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東京オリンピックとは何物なのか

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  (Photography by YM)

かつてわたしたちが見てきたオリンピックとは、セレブレーションであり、フェスティバルであり、エンターテインメントだった。
観る者の胃袋さえギリギリと絞ってくるような緊張感、一瞬で決する運命と、そこからの解放。金色のメダルに頬を寄せる勝利者。躍る経済、肩を叩き合って酔狂する人びと。イルミネーションとファンファーレの余韻の消え行くのを、いつもわたしたちは満ち足りた気持ちで見送ってきた。


 そんな夢を見ていたわたしたちに、東京オリンピックは五輪のなまなましい内臓をすべてぶちまけて見せた。4年、いや5年溜めぬいた何百、何千と絡まり合う思惑と利権、体面と打算。それらを遮二無二呑み込んで、怪物のように膨れ上がった超資本主義の巨体をわたしたちは見た。

 大会公式エンブレム事変、マラソン会場キラーパス事件、組織委員会会長の交代劇とすったもんだのハッピーセットで国内だけでもだいぶ荒ぶったが、五輪の内臓はもちろん、日本だけのものではない。
その血肉の大部分は残念、スポーツではなくて、外交でできている。


 アノ問題やコノ問題でなかなか日本と仲良しになってくれない中国が、こと東京オリンピックに関してだけ熱烈な支持を見せてくれるのは、北京での冬季五輪開催に累が及ぶことをおそれているからだ。
東京が転べば、たった半年後の北京だって、ドミノ式に崩れる未来が色濃くなってしまう。


 むごたらしい報せばかりが続くミャンマー、そのオリンピック委員会には、市民を弾圧する国軍の息が掛かっている。ミャンマーの代表選手は、選手であるまえにひとりの民だ。上座部仏教を熱心に信じるかれらはきっと、自分の心を裏切ることを許さないだろう。かれらが国軍不支持を表明するために、五輪出場を諦めなければならないのだとしたら。長年の努力を無に帰す不遇に、いったい誰が、どう報いてやれるというのだろう。


 そして気がついてしまった。東京だけが特別なんじゃない。わたしたちはただ、今まで夢の仮面を被った五輪の姿を見ていただけで、多分ずっと昔から、超大型グローバルイベントというものはこういう泥くさい顔をしていたのだと。今年、わたしたちは長い夢から醒めて、寝ぼけまなこに見せつけられた。どうしてこうなった、誰のせいでこうなったと傷つけあう人びとの姿。けれどもともと、オリンピックってこういうものだったんだ、と今は思う。それはロマンでもラブアンドピースでもない、国際競技会の運営とは、数えきれないほどのヤクザなステイクホルダーとの果てしない闘争だ。

 オリンピアの神から託された気高き仮面はもう跡形もなく剥がれ落ち、傷だらけの内臓をさらけだしながら、東京はそれでも前へと這いずろうとしている。もはやわたしには東京オリンピックが、目を覆いたくなるような、痛ましいドキュメンタリーみたいに見える。満身創痍の巨体はとうにボロボロで、いつ果てても不思議じゃないのに、それでもこの瀕死の巨体は、前しか見ていないのだ。細菌にむしばまれ息絶えそうになっても、人びとから石を投げつけられても、前だけをにらんで手を伸ばしている。


 その姿には胸が痛む。どうか成し遂げてくれと願いたくもあるし、本当にこれが正しかったのか?という疑念もある。けれどやはり思う。その傷だらけの姿は、じつに日本人らしいと。

 瀕死の内臓たちの尽力は、8月にどんな結末を迎えるのだろう。
8月のわたしは、それをいったいどんな気持ちで見ているのだろうか。
ただわたしにできるのは、あるがままに感じ、書きのこすことだ。わたしたちが何を失い何を得て、東京五輪とはなにものだったのかを。


IOCのバッハ会長が7月12日に来日する。それが不退転の号砲になるのだという。



【参考資料】
「オリンピズム」公益財団法人日本オリンピック委員会公式サイト
「バッハ会長、五輪開幕前の7月12日にも来日…コーツ委員長は6月15日に東京入り」読売新聞 2021年5月20日
「中国 北京五輪控え「支持」[海外は今 Tokyo2020+]<中>」読売新聞2021年5月21日

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今野 茉希
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