ドリアン・グレイと崖
昼休み、手早く軽食を平らげてから近場の喫茶へ。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの画像』を読み進める。初っ端から口先だけの、薄っぺらい台詞が諄いくらいに並べられているのだが、そのある種巧みな言葉に魅了される人物の描写には妙な説得力がある。
さて目下の関心事は現代に於いてドリアン・グレイはドリアン・グレイたることが可能であるか、なる手垢のこびりついた問い一一 おっと危ない。脳内に蔓延るヘンリー卿には早寝いただくこととして、観た映画のことでも。
フェリーニの『崖』は時間の経過とともに旨味の増す一品。描かれる"悪さ"は、我々の生きる世界より薄い紙ひとつ隔てた向こう側、否、分断は宜しくない。言い直すならば日常に潜む類である。
その深みに沈みきってしまった男の、あれは生き様と形容するべきであろう。ハード面、モノクロならではの陰影や表情の明度もカラーに勝るとも劣らない雄弁具合で、一貫して"暗み"を映す(雄弁という言葉にヘンリー卿を想起し気が滅入る)。
終盤に垣間見える溝鼠の美しさには、どうにも胸を打たれてしまった。それに彼が"ワル"ということを忘れてしまうのだから大変だ。道徳の超越が為されたことは紛うことなき事実であるが、その動機は生への意志か、はたまた惰性か。
寝ていた