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2月17日 ニルヴァーナ。

心の境地が滅した時には、言葉の対象もなくなる。
真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナの如くである。

第十八章、第七詩 龍樹

現代はなんとなく過去のいつの時代より進んでいる、という感覚があるのだが、こと精神のことになるととんでもない、という気持ちになる。

古今東西の智慧がそれこそここ電脳画面にて入手できる環境となった。

そのことだけを見れば、それこそ未曾有の知的可能性空間に我々はいる、と言えなくはない気はする。だがたとえばこの龍樹の詠嘆に接すればどうだろう。

どう考えても、過去の龍樹の見ていた真理の方が、今よりよっぽど素晴らしく感じるのはなぜだろうか。

いや、龍樹がたまたま卓越した知性を持っていた天才であった、と思うことは簡単だろう。

そもそも過去と現在を比べようとしてしまう我が心象そのものが下品なのだ、と悲しむことも簡単だ。

だがそれでも何か違う気がする。

多分それは、龍樹が精神の中で、ニルヴァーナに接していた、あるいは属していたからのような気がする。

接したり、属したりするとはどういうことだろう。

いわば龍樹はこの生を、彼の生を、この彼がかりそめに属した生を、愛しんで観察して、そして論じた所為である気がする。

龍樹といえば池田晶子さんが慶応大学の哲学科卒業時に卒論として取り組まれたテーマである、と認識している。

池田晶子さんが認め探究した知性である、ということだけでも、

龍樹が特別である気がする。

(池田晶子ファンである、ということだけなのかもしれませんが(笑))




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