ぱたそん【大学生は学びたい】

未熟をコトコトと熟し、熟しを生にする。言語化ノート・備忘録的側面が強め。ポエム的要素ア…

ぱたそん【大学生は学びたい】

未熟をコトコトと熟し、熟しを生にする。言語化ノート・備忘録的側面が強め。ポエム的要素アリ。学び、経験し、気付き、想い、表現する者。与え、与えられ、与え続ける者。

マガジン

  • 人間論

    何かを言っているようで何も言っていないマガジン。「人」について、自分なりの考察・理論・仮説っぽい何かを形にしてみました。何も成し遂げたことのない若者だからこそ、何者でもないからこそ書ける内容になっていると信じています。未熟さ、胡散臭さ、綺麗事感にあふれた突っ込みどころ満載のものですが、生きていく中でどんどんアップデートしてより体系だったものに出来たら…と考えています。

  • だらだら日記

    無思考に一気に文字を綴ることが出来る場がほしいと思い作ってみました。人間論とかいう、小難しくて崇高っぽいマガジンを書くのに苦労したので、こっちは頭から出てきたものを出てきた通りに書くことにしました。

  • 「人」「組織」「集団」について考えてみた

    自分の記事の中から、「人」「組織」「集団」に関連するものをピックアップしました。

  • ぱたそん個人のこと

    自分事についてのまとめ。実質日記。これこそ備忘録。

最近の記事

逃げるように、思うように。会うように、泣くように。

またまた、散文ともポエムともいえない、謎で素敵さを自称する文字列を並べてみた。 僕は文字が好きで、でも読むことは苦手で。なんだか、飽きてしまう何かが眠っている気がする。 何言ってるのか分からない、その分からなさ具合を許すことが、分からないことから逃げている自分を表しているけど、分かることからも逃げる自分が同時に存在しているはずでもある。 僕は、その分かることから逃げる自分のことが好きみたいで、逃げて何かを思ったその時には、新しい何かに出会っていて。泣きそうになる。 活

    • 誰も傷つけたくないし、皆で微笑みたい。でもね。

      毎日どこかで誰かが言ってること。 綺麗な願いがあるのに、それでも僕たちが傷つき続けてしまう理由を、どこかで誰かが言っていそうな言葉と共に、考えたい。そんな散文。 『何も捨てたくない』 この意思表示は、言葉にしている時点で、何かを捨てることを捨ててしまうし、何もに含まれない別の何かを捨てることも捨てないことも考慮していない。 言葉にするとは、切り取ることであり、何かを捨てることでもあるのだろうか。 …………………… …………………… 誰も傷つけたくない、という尊そう

      • 椅子取りゲームの世界観 | 僕たちは何も知らない

        以下は、散文ともポエムともいえない、謎の文字列です。 色々な解釈可能性があると思うので、何かを学ぶ教材というより、何かを感じられる文章として読めると良いと思います。 世界は知らないものに溢れている。 処理できない情報と制御できない何かが常に氾濫している。 僕は、もっと賢くなれればいいのにとも思うけど、それでも今くらいで丁度良い気もする。 どこまで賢くなっても、常に処理しきれない何かが宙に舞っている。 “労働”からの解放と資本主義の再構築を夢見ていた。 でも全ての

        • 言葉にするとは、自らを愚者と認めること

          この日の想いを赴くままに記した、随筆とも呼べない何か。 言葉にするとは、自らを愚者と認めること。 学ぶとは、自らに絶望すること。 そして誰よりも怖がり、傷つくことで、優しくなる。なれる。なっている。 毎日、毎日、自らの愚かさに絶望している。 心は広くなり、言葉は多義的になった気がする。 言葉にするとは、何かを捨てること。 見捨て、切り捨て、切り取ること。 言葉にするだけで、何も知らないこと、何も理解していないことが露呈する。 言葉にしなくとも、その未成熟さを

        逃げるように、思うように。会うように、泣くように。

        マガジン

        • だらだら日記
          9本
        • 人間論
          5本
        • 「人」「組織」「集団」について考えてみた
          6本
        • ぱたそん個人のこと
          8本

        記事

          人様に偉そうに評価をつけておきながら、人ごときが人ごときに評価をつける傲慢性を語り、評価をつける自分にも付けられる自分にも嫌気がさすけれど、それでも気付いたら僕は評価を下してしまう。

          人が人から抜け出せない叫びと痛み・喜びと愛おしさを、 大雑把に、薄めに、そしてしょーもなく記述してみた。 常に”評価“をしてしまう。 常に。自我が。 モノサシを用意してしまう。 モノサシで規定してしまう。 君の傲慢なモノサシを、 僕の傲慢なモノサシと同じように 錯覚させる。 僕の傲慢なモノサシは、 君の傲慢なモノサシとシンクロする。 『キミはこのモノサシのここになるね』 『アナタはあのモノサシのあそこになるね』 ホモサピエンスの分際で、どこから出てきた何とも分か

          人様に偉そうに評価をつけておきながら、人ごときが人ごときに評価をつける傲慢性を語り、評価をつける自分にも付けられる自分にも嫌気がさすけれど、それでも気付いたら僕は評価を下してしまう。

          モテたいという就活の志望動機(職業選択)をゾンバルトの視点で考えてみる

          大学の社会学概論という講義にてゾンバルトを扱った。ゾンバルトはドイツの経済学者・社会学者であり、近現代の社会学においてはウェーバーと対比される形で記述されることが多い(らしい)。講義で特に重点が置かれたのは、ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』で扱った基本的な論点であった。 本Noteでは『恋愛と贅沢と資本主義』での彼の議論と、私が人材会社でのアルバイト経験から思考した「職業選択とその動機付け」とを繋げてみる。 保険のようになってしまうが(というか普通に保険だが)、私はあ

          モテたいという就活の志望動機(職業選択)をゾンバルトの視点で考えてみる

          今日の問い:勇気をもって”自分らしき何か”を見つめることは出来ているか?

          “自由意思”も“自我”もあるという思い込みの前提で進むことになるが…僕という一人称は、僕自身として認識されるものから目を逸らさずにいられているだろうか? 「ある」として認めているか? 肯定、否定ともちょっぴり違う「ある」という感覚と、「しっくり感」を大切にしていきたいな再認識した。 肯定や否定は自分というものが、すごくコントロールできる何かであるような傲慢さから来ている気がする。 もっと大きなものの中の、操作可能な変数が限りなく小さい世界で、ぽっつりと生きているはず。

          今日の問い:勇気をもって”自分らしき何か”を見つめることは出来ているか?

          何も書きたくない。なぜか分かってきた。

          「○○さん、Note更新しないんですか?」 「○○、Note書いてよ」 「○○、顔出ししてYouTubeちゃんとやってよ」 (※ ○○は自分の本名) この半年で再会した多くの人が口にしてくれた。 素直に承認されているようでとても嬉しい反面、悔しいというか、情けないというか、もどかしいというか。なんだか言語化しにくい、ふわふわとモヤモヤの中間みたいな感情になってしまった。 皆が(多くは自分の知り合いが)お世辞でもNoteを読んでくれていたことに喜びを覚える。承認というか

          何も書きたくない。なぜか分かってきた。

          言葉と認識と世界と【だらだら日記②】

          今日は日記を読み返していた。 とある秋頃の日記で目が留まった。 抜粋してみる。 自分用に残していた日記なのに、正直自分ですら「何言ってるか分からん」って印象です。 この日は各所で取り上げられている安芸高田市の市議会の動画をずっと見ていたっぽいです。そこから人間の認知能力の限界・「愚かさ」について、再度考えてみたのかなと。 なぜ、石丸市長と清志会の”対立”と評される構造が生じているのか? なぜ、清志会の人々は「認知が歪んでしまう」のか? (そう見えてしまう視聴者側の認

          言葉と認識と世界と【だらだら日記②】

          2024年は何しようか【だらだら日記①】

          『もっと気楽に文字を書けるようにしたい』 半年が過ぎた。 『もっと気楽に何かを綴りたい』 何も変わっていなかった。 斜に構えた、意識の高い、少々ウザい言い方に変わっただけだ。 好きで学んでいた「人間」についての事実も、それらを繋げた自分なりの思考も、ぐちゃぐちゃになって纏めるのに苦労して、文字を書くことが怖くなっていた。 いや、 文字や言葉について、 人間の認知や解釈について、 学べば学ぶほど、 考えれば考えるほどに、 言葉にすることの難しさを感じ、 「あーでもな

          2024年は何しようか【だらだら日記①】

          秋も中盤に差し掛かる今、超今更だけど大学3年の春夏を振り返ってみた

          こんにちは。 更新することを後回し、後回しにしていたら11月になってしまいました。 ぱたそんです。 今回のNoteは、この更新を全くしてこなかった半年の中でぱたそん自身が学んできたことを、記録として残すものになります。 結論から書くと、この半年は(今まで通りかもだけど)幅広く色々な学びをしてきました。ここでの学びは、座学も経験もひっくるめて、ぱたそんが「学んだ!」と解釈したものすべてを指します。 大学3年でやろうと構想していたことは以下のNoteに書いていました。

          秋も中盤に差し掛かる今、超今更だけど大学3年の春夏を振り返ってみた

          【人の価値を考えてみる】ただ在ることに価値があるという世界観を考える

          どうも、ぱたそんと申します。今回のNoteは大学2年生の春休み期間を使ってやってきた「人」についての考えをまとめたNoteパート2になります。2回目のテーマは「あなたが素敵であることに理由はない」です。 1回目では、人は比べる生き物なのだから、開き直って積極的に人と比べることによって自己理解を深め、強みや弱みを認識したら良いのではないか、今は認知されていない領域で上手く人と比べられたら良いのではないか、という理想論を書きました。 今回はそこから「何かしらの強みあることがそ

          【人の価値を考えてみる】ただ在ることに価値があるという世界観を考える

          大学2年の春休みを振り返ってみる

          どうも、ぱたそんと申します。 今回のNoteは3か月前に立てた春休みのやることがどれだけ達成されていそうかを見るだけの記事になっています。定期的に振り返りをしないとね。これも前を向いて進むために重要なはず。ということで昔の記事から引用です↓ この1つ1つについて振返っていきます。(死ぬときの夢とか意味わからんと思うので、Note見てみてください…!) ○ 経済学部+自分の得意な領域を活かした勉強あんまり出来なかったのが本音。ミクロ経済学の基礎と統計の基礎はある程度復習出

          大学2年の春休みを振り返ってみる

          【人間の比較論】人は比べる生き物だ。だったら積極的に他人と比べてみよう

          どうも、ぱたそんと申します。 今回から6回にわたって「人」についての記事を書いてみようと思います。何者でもなく未熟な今だからこそ書けることだと信じて、大学2年生の春休み期間を使って観察・考察した「人」についての仮説・理論を形にしてみました。 第1回目のテーマは「積極的に他人と比べてみよう」です。「人と比べるのは良くない、あなたはあなただ」という一見もっともらしい主張に反する、ちょっと怖いテーマに見えるかもしれません。ただ、あえて、ここではあなたが他人との比較を辞めることで

          【人間の比較論】人は比べる生き物だ。だったら積極的に他人と比べてみよう

          人生と大学3年で学びたいことを整理した

          どうも、ぱたそんと申します。 書こう書こうと思っていたら時間がめちゃくちゃ経っていました。 大学生が今を学ぶというコンセプトでYouTubeをやろうとしているものの、中々更新が出来ていない者です(もうvlogチャンネルになるかもね)。Noteでは未熟者がコトコトと未熟を熟していくというコンセプトで言語化ノートを書いております。日々の生活で感じたことを何だかそれっぽく書いてみている感じで中身はあまりないです。 今回は大学3年生になる前に、今後の「人生」で学びを深めたいことと

          人生と大学3年で学びたいことを整理した

          自分には何もない

          上川という町でインターンをさせてもらって、何者でもない自分が偉そうに語っていることが、いかに薄くて何もないかと改めて気付いたこの経験を、どうしても言葉に綴る必要があると感じた。 ポエムっぽい何か。 作り続ける黒歴史。 いつか誰かに読んでほしいし、自分で読み直したい。 頭じゃ分かっていても、心が追いつかない。 行動も追いつかない。 だから何者でもない。 誰からも見られない。 物差しがどうでもいいと言葉にしながら、 心のどこかで実は社会の上の下に甘んじていると、 自分の中