見出し画像

ばななの不思議

今日は 先程 ふと 不思議に思ったことを
綴っていこうと思う。

それは ばななについてだ。

これから綴ることは わたしの考えであり
感じ方や結論は 人それぞれなので
そこを踏まえた上で 読み進めてほしい。


ばなな について。

バナナといえば 一年中 だいたいは
家のリビングに常駐しており
毎朝 母が 一日に一本食べている
わたしにとってそんなイメージだ。

今日は ばななについて
思ったことが二つある。

よくよく考えてみると 一つ目は
小さい頃からふとした時に 頭をよぎり
その度に忘れていったことだった。

そしてまた 今日 思い出した。

今回は 忘れないように
留めておこうと思い 今に至る。

二つ目は 本当にさっき ふと 思ったことだ。


それでは 一つ目から綴っていこう。

一つ目は ばななは そのままの状態だと
あまり強く意識をすることはないが
チョコバナナや バナナジュースや
バナナマフィンなど
「ばなな」が
「ばななを用いたなにか」に かわった瞬間に
自分の中で 特別感が増す ということ。

これは 説明するのが難しい。

例えば リビング テレビ台 横の
フルーツバスケットに置かれた
ばなながあったとしよう。

わたしは普段 あまり
ばななを意識して生活をしていない。
見向きもしないのだ。

ばななは好きだ。
食べれば 美味しい と思う。

でも フルーツバスケットまで足を運んで
皮をむいて 食べて
皮を捨てにごみ箱まで足を運んで 捨てて
そうしてまで 食べようとは思わない。

これは少し ばななに申し訳ない という気持ちが
芽生える 無論 ばななに問題があるのではなく
面倒くさがりなわたしに問題があるのだ。

だが わたしにとってばななは
そのくらいのものというのが 事実である。

それが ばななを用いた何か に かわった瞬間
どうだろう
わたしの中で 「バナナ○○」(バナナジュース、
バナナマフィン、チョコバナナなど)
になったそれは 単体の頃とは
明らかに何かが違うように感じるのだ。

非常に魅力的に感じる。

まず 美味しい。
ばななに何かを加えた食べ物は 最強だと
わたしは考えている。

そのまま食べても勿論 美味しいのだが
なんだろう 桁違いに 何かが違う。

他の果物のジュースより
他の味のマフィンより
他のチョコがけより
バナナのそれらの方が 魅力的に感じるのは
わたしだけだろうか。

わたしはこの現象を 小さい頃から
時折 不思議に思っていた。


そして二つ目は
文字にした時 バナナ よりも ばなな の方が
なんだか美味しそうだと感じる ということだ。

とは言っても「チョコバナナ」や
「バナナジュース」や「バナナマフィン」は
カタカナの方がしっくりくるし
その方がよいだろう とも思う。

ただ 単体となると
バナナ より ばなな の方が
甘くて落ち着いていて 熟している気がする。

これに関しては わたしの気持ちも
あるかもしれない。

中学校の時に 英語を担当していた先生が
「最近の人は むやみやたらに ゾウ や ミカン
など 名詞をカタカナにしたがるが
私はそれが 腹立たしくて仕方がない」
というようなことを言いながら 黒板に
それらの言葉を 白いチョークで書いた。

その時は 「そうなんだあ」くらいにしか
思っていなかったが あれからわたしは
時折 そのことを思い返しては
「たしかに ゾウ より ぞう ミカン より みかん の方がしっくりくるなあ」
と 考えて 自然とカタカナではなく
平仮名を使うようになっていた。

そこからきているのもあるかもしれない。

わたしはこういう
皆が忘れているであろうことを
はっきり記憶している性質があるのだ。

同じく中学校の時に 社会を担当していた先生の
「音楽を聴きながら勉強をすると
内容が 三十パーセントしか頭に入らない」
という言葉も 未だに覚えている。

自分の脳の奥の いく千もの引き出しの
その中の一つに しまっているような感覚。

わたしはその言葉を信じ 勉強する時は
今でも音楽を聴いていない。

たしかに 音楽を聴かない方が
集中できる気がする と 当時のわたしは思った。

それが今の自分を成り立たせているし
人格の一部を形成していることだろう。

ただ 勉強以外の メルカリの梱包をする時や
絵を描く時は 音楽があった方がいい。

楽しくそれらのことを行えるからだ。

話はだいぶ逸れてしまったが
今日は ばななの不思議について 綴ってみた。

無論 これらに関して 様々な意見があるだろう。

現状 わたしの ばななに対する見解は
上記の通りである。

おわり。
写真は 全く関係のないものです。
星 可愛いし 美味しかった。去年のものです。

いいなと思ったら応援しよう!