2月20日 荒川洋治 文学の門。魂にぶっささるものは、量から選ぶより、一期一会の構えからの方が、入手しやすいのだろう。
過去の文学などを読むにつけ、なんとなくだが、今と昔でいわゆる大多数の人の文学に対する構えが変わってきているような気がしていた。
勿論今はその時の”文学”に変わる様々なものがあるからだろう。ものがあり、そこへのアクセスが劇的に容易になったのだ。
スマホをベースに、映画も、マンガも、KINDLEも、ニュースも、新聞も、選んでアクセスする時代となった。
希少感が、集中を生む。一期一会だと思えば、その時間に集中する。
そのことで、魂に深く刻まれるのだろう。
荒川洋治さんの「文学の門」のAMAZON記載惹句(というか案内文)から引く。
「…「文学者」がいたことを、
今日の読者は知らない。
まわりにそういう人の姿をみかけることがなくなったからだ。
作品だけを書いて、
みちたりる作家しかいないからである。
興味の幅がせまくなった。
興味をひろげるための空気を
どのようにつくりだすかという心のはたらきもにぶる。」
「いま歌をつくる人たちは、
自分が歌をつくることだけに興味をもち、
歌をかえりみなくなったように思う。
これまでの名歌をそらんじたり、
しっかり文字に記すことのできる人は少ない。
歌の歴史への興味もうすい。
おそらく自分が「濃い」のだ。
自分を評価しすぎているのだ。」
ひとが自身で今までより広く”世界に”発信できる場が増えたこともあるだろう。
受動で行けば前述の通りだが、発信面でもスマホがあれば四六時中自身で発信することが可能な世界になった。
そのことを感じれば、荒川さんがおっしゃる”自分が濃い””自分を評価しすぎている”という判断にも納得する。
自身を発表する人の割合が、過去と比べて爆発的に増えているのだろう。
ひとのものを、受け取り評価するには、ある意味自身がとことん”受け手”であり、それはもしかして”プロの受け手”なのかもしれないが、その場合、発信せずに自身のなかで評価のなかに沈溺することは結構困難である。
自分を評価せず、他人を認めることが、エゴから言って困難であることに、起因するのだろう。
過去には物理的に発信することもできず、受領するにも、骨折って歩いて本屋に行き、情報不足で、映画館も少なく、という時代であれば、受け取ることさえ稀有のことなのである。
勢い受けとったものはいわば恩寵のようなものであり、生涯愛でて、愛惜し、なんどもなんども、繰り返し体と精神に染み込むまで、貪欲に取り込むことになる。
で、そういうものは深いのだ。多分、魂にまで、届いている。
プロの受容者なら、受け取ったものを魂の深度まで味わいたいと、今も思う事だろう。だが、いかんせんインプットが多すぎる。自動的に、入ってくる。
そこをまず受け止めて、整理して、自身に響き渡るもののみ選んで取り込む。
ものがありすぎることの、これは苦しさ、でもあるのだろう。
(牧歌的でもあった時代には戻れませんが、魂まで突き刺さるものとの出会いはしたいものですね。。)
ひと棚本屋神保町passage solida
宜しくお願い申し上げます🤲