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西田幾多郎の哲学を引き受けることの困難ー京都大学秋季講義「他者を知るということ」への検討を通してー

はじめに

過去にあった哲学を引き受ける際に困難な課題となるもの、その一つが哲学用語だ。モナド・イデア・イマージュ・超越論的統覚などなど哲学用語は無数にあるが、それらを適切に説明しつつ運用しただけでは、その哲学の肝心な部分は明らかにならない。いくら既存の哲学用語の上で思考されても、過去の哲学者が考察した後の体系をまとめることしかできないからだ。実際に過去の哲学者が試行錯誤した初めの段階から検討されなければ、その哲学の大元の取っ掛かりは見失われてしまう。

さりとて、単に既存の哲学用語を抜きに過去の哲学が説明されるのも不味い。過去哲学者が新たな哲学用語を定義する際は、その用語によって自らの哲学を展開しようとしているため、その哲学者ならではの問題意識が新たな哲学用語と不可分に結びつくからだ。過去の哲学者一人一人にある独自の切り口を抜きにして、それらの哲学を説明するのも、およそ引き受けたとは言い難い。ではどう哲学用語と向き合えば、それを用いた哲学を引き受けられるのか。おそらくその答えは一つだろう。

それは、哲学用語の再編成である。既存の哲学用語に即して過去の哲学を辿りつつも、また自ら一から考察し直すことによって、過去の哲学者以上にその哲学を徹底させ、改めてその哲学用語を捉え直すことだ。そうすれば、過去の哲学者ならではの問題意識を汲みつつも、その哲学が成立する取っ掛かりだって自ら確認出来る。

しかし、言うは易し行うは難しで、既存の哲学用語に即しつつも一からそれを考察し直すことは生半可なことではない。実際にそれが可能になる道筋を提示しなければ、どうそれが可能になるのか想像すらし辛いだろう。そこで本noteでは、YouTubeで無料配信されている京都大学の秋季講義「他者を知るということ」(https://www.youtube.com/watch?v=1SSeUjapMUU)を検討することで、西田哲学を引き合いに出し、哲学用語に即した考察の捉え直しを行うための手順を提示しよう。この講義は上原麻有子教授(以下上原氏)によるもので、西田哲学(と一部田辺哲学)をベースに行われている。西田哲学と言えば、定義の紹介もなしに新たな哲学用語を持ち込み、ろくに説明しないまま理論を展開してしまうことでも有名な哲学だ。なので、これを引き受けるための道筋を示せたら、哲学用語を再編成するための目途も立つと言える。

1.講義「他者を知るということ」で注目すべき点は何か

これから西田哲学を引き受けるための道筋を示していくにあたり、何故上原氏の講義を検討するのかについて簡単にふれておこう。それは、この講義が単なる西田哲学の受け売りではなく、独自の問題意識から西田の哲学を捉え直しているからである。そうした講義を検討することで、過去にあった哲学の引き受け方の見通しを立てられる。ただし、これも予め断っておくと、本noteでは、(本章で)上原氏の講義の見習うべき点にふれた後で、(次章で)上原氏の講義内容の問題点にもふれる。それら両面を踏まえ、どういう手順で哲学用語を再編成したらいいのかについての結論を出そう。

上原氏は「ある自己とある他者の対話が、社会の基本単位である」(5分40秒頃~)という見立てのもとに、西田哲学の考察に即しつつ、基本となる自他関係についての考察を展開している(14分頃~)。ここで注目すべきは、上原氏が「絶対の他」「自覚」「直観」「承認」「呼声」といった西田哲学ならではの用語をそのまま説明するのではなく、自身の考察を検討する形でこれらの用語を掘り下げている点だ。以下それを簡単に確認していこう。

上原氏は、西田哲学(の特に「絶対の他」「自覚」「直観」)を踏まえる形で、自己がそれ自身だけで確立されていない本来の水準で、他者が(絶対に他であるままで)直接に結合される有様に注目されている。「考える自分」と「考えられる自分」が分離して分析されるにも関わらず、思考の直中においてそれらが一致する(という直観的)把握がある様に、他者と事実において直に(自己が)一致するところがあり、氏は敢えてそこに本来の対話の可能性を認めている訳だ。こうした議論の筋道の大枠からも分かる様に、講義「他者を知るということ」では、西田哲学(の各用語)を適切に取り上げつつも、それらをきちんと氏自らの考察と照らし合わせている。するとどうなるか。西田哲学(の各用語)について、単にそれらがどう考えられたか、ということだけでなく、何故その様に考えられるに至ったかまで見えてくる。一度自他の関わりが現実から検討されることで、我々の元々の捉え方から西田哲学(の各用語)を辿れるという訳だ。

また、氏は、西田哲学では「言葉以前の自他の関わりばかりで言葉による関わりが見えない」(42分30秒頃~)とか「自他の対等性しか見えてこない」(47分頃~)といった批判も行っている。あの講義のテーマは対話にあるが、そうした自らの問題意識の基に西田哲学(の各用語)を捉え直すことで、西田以上に西田の考察を説明しようとする試みが伺える。西田に即しつつも、言語に先立って(比喩的な)自他の応答関係が読み込めることの重要性と、それが言語上や実際の関係とズレることの難点を同時に示すことで、自らの思索で引き受ける形で、西田哲学(の各用語)を辿ってみせている。

以上の点から、上原氏の講義「他者を知るということ」は、西田哲学を取り上げる一つのモデルになり得ると言えるだろう。しかしにも関わらず、(本章の初めで書いた通り)この講義内容には問題点もある。よって次章ではそれについても一通りふれた後に、結論で(西田哲学を軸に)哲学用語を再編成するための手順を示そう。

2.過去の哲学を辿ることと汲み取ることの間にある決定的な差異について

予め講義「他者を知るということ」にある問題点とは何かについて一言でまとめると、それは上原氏の考察が西田哲学を(誤読しているのでなく)上滑りしている一面があることだ。確かに上原氏は(自身の問題意識に即し)西田の各哲学用語を捉え直そうとされている。しかし、いくら哲学用語が(元の)哲学者の問題意識を反映しているとは言え、一つ一つの哲学用語を捉え直せば、それが元の哲学者の問題意識を浮き彫りにしてくれる訳ではない。この非対称性まで踏まえないと、哲学用語の再編成は成しえない。実際に確認していこう。

上原氏は、講義「他者を知るということ」にて西田の論文「私と汝」にある以下の文章を説明することに挑戦されている(16分頃~)。

  私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は
  汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合
  するのである。(NKZ6、381)

この文章は(上原氏も講義内で言われているが)研究者がよく引用するにも関わらず、中々明確な解釈を与えられないことでも有名な個所だ。それを上原氏は、自分の存在を(深く思考することで)能動的に突き詰めることで、自己と他者がそれぞれ自己となるプロセス(西田の用語でいえば「自覚」)において、自己と他者が互いに(代替不可能な)人格的存在であることを把握する(西田の用語でいえば「承認」)話として説明されている。この説明は、おそらく西田哲学の理論の筋に沿っている。また、西田を離れた現実の事実からも検討されることで、誰にとっても関わりのあるところから説明が成立している。にも関わらず、この説明だけでは西田哲学(の「私と汝」)の肝心な部分が見えてこない。何故そう言えるのか。

そもそもこの「私と汝」という論文は、西田が場所の論理を確立させた後に作成されたものである。場所の論理をきちんと解説しようとすると、それだけで丸々一つ別のnoteを書くことになるので、本noteに関係ある限りで簡単に説明しよう。西田は「場所」という用語を「於いてある」という把握から考えることで、自分を何かしらの存在としてではなく、何かしらの存在がある際に、それが「に於いて」把握されることを可能にするもの、言わば殊更「に於いて」と考察して取り上げなければ端的に無であるものと洞察し、それがどう日常的理解に通じているのかを形式化(論理化)した。こうした(大まかな)説明からも伺える様に、西田哲学の自己(の取り上げ方)は、何かしら元々の存在ありきで理解する我々の日常的理解から逆転している側面がある。個々の存在を基に理解が成り立つにも関わらず、敢えて(わざわざ)「無の場所」という存在の裏側を問い直した点に、西田ならではの哲学的切り口が認められる。この日常的な把握の逆転を取り上げずに、日常的把握の徹底として説明しきってしまうと、(内容に誤解がないにも関わらず)西田哲学の肝心な部分が曖昧になる。これが上原氏の講義にある問題点だ。

ただし誤解してほしくないのだが、筆者は上原氏が講義で「場所の論理」を大きく取り上げなかったことが直ちに問題になるとは考えていない。前章でも述べた様に、氏は幾つもの西田の哲学用語をきちんと引き受けているし、また直接場所に言及しなかったのは、西田を知らない人にも考察の重要な点を伝えるための配慮でもあっただろう。ではどうすればよかったのか。

筆者は「はじめに」にて、「哲学者ならではの問題意識が新たな哲学用語と不可分に結びつく」ため、「単に既存の哲学用語を抜きに過去の哲学が説明されるのも不味い」と書いたが、単純に哲学用語を抜くのではなく、その哲学用語に結びついた問題意識の方を重点的に取り上げることは出来る。一例を挙げると、西田は論文「私と汝」で以下の様にも書いている。

  真の生命に於ては我々は絶対に非合理なるもの、物質という如きものに
  撞着するのである。そこには真に限定するものなきものの自己限定とし
  て、唯、事実が事実を限定するというの外ない。我々は、唯、之を映す
  と考えるのみである。(NKZ6、359)

ここで西田が述べている様に、現に(真に)生きていることへの理解も、物質という究極ただ実在しているとしか言いようがないものに行き着くと、それは唯事実そうだからとしか把握できなくなる(特定の内容に依らない事実それ自身の限定でしかなくなる)。そこで、それ以上遡源不可能な段階において、敢えて「映す」という、現にある(としか言いようのない)ものを反転した側から考察を行っていることが、上記の引用から読み取れる。こうした記述に注目すれば、殊更「場所の論理」を取り上げずとも、西田ならではの切り口が見えてくる。言わば上原氏の講義は西田哲学の説明(と西田の課題)を引き受けたものの、それがどう西田にとって重要だったかについての話を欠いている。そこまで講義の内容に含めれば、本noteの課題である哲学用語の再編成が成立する手順を示せていただろう。では最後に、本章のはじめで上原氏が説明しようと挑戦されていた有名な西田の一節が、西田哲学の切り口まで踏まえると、改めてどう解釈され得る様になるのかを簡単に確認し、結論を述べる。

西田が述べる「私の底に汝があり、汝の底に私がある」というのは、確かに上原氏も言われる様に自己と他者で「自覚」が共有される(他者が絶対的に他であるままで自己と結合することへの直観の)話である。しかし先程の西田の記述も踏まえるなら、それは単に自他の存在を突き詰めた先の話なのではなく、敢えて(存在者の裏側から)無として自己を捉え直したにも関わらず、そこで尚私と汝が撞着してしまうという矛盾、言わば事実無である自己が他者と(内側から)結合してしまうジレンマの話でもある筈なのだ。実際、西田も論文「私と汝」にて「絶対の他と考えられるものは、私を殺すという意味を有って居ると共に、我々の自己は自己自身の底にかかる絶対の他を見ることによって自己であるという意味に於て、それは私を生むものでなければならない。」(NKZ6、401)とも書いており、自他の自覚の共有による自らの把握(成立)は、本来何かしらを映す(何かしらに於いてある)側の自己の性格を(絶対の他から)否定する側面があることとも切り離せない。何故本章の初めにふれた西田の一節の解釈が困難かと言うと、敢えて西田が拘った(映すという)ポイントが挫折している箇所でもあるからだ。一方で映す無が挫折しているにも関わらず、挫折によって却って自己が本来映す側だったことが(汝が底にある)私として鮮明になることを汲み取らずに、西田哲学の理論の筋道の説明に終始してしまっては、説明がどれだけ正しかろうと、それの何が問題になるのかがどうしてもぼやけてしまうのである。

結論:哲学用語の再編成はどの様な手順でなされるのか

これまでの検討をもとに、哲学用語を再編成するための手順を示して、本noteを締め括ろう。先ず重要なのは、自ら問題意識を明確にし、それに照らし合わせる様にして、各哲学用語を説明することだ。そうすれば、単なる過去の哲学体系のまとめ(結果としてどの様な考えが出来上がったかということだけ)でなく、実際にそれらが試行錯誤されていた段階から哲学的考察を辿ることが可能になる。また、それをよく体現してくれていたのが上原麻有子教授の講義「他者を知るということ」であったと言えるだろう。

ただし、哲学用語を再編成するためには、それだけでなく、過去の哲学者ならではの問題意識も取り出し、それを(過去の哲学者以上に)徹底させる必要がある。これは哲学用語を辿って(適切に)説明するだけでは明らかにならず、その哲学書の中で一貫して拘っているポイントを各自で洞察する必要がある。ここに過去の哲学を引き受けることの困難があり、(タイトルにもある通り)本noteでは、それを西田哲学から示した。こうした困難が汲み取られて初めて、過去哲学者が(それぞれ)何に拘っていたかを踏まえつつ、またどうそれを解明するに至ったかが説明される。

また、以上の話からも理解してもらえる通り、哲学用語の再編成は誰かが行えればそれで完結する様なものではない。過去の哲学者が拘っていたポイントを、その哲学者以上に徹底させる試みは際限がないため、誰かが再編成したなら、また後の誰かがその説明であいまいになっている箇所を洞察し、より踏み込んだ捉え直しをすることだろう。その点で、哲学用語の再編成は繰り返し行われる過程で示されていくものとも言える。筆者も、何れ西田哲学(の各用語)を再編成し、それを紙面に載せる予定だが、後に誰かがその内容を批判してくれれば幸いである。最後に、一般向けの西田哲学講義を行って下さった上原麻有子教授と、それを無料公開してくれた京都大学に感謝します。



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