【人間の比較論】人は比べる生き物だ。だったら積極的に他人と比べてみよう
どうも、ぱたそんと申します。
今回から6回にわたって「人」についての記事を書いてみようと思います。何者でもなく未熟な今だからこそ書けることだと信じて、大学2年生の春休み期間を使って観察・考察した「人」についての仮説・理論を形にしてみました。
第1回目のテーマは「積極的に他人と比べてみよう」です。「人と比べるのは良くない、あなたはあなただ」という一見もっともらしい主張に反する、ちょっと怖いテーマに見えるかもしれません。ただ、あえて、ここではあなたが他人との比較を辞めることではなく、「そもそも人は比較する生き物なんだから、今以上に比較をすることこそが重要なんじゃないか」という主張をしてみることにします。
何を言っているのか、意味が分からないですね笑笑
もう少し掘り下げて話してみたいと思います。
○ 人は比べる生き物だ ー「比べるな」という人も「比べる」ー
あなたはつい他人と比べてしまいませんか?
それもそのはず。そもそも、比べない人なんていないというのが僕の主張です。自分の出会ってきた人で、人と比較をしない人は1人もいませんでしたし、これからも居ないことでしょう。なぜなのか。
◇ ほとんどは物差しゲームのプレイヤー
まず最初に、ほとんどの人は何かしらの物差しゲームの中で劣等感に溺れ、優越感に浸り、一時的な「満足」を満たします。特に、社会が規定する物差しはみんなの大好物です。9割の人は物差しゲームのプレイヤーです。(自分だってそのゲームのプレイヤーに過ぎません)
自分の話を理解出来ない者を「バカだ」と罵り、自分が愚かである可能性を考えない。伝え方に問題があることを考えない。自分が正しいと思ったことをやらない者、自分の価値基準では「下」の者を見下せるだけ見下す。自分たちは何かをやっているんだというプライドか、何かを持っているんだというプライドが作用する。やっていること、持っていることで比較をする。
その逆も然りで、それっぽく素敵っぽい話をしている「成功者」的な人間を「すげー」と持ち上げ尊敬し、その成功者の発言は全て正しく聞こえてくる。実行してみる。自分が頑張っている世界で更に頑張っている人、成功している人、成果を出している人を神のごとく持ち上げる。自分がやっている以上にやっている、持っている以上に持っているのが理由なのかもしれない。
こうして、現代社会が設定した定量的な価値基準に揺られて、そこで生き残ろうと藻掻く。これが自分も含めた9割の人の生き方。
多くの人は、どこまで行っても比較するんです。でもこれを続けるせいで自尊心が傷つく人が出てきます。
◇ 物差しゲームから脱却しようとしても、比べる
次に、これに飽きた人間、疲れた人間、傷ついた人間が物差しから脱却することを志します。比較することを無駄だと考えるようになり、いかに脱却するかを考える。
しかし、どこまで行っても脱却できている者などいない。
これが僕の主張です。
誰かと比べないようにしようとしている人ほど、誰かと比べています。
人と比べるなんて愚かだ、と思っている人だって、「愚か」の価値基準を取り出し、自分は人と比べない側にいるんだというポジションを取ることになります。
疲れる、と思っている人も、「疲れるから」脱却して、疲れない側に行くのが正解っぽく感じて正解っぽい方に流れているだけに過ぎません。
人と比べる必要ないじゃん、と言う人も、「脱却」する境地にたまたま辿り着けたからこそ、比べるよりこっちの方が楽なのに、こっちの方が幸せなのに、こっちの方があなたのためなのに、と考え、1ミクロンたりとも悪意を持たずに100%の純度の善意からアドバイスをします。が、「方が」とか思っている時点で比較です。
人は人、自分は自分、という発言や考え方そのものも、比較です。
対象が複数存在し、価値の物差しの中で「違う」ことを明確にする。これが比較ではなく、何が比較なのでしょうか。
これは比べています。物差しの中で対象が複数ある時点で比較になります。それが「楽」「幸せ」「疲れない」であろうと、「成功」「失敗」であろうと、軸の中で対象が複数あるんだから、比較です。
そう、誰だって比較はします。
自分と誰かを、誰かと誰かを、集団と集団を、比較します。
比べることの何が悪いのでしょうか?
理由を説明できますか?
たぶん出来ないでしょう。
なぜなら悪いことではないはずだからです。
そして比較は、人間が自然とするものだからです。(cf 進化生物学の余談)
反論らしき何かも、全て何かしらの価値尺度に応じて比較した中で「比較することが良くない」と言っているに過ぎないので、もう比較から抜け出すことは出来ないんだと思います。
比較は悪くない。
比較はするもの。
では、他人と自分とを比較するせいで、劣等感に溺れる人が悲しみから抜け出すにはどうすれば良いのか。逆に「鼻が高くなり」「青さ」を持ち、自信満々な人が、協調性を失う前に「謙虚さ」を保つにはどうすれば良いのか。差別意識から人を傷つけることを防ぐためにはどうすれば良いのか。
その方法として、自分の認知出来ていない評価軸を新たに取り出し、もっと積極的に比較しまくることをオススメしようと思います。
○ 今のあなたは比較が足らない ー 評価軸の数を増やそう ー
何を言っているんだか、って感じだと思います。
でもきっと、多くの人は比較が足りていません。
もっともっと比較すれば、比較することの「悪い点」だと考えられている、自尊心を擦り減らすことも、自分自身の不十分さを認識することも、調子に乗って不適切な行動をすることも、自信がありすぎて協調性を失い周りに迷惑をかけることも減っていくと思います。どういうことか、僕なりの理論を説明していきます。
◇ 無数の評価軸を認知する ー 目に見える成果や社会的な評価軸以外に焦点を当てる ー
多くの人が、他人と自分とを比べる際に用いる指標は社会によって良いとされるもの(重要とされるもの、あった方が良いとされるもの…)です。目に見えて分かる成果っぽい何かや、肩書っぽい何か、結果っぽい何か、良いとされる理想像っぽい何かです。
その軸を増やしてみようよ、というのがここでの主張です。
例えば
・どれだけお金を稼げるか、仕事が出来るか、成果を上げられるか
・知的である、学歴がある、IQが高い
・運動が出来る、身体が強い
・年齢など(積み重ねの経験っぽいもの、そこから来る説得力っぽいもの)
・スタイルが良い、ビジュアルが良い(モテる、モテない)
…
この辺の軸は、今の社会の中で重要視されるもので、自分が重要だと思い込むものもその軸です(人は自分が重要だと認識したものを認知する特性があるらしい)。そしてこれらの軸は現代社会で可視化されやすくなり、SNSの普及で「上」も「下」も見えやすくなってしまった。
僕の主張は、普通に生活していたら認知出来ない(気付かない・見えない)ような軸が他にも無数にあって、そこの領域も含めてもっと積極的に比較していくと良いのではということです。普段無意識に気にするような目に見えて分かりやすい軸以外に、意識的に目を向けてみるのが良いかもってことです。特に、パーソナリティの領域と知的生産の領域で、数値的に表される評価軸ではないが、それでも比較可能な軸を認知することが重要な気がします。(他にも僕が全然認知出来ていないような軸が無数にあって、人の良さを引き出せる可能性が無限にあるんだと思います。)
◇ 他人との比較から、自分の強み弱みの気付きへ ー 比較しまくって客観視 ー
ここでは、先ほど取り上げたパーソナリティや知的生産(IQとか学校での勉強とは別の、人間が脳を使って何かを作り出す活動)の中で具体的に軸になりそうなものを考えてみようと思います。パッと比較軸として使わないものを、あえて取り出してみます。
これらのことは全て社会で必要な要素ではあるものの、可視化されにくいものだし直接的かつ定量的に評価を下しにくいものでもある。結果として、多くの人からは重要視されにくく、これらの評価軸は認知されない。これを理性の力で、無理矢理認知してみて、無理矢理比較してみたら良いのでは、という話です。この見えにくい軸は①先天的なもの②後天的に身につけられるもの③両方の掛け合わせがある気がしますが、共通しているのは見えにくいということです。笑笑
他人を鏡にして、自分を見つめる。他人を鏡にして、客観視する。
色々な人がいることに気付き、多くの「他人」を見ることでこそ、はじめて自分は何が得意で不得意か、何が出来て何が出来ないのか、何が好きで嫌いなのかといった才能・趣向が分かってくるんだと思います。誰だって得意苦手があり強み弱みがあります。
何が出来るから何をやって、何が出来ないからどう改善するべきなのか。
得意・強みを把握して、それを伸ばす。
苦手・弱みを理解して、改善を試みる。
どう皆と違い、どう一緒なのかが分かってくるはず。
だから積極的に比較してみたら良いと思います。目に見えて分かりやすい社会的な評価以外の領域で。そして1つ1つの比較する軸、領域の「比重」を軽くしていけば、きっとそんなに病みませんから。どんどん違うところで比較しちゃいましょう。皆と一緒だから良いし、皆と違うから良いんです。たぶん。自分の良いところも悪いところも、他人の良いところも悪いところも、全部ひっくるめて良いねって思えるのが幸せな気がします。そして良いところを世界に還元できるようにして、還元できる仕事をして、悪い(と思われる)ところを少しずつ直していけば良いんじゃないかと思います。綺麗事っぽいですけど、真剣にそう思ってます笑笑
比較しまくって客観視できれば、自分の才能と趣向が分かれば、自尊心を擦り減らすことも、自分自身の不十分さを認識することも、調子に乗って不適切な行動をすることも、自信がありすぎて協調性を失い周りに迷惑をかけることも減っていく気がします。
∞個ある物差しの、どこか1つくらいは飛びっきり素晴らしい才能に溢れているはず。もしそれがないと思ってしまうなら、きっとまだ見えてないだけなんだと思う。という綺麗事でした。
○ 最後に ー 上手く比べられるようになれ良い ー
ここまでの話をまとめます。
人は、比較する生き物である。今時代の比較は社会的に目に見えて分かりやすく評価されるものでの比較に終始していて、それ以外の評価軸でも積極的に比較してみるのが良いのではないか。そして現状で重要視される軸の重要度を下げて考えてみて、もっと色んな軸に気付けると良いかも。特にパーソナリティの部分や知的生産において、何が出来て何が出来ないのかは個人差があるので、他人を鏡にすることで自分を客観的に分析し、自己理解を深め、自分の得意を伸ばし苦手を改善していく。好きを極め、嫌いを上手く避け(無理なときがあるのは承知)、出来るを伸ばしながら精進するのが良いのではないかという話でした。上手く人と比べて、上手く他人を鏡にしたいですね。
偉そうに長々と書いてしまいました。大学2年生の春休みを使って考え抜いた「人間論」になります。未熟な部分はあるかと思いますが、ご容赦ください。どんどん発展させていきます。
今後の人間論の流れは、以下のようになる予定です。
読んでくださる方、楽しみにしてください。頑張って書きます。
○ 余談:進化生物学から比較を考える
進化生物学を考えると、人ってやはり比較する生き物なんですよね。
進化の中で、人は比較することで、自分の状況を理解し、他者との関係を調整してきたとされています。その調整の中でも競争や協力が進化に大きく関わっているらしいです。例えば、競争の中で成果を出した人は、より多くの資源・権力を得ることができ、生存や繁栄に繋げて来たと考えられます。一方、他者との関係を調整し全体で協力することによってグループ全体の生存率を高めることができ、生存や繁栄に繋げてきたとも考えられています。
(進化のプロセスは生存のための競争・選択によって進行すると考えられていて、競争は進化において重要な役割を果たすとされています。人も、生存と繁栄のために競争しなければならないという遺伝子レベルでのプログラムがあるらしく、この競争において自分自身を他人と比較することは、自分の立場を確認し、より有利なポジションを得るために役立つらしいです…僕は専門家ではないので、もう少しこの辺の領域について勉強してみたいなあと思っております。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?