光と闇と、どうして、わかりあえないのか、っていう話です。
いいな、いいな、人間って、いいな。。。
っていう、ちょー楽観的な歌があるけれど。。。
まんが日本昔話のエンディングだよね。。。
その一方、人間のダークサイドにも、すごいものがあると思う。。。
ある研究によると、無私無欲のひとを見ると、人間ってそいつを無性にイジメたくなってしまうんだって。。。
まぢかよ。。。
どういうのか、って言うと。。。
ちぇっ、偽善者ぶりやがって。。。みたいなココロの反応。。。
それは、べつに、そう思いたくって思ってるんじゃなくって、無私無欲の善意のひとを見ると、もうね、ほぼ自動的にそう反応しちゃうっていう、人間のダークサイドらしいんだ。
今日の聖書の言葉。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書 1:5 新共同訳
無私無欲の善意のひとを見ると、なんでイラっとしてしまうのか、っていう理由は、学者の研究でもよくわかってないらしい。。。
しかし、こういう仮説があるんだって。。。
むかし、むかし、人類には利己的な集団と、利他的な集団があって、生存競争を繰り広げていた。。。
利己的な集団は、自分のことばっか考えるヤツの集まりだったので、早晩、お互いがお互いを滅ぼし合い、自滅して行った。
残ったのは、利他的な集団。だって、お互いがお互いを助け合って生きようとするわけだから、圧倒的なアドバンテージがあるよねー。
そして、そこから人類の普遍的な美徳がかたちづくられていった。。。
それが「無私無欲」だ、っていうわけ。
生き残った人類のなかで、最も「無私無欲」な人間が、集団内の高いポジションをゲットしていくことになる。
なぜなら、自分を置いて他人を助ける利他の精神こそ、人類を生き残らせたプロトコールにほかならないから。
ところがね。。。
無私無欲な人間が、集団内の高いポジションをゲットする、ってことは、他のメンバーにとっては、自分のポジションが相対的に格下げされることを意味する。
つまり。。。
アイツ、超絶無私無欲じゃね? ってことは、オレのポジション、確実に下げられるわけじゃね? っていう。。。
これが、なぜ無私無欲の善意の人間を見るとイラっとするのか、ということの考えられ得るひとつの説明なんだそうだ。
いっぽう、無私無欲の善意の人間にとっては、なんで自分が嫌われ、うとまれ、イジメられ、攻撃されるのか、ぜんぜん理解できない。だって、無私無欲なんだもん。。。
「おまえのそういうところが偽善なんだよ! ほんとは、なんか別の目的があるんだろ? 隠してんじゃねーよ!」とか言われると、無私無欲の善意の人間は、ほんとに無私無欲なもんだから、ハラに何もないことを証明しようとして、ますますそのふるまいが無私無欲になって行く。。。
そうなるとね。。。このひとはもう正真正銘の無私無欲の善意の人間だ、ってことになり。。。
それはつまり、このひとの最高位ポジションゲット確定を意味するわけだから。。。
だから、他のメンバーはそれを見て、ますます怒り狂って行くという。。。
なにこの魔のダークサイド落ちデフレスパイラル状態。。。
そういうことを考えると、作家の遠藤周作がイエスの受難物語を現代に翻案した小説を書いたとき、なんでタイトルを『おバカさん』って付けたのか、わかるような気がするんだよね。。。
この人類社会で、利己的な集団は絶対に生き残れないことは、人類史によって証明済みだ。歴史のバックヤードには、生き残れなかった利己的な遺伝子の墓標が地平線の彼方まで続いている。
じゃあ、いまの人類社会のチャレンジは何に移行しているか、っていうと、それは、「おバカさん」対「イライラ」なんじゃないかと思う。
無私無欲の善意の人間は、いよいよ無私無欲を追求して生きようとし。。。
それに対してイライラする人間は、いよいよイライラして行くという。。。
このチャレンジにおいて、ひとりひとりの人間が「神」から問われているんじゃないかと思うんだ。
おまえは「おバカさん」として生きるほうを選ぶのか?
それとも「イライラ」して生きるほうを選ぶのか?
静かに自分のココロをかえりみると、現時点で二種類の人間が自分のなかに存在しているように感じる。。。
おバカさんも、イライラも、どっちも自分のなかに、いるんだ。
じゃあ、明日の自分は、どっちの自分に収束していくべきなのか?
イエスというロールモデルを見るなら、答えは明白だ。
だけれども、どっちの自分に収束するかは、今日・いま・この瞬間・自分で決めなきゃいけないことなんだよね。。。
主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人であるわたしを、憐れんでください
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