の問題提起(特に本noteの②の箇所)が重要だと思われているから賛同している方々がいるのだろう。

 そして勿論、「はじめに」でもふれたが、小峰氏も明らかに問題(ムチャ)ばかりなのは承知の上でやられている。なので、今回取り上げた二つの記事にはそもそも筋立てすらないのは当然といえば当然で、初めからムチャなものは、筋の通しようがないに決まっている。それでもそれが少数者を守ることに繋がるという必然性が小峰氏にはあるから書かれているのだろう。

 本格的に指摘していく前にことわっておくと、私が小峰氏に今回の二つの記事で一番(言論人としての)敬意を抱けるとしたら、ここになる。自らの中に必然性があるのなら、それをきっちり文章で貫き通す。確かにこの点は言論人としての美徳だと私は思う。なので、小峰氏のその姿勢に敬意をはらいつつ、私なりに、おかしいところにはおかしいと釘をさしていく。では先ず、小峰氏の記事全体に関わる話から。

 小峰氏は、(②でも書いた様に)多数派に即した議論をする(あるいはその枠組みにのる)ことが、少数派の迫害に繋がると考えられている節がある。その上で、例えば小峰氏は「防衛戦」記事で、三段論法でいうところの大前提を一旦拒絶することが「防衛戦」では重要だという話をされている。大前提が隠されている場合、それにのってしまうと、必然的に小前提と結論の段階の話へ移行するから、先ず大前提をあげつらうのが「防衛戦」だと。この大前提が多数派の土俵になるのだから、少数派を棄損させないために大前提にのらないし、そのためなら議論を拒絶するような問題行動だって引き受けるということだろう。そして私から言わせれば、ここに最初(かつ最大)の指摘ポイントがある。

 大前提は、本来多数派の占有物ではない。少なくとも大前提それ自体には多数派も少数派もない。どういうことか説明しよう。例えば小峰氏は、有名な三段論法①人間は死ぬ(大前提)②ソクラテスは人間である(小前提)③だから、ソクラテスは死ぬ(結論)を例に挙げ、「防衛戦」では、ともあれ人間は死なないのだという立場に(一旦)たつのが大事だという説明をされている。ここでは「人間が死ぬ」という大前提自体が多数派の土俵という扱いなのだろう。しかしそうではない。私に言わせれば、「人間が死ぬ」というテーゼ自体が多数派の土俵なのではなく、「人間は死なない」という(異端的な)立論の取っ掛かりを拒否するようになったら、そこで初めて多数派の土俵が出来上がるのだ。そもそも、「人間が死ぬ」が(多数派や少数派に分かれることなく)共有されるからこそ、「人間は死なない」とも言える様になる(「人間が死ぬ」というテーゼを経由せず、「人間は死なない」と理解して言える筈がないではないか)。

 この話だけだと次の様な反論がくるかもしれない。「人間が死ぬ」かつ「人間は死なない」という理解が成立しない以上、「人間が死ぬ」という大前提それ自体が、「人間は死なない」(による立論)を拒絶しているではないかと。しかし私に言わせるなら、それは「人間が死ぬ」ありきの立論内部の話だけである。「人間が死ぬ」ありきの立論が存在してしまうと、直ちに「人間は死なない」ありきの立論が封じられる訳ではない。わざわざ異論を立てる余地を封じたときに、初めて少数者への排斥は排斥として成立する。そして、今回の討論会への抗議文で小峰氏がやっている「防衛戦」は、異なる大前提の拒絶ではなく、大前提そのものへと向かっているため、不当だと私は考える。何故そう言えるのか。氏が議論そのものを拒絶したからだ。

 議論そのものを拒絶するということは、相手の土俵に巻き込まれるかどうか(相手が異端の土俵を排斥するか)という話以前に、そもそも土俵そのものを拒絶するということだ。そして多数派であれ少数派であれ、およそ人は何かを理解する以前に何かの立場に立つことは出来ない。議論の拒絶は、立場(間の力関係)云々の話以前に、自己理解の機会を奪うことに繋がる。よって、少なくとも今回小峰氏が行った「防衛戦」は、少数派の擁護ではなく、それ以前の擁護にも繋がる取っ掛かりを破壊したことになる。

 ただし、この様に述べると、今度は次の様な反論が来るかもしれない。今回小峰氏は議論の場自体に(『情況』編集部による)恣意性があることを見抜かれていたから、議論を拒否していたではないかと。議論が都合よく異論(当事者の大前提)を排斥する流れに場が設定されていたのだから、それを拒否した「防衛戦」は正当であったではないかと。そして確かに私は、(①でも少し触れたが)今回の討論会を見ていない。よって、実際の議論の流れや場の設定に関しては何も言えない。しかし小峰氏の書かれている内容を踏まえる限りでは、この反論は受け入れられない。

 何故なら、小峰氏は(「卑劣か?」記事で)「欠席裁判(当事者の不在)」と「藁人形(資格なき当事者の代弁)」という二側面から議論の場の恣意性を暴こうとされているが、これに「ノーディベート・ノープラットフォーミング」への支持が加わることで、小峰氏が認める少数派のための場が、最早小峰氏の考えにとって都合よく議論が進み、少数派の理解を損ねる場の要求になってしまっているからだ。どういうことか。

 先ず「ノーディベート・ノープラットフォーミング」をよしとしながら、討論会に絶対に当事者が必要なのにいないと難じることで、(小峰氏に従えば)この討論会に参加するトランスジェンダー当事者が出た場合、その当事者は何故ディベートを行うのか弁明することを強いられる。となれば当然トランスジェンダー当事者は当事者として利することがディベートで明らかになるといったことを言わざるを得なくなる。そうなれば、もう討論会はトランスジェンダー当事者と非当事者の対立の上でトランスジェンダー当事者に利する流れに寄り添うという場でしかなくなる。つまり少数派であれ多数派であれ、当事者であれ非当事者であれ、自らが何らかの立場に立つ基となる理解(土俵)そのものが蔑ろにされるということである。

 何故このようなことになるのか。それは小峰氏が、少数派のためだといってやろうとしていることが、どれもこれもムチャなパフォーマンスに直結しているからだ。本当は小峰氏だって、こんな風に私にグダグダ長文noteを書かれる前から、大前提が一方で少数派(を含むあらゆる人々)の理解の支えになることも、議論が一方で少数派(を含むあらゆる人々)が自己理解できるための契機を提供する一面があることも知っていたことだろう。そこにきちんと向き合った上で、尚特定の大前提が他の大前提(による立論)を排斥していたり、議論間の力関係が視野の一部を覆い隠すことを問題にしたいのであれば、どの立場からも必要になる話が、都度どの様に一部が疎外される不均衡へと様変わりしていくかを見分けていくような、非常に骨が折れる地道な作業が求められる筈である。もし小峰氏がそこまで緻密な検討をされていたのであれば、(それに賛同するかは読んでみなければ分からないが)少なくとも氏の姿勢に深い尊敬は抱けただろう。過度に政治の問題にして、少数派の擁護を推し進めるために、少数派の理解に関わる問題まで無暗に多数派との対立に落とし込み、多数派に(大げさな)喧嘩を売ることを少数派への擁護に繋げる様な話には、残念ながらこうやって一々釘をさしていくしかない。

※1→この点については、言われなきトランスヘイター認定された谷口一平氏が、抗議文を提出し、小峰ひずみ氏がそれを受け入れ謝罪し、当該部分が削除されたようである。詳しくは以下を参照。

※2→※1に書いた通り、ここは改訂された様である。

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