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【歴史小説】越後の龍と甲斐の虎~川中島の合戦~
#私の作品紹介
三回のにらみ合いを経て、上杉謙信は今回ですべてのけりをつけようとしていた。
「今度このたび信州の御働きは先年に超越し、御遺恨益々深かりければこの一戦に国家の安否をつけるべきなり」とある。
ちなみに謙信と信玄の対決は、信玄にとっての信濃攻略の総仕上げ北信濃攻略により越後に接近し、身の危険を感じた北信豪族の村上氏が謙信に助けを求めたことから始まった。
越後との国境にほど近い海津に武田が城を構えて居座ったことで全面対決は不可避となった。
ところでこの時代の城はのちの平地に堀をめぐらす大坂や江戸と違い、山の要害で防ぐ山城だった。
城を落とすためには城兵の数倍で攻撃する必要があったことをこの合戦の背景として提示したい。
これが秀吉が力で押さずに水攻めや兵糧攻めをした理由でもある。
つまり犠牲が大きい。犠牲だけ出て城が落ちないことも普通のこと。
秋のにおいがしだす季節であり。まもなくこの地帯は豪雪に見舞われる。
そうなると両軍戦闘不能となる。
もし武田軍が籠城し続けたなら前線でにらみ合ったまま雪の到来となり両軍はまたもにらみ合いのみで引き返すことになっただろう。
この四度目の接触は完全な雌雄を決したい思いが双方にあったのである。
つまり攻城戦にする気が双方になかった。
武田を撃たんとして謙信が動いた。
謙信軍は武田方の城を横目に山に向かった
上杉軍は海津城の西の至近にある妻女山に向った。北国街道の一軍は善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を南進し、海津城の前面を悠々通って妻女山に。
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海津城至近の山。
武田四天王の一人、高坂弾正昌信がこの最前線の城主だった。
(ところでこの記事の事実関係はこの高坂昌信などの話をまとめたとされる『甲陽軍鑑』からの引用がメイン)
上杉軍はこの城を横目に刺激せずに妻女山に入ったことになる。
この山は謙信からすると敵地の武田勢力圏。
この上杉大群の無防備な移動を城主高坂昌信は見送った。
甲陽軍鑑によるとこの妻女山は
巧みに海津城の防禦正面を避け、その側背を脅かしている好位置
凡将ならば川付近に陣取り海津城にかかって行ったらしい。
上杉側の記述。
『越後軍紀』に「信玄西条山へ寄せて来て攻むるときは、彼が陣形常々の守まもりを失ふべし、その時無二の一戦を遂げて勝負すべし」
つまりは
もし武田軍が攻めてきたなら、こちらも攻めやすいのでそれでも構わない
と謙信は考えた。あえて弱点をさらして誘っていた。
謙信はこうして隙だらけの陣地であることを良しとした。穴を掘ったり高地、高台に石を積むわけでもなく、わき腹をさらしているようにも見える異例の対陣となった。
妻女山に着いた謙信は、日頃尊信する毘沙門天の毘の一字を書いた旗と龍の一字をかいた旗を海津の高坂昌信に向けた。龍字の旗は突撃に用いられる
「みだれ懸りの龍の旗」。
謙信の攻撃意思の明示である。
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海津城の高坂昌信は、急を甲府に伝え別に騎馬の使を立てて、馬を替えつつ急報し城濠を深くし死守の決心をした。
急報に接した信玄は、南信の諸将に軍勢を催促し、素早く十八日に甲府を立ち、二十二日には既に上田に到着した。
風林火山の一節には「疾きこと風の如し」とある。
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乱れ掛かりの龍と風林火山
2つの軍旗が向かい合った。
これにより今までのような偶発的小競り合いとは違う。全面対決になった
軍勢は二万人になった。対する謙信は一万三千人。甲府から向かった信玄軍は川中島に兵を進め、謙信に劣らない大胆さで、謙信の陣所たる妻女山の西方を素通りし、その西北方の茶臼山に陣を構えた。
謙信が、海津城を尻目にかけ、わざと敵中深く入ると、信玄はまたそれを尻目に敵の退路を断った。断ちに来た。
※全軍そろったこの段階での両軍の構え
謙信は海津城と武田本体に挟まれた形になっている。
※武田信玄からみたこの時の図
【茶臼山武田本陣】→【妻女山の上杉謙信】←【武田海津城】
こうして挟撃できる。信玄は優勢を確信したという。
しかし上杉側の目論見は違った。
その武田本陣の茶臼山を挟撃できるよう、そなえて別の城の旭山城に兵を残していた。
※上杉謙信からみた図
【旭山城の伏兵】→【武田本陣】←【妻女山上杉本陣】 (→放置→海津城
まんまと謙信の狙い通りに自分が動いていたことに信玄は賢明にも気づいた。
ただちに茶臼山の信玄大隊は陣をそのまま海津城へ移動した。
こうして信玄は海津城に、謙信は妻女山に相対峙することになった。
ここからどうやって決着をつけるべきものか?両陣営は考えだした。
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■信玄諸将の軍議はこうであった。
宿将飯富兵部、「先年以来未だ一度も手詰の御合戦なし。此度このたび是非とも、御一戦しかるべし」。
信玄は軍師の山本勘助、四天王の一人馬場民部に攻撃計画を立てさせた。
そして有名なキツツキ戦法が採用された。
キツツキは木をくちばしで叩いて中の虫を威嚇し、出てきた処を食べる
作戦計画は、次ぎの通りである。
「二万の御人数の裡うち、一万二千を以て、西条村の奥森の平たいらを越え倉科くらしな村へかかって、妻女山に攻めかかり、明朝卯の刻に合戦を始める。謙信は勝っても負けても必ず川を越えて、川中島に出でるであろう。その時信玄旗本八千を以って途中に待ち受け、前後より攻撃すれば、味方の勝利疑いなし」
主力一万二千が妻女山の背面を襲い、謙信が巣から飛び出すところを殲滅する!
「啄木鳥の戦法」
■もうひとつの上杉側の記述
余裕しゃくしゃくと毘沙門天に祈り古詩琵琶謡曲をうなる謙信。
ところで直江景綱ら重臣たちは懸念が二つあった。
〇食糧はあと十日
〇信玄は海津城に入り込んでしまったが向きを変えて越後に侵攻したらどうする?
家臣筆頭の直江景綱との会話が残されているので記す。
直江「ということで飢えかねません。春日山城に連絡し食糧輸送を頼み越後から進軍させて挟み撃ちを」
謙信「十日の糧食があれば充分だ」
直江「では信玄本隊にガラ空きの我らが領地、越後を攻められたら?」
謙信「ならば私はガラ空きの甲斐を攻める」
家臣にはこう応答したが謙信は信玄の出方を既に確信していた。
理由は海津城のいつもより多く立ち上る炊煙である。城を出る兵に持たせる食料をたいているのは間違いない。。
まもなく信玄は来る。
■信玄のキツツキ戦法は謙信に伝わっていた
「しのび」の情報も入っていた。隊を二分し、一つは妻女山の背後に廻り、もう一つは待ち受けて川中島で叩くつもりだと。
■翌朝の開戦となる激闘の前日、18時、上杉謙信は全軍に布告した
一、明十日御帰陣の旨仰出おおせいださる。尤も日短き故夜更よふけに御立あるやも知れず
二、静粛に行進して途中敵兵之を遮さえぎらば切りやぶって善光寺へ向うと心得べし
■謙信は深夜の全軍の静粛な移動を指示、目指すは武田本陣
23時、武田襲来を確信した謙信は行動を起した。
全兵は物も言わず馬の口には輪。物音を立てないよう山を下り武田信玄が待つ川中島へ向かった。
妻女山。陣中の篝火かがりびは平常通りにやかれつづけ、紙の擬旗が夜空に、無数にひるがえっていた。
武田別動隊、山県率いる12000の陽動のキツツキ部隊を引き寄せるためである。謙信全軍は妻女山にいる思わせたい。
■この夜の天候
川中島地帯は前夜に雨があったため一寸先もわからぬ濃霧だった。そしてこの濃霧はこの地帯の名物。
もしこの濃霧がなかったら謙信は隠密裏の大移動を指示しなかったかもしれない。
海津城からの妻女山攻撃部隊は奇襲をかけるべく山へ向かった。
深夜未明に互角の大軍で謙信を奇襲し信玄の待ち受ける川中島本軍とで背後から挟撃すれば兵数で劣る謙信軍は崩れる。
ところで山の秋草が道をおおっているので行軍に難渋したとある。しかも、一万二千の大軍。
夜明け前に妻女山の謙信軍と交戦する予定であったが、はるかに遅れた。
■決戦の日の早朝 信玄
平地の信玄の陣営もまた濃霧が深く立ちこめており一寸先もみえない。
信玄は陣幕の中から床机に腰をかけ耳を澄まして変化を待っていた。
武田別動隊と謙信の交戦はまだか?。。待とう と
だがこの時すでに前日の夜に陣を払った上杉軍は山を下り川を渡り目前に展開していたのである。
■午前六時
濃霧は次第に晴れてきた。
何かが違う?
そして霧が消えたその時に信玄は仰天した。
前方に上杉の大軍が潮が迫るように前進してきている。
※暁に見る千兵の大牙(謙信)を擁するを
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突然上杉の大群が現れ合戦の火蓋は切られた。
「武田の諸勢も之を見て大に仰天し、こは何時の間に斯かかる大軍が此の地に来れる。天よりは降りけん地よりは湧わき出でけん、誠に天魔の所行なりとさしもに雄はやる武田の勇将猛士も恐怖の色を顕あらわし諸軍浮足立つてぞ見えたりける」
(『甲陽軍記』武田側の記録)
不意に出られた武田勢は、最初から一撃を受け慌てた。
「謙信味方の備を廻って立ちきり幾度もかくの如く候て犀川の方へ赴き候」との報告、信玄公聞召きこしめし、「覚えぬことを申すものかな、それは車がかりとて幾廻り目に旗本と敵の旗本と打合って一戦する時の軍法なり」
この突然眼前に現れた謙信軍は激しい“車懸かりの陣”で攻め込んできたという。
静止状態で受ける武田軍 ■に対し 上杉軍△
■(武田信玄) 8000
△ ■■
△ ■■ △
↑ △ △ ↑
↑ △ ↑
↑ 上杉13000
中国の兵法にある車懸かりの陣形とは違い
武田信玄のいる陣幕めがけて回り込むようなものだったとする説が有力である。
上杉軍の先鋒は一番の猛将の柿崎景家。受けることになったのは先頭にいた武田信玄の弟、武田信繁。
そこへ勢いよく突撃した。
こうして初手で押し込んだことで上杉軍の前進運動が始まった
最初から、まさか、という事が起きた。領国経営、家臣の人事まで幅広い手腕を発揮していた信望の厚き弟の信繁はここで討ち死。
総大将の弟が討ち取られるという異例の火蓋となった。
武田軍の苦境が伝わる事実である。
他の部隊とは別に謙信手持ち兵は三千。つねに信玄を守る旗本に直接に切り込むすきを窺っていた。
山本勘助は作戦の失敗を痛感した。
自分の献策のせいで大兵がもぬけの殻の妻女山で唖然としているに違いないと。
この六十三歳の老齢は白布で鉢巻きをなし、黒糸縅しの鎧を着て手勢二百をつれて最も危険な所に出で上杉軍の中に突入し、身に八十六ヶ所の重傷をうけて部下と共に討死した。いつもともにいた信玄幼少のころからの侍従、軍師の山本勘助は龍の旋回運動の渦にのみこまれた。
その敗死の報を聞いた信玄の中では何がよぎったであろうか?
この頃両軍の後備は全部前線に出て一人も戦っていない者はいない。
武田軍の苦戦を受け、信玄周りの旗本諸将の守りが全面への援軍のために前へと動いた。
謙信はこれを千載一遇の好機ととらえ、一直線に信玄の本陣へ攻め込んだ。もとより合戦の最初から、
そして何年も前から狙いは一つ、武田信玄。
越後軍諸将は上杉隊の道をあけるように信玄軍を遮る。謙信直属隊は武田義信の隊を突破。
謙信の周りには十二騎。
信玄の周辺には人がいない。好機とみた謙信は馬廻り十二騎をしたがえて信玄をめがけた。
間もなく信玄に近寄った謙信は、長光の太刀をふりかぶって、信玄めがけて打ちおろした(謙信時に三十二歳)。琵琶の文句通り信玄は刀をとる暇もない。手にもった軍配団扇うちわで受けとめたがつづく二の太刀は信玄の腕を傷きずつけ、三の太刀はその肩を傷けた とある。
この時あわてて馳けつけた原虎義がかたわらにあった信玄の長槍をとって相手の騎馬武者を突いたがはずれ、その槍は馬の背すじの後部を突いたので、馬はおどろいてかけ出したので、信玄は虎口を逃れた。
頼山陽は語る。
べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる
鞭声粛粛 夜河をわたる
曉に見る千兵の 大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
ここで信玄を討ち取っていたら謙信の完ぺきな勝利だった。
ここまで完全な上杉謙信のペースだったが、局面はまた変わる。
妻女山に向った別動隊は午前七時頃妻女山に達したが山は誰もいない。
あやしげな紙の擬旗がすすきの間にゆれているばかりであった。そのうち朝霧のはれた川中島の彼方からときのこえ、鉄砲の音がきこえるので、十将が川中島を望んでかけ降りた。
川の上下、思い思いに雨の宮の渡わたし猫ヶ瀬等から川を渡り北進した。猫ヶ瀬を渡った小山田隊は最も早く川中島に達し、越軍の最右翼新発田隊に向って猛烈に突撃した。
原大隅守は槍を高くあげ「今妻女山より味方の先手衆駈けつけたぞ、戦いは味方の勝ちだ」と叫びまわった。
これで一気に崩れかかった武田軍は回生した。
上杉軍の総攻撃を受けて崩れる寸前だった兵に妻女山から無傷の12000人の兵が駆け付けたのである。
この新手は疲労した戦場の局面を変え、謙信の旗本の背後にむかって猛進する部隊も出た。
今までの武田軍と妻女山からの援軍にはさみうたれた格好となった
形勢は一変した。
元は武田軍は二万。上杉軍は一万三千。
■謙信は総退却を決断した
長引くのは不利だ、上杉謙信は潮時を見て取った。
全軍に退却を指示した。
犀川をわたるに当って信玄軍の新手の追撃をうけて討死や溺れる者が続出した。犀川は水量が相当に多いのである。
殿軍甘粕近江守景持は部下を集めて最後に退却。
この甘粕隊の素晴らしい殿軍ぶりは川中島合戦のラストとして語り継がれています。
こうして川中島合戦は終った。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
損傷を比べて見ると、
上杉方
死傷者三千四百
武田方
死傷者四千五百
元は上杉の兵が少ない
信玄は二万
謙信は一万三千
武田方の方が被害は大きく弟信繁は討死。信玄自身と子の義信も負傷している。上杉方は名ある者は一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
豊臣秀吉の川中島の合戦批評
「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝なり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝なり」
川中島合戦の蒔、信玄は四十一歳、謙信は三十二歳である。秀吉に云わせると「ハカの行かない戦争を」やったに過ぎない
お読みの方はどちらが勝ったように見えましたか?
信玄は謙信に突っかかったことで天下からは遠ざかりました
ただし前回の記事
信玄は家康に完勝
謙信は織田家筆頭の猛将、柴田勝家に完勝
では
満田票
![](https://assets.st-note.com/img/1642518089829-hhpkWGs41J.png)
ありがとうございました
岡山の津村啓介先生です
#上杉謙信。
— 津村啓介 (@Tsumura_Keisuke) September 18, 2022
光栄です。小学生の頃、川中島合戦に憧れ、武田信玄との一騎打ちのシーンをチャンバラごっこで随分やりました。
当時メジャーだった大人向けの #歴史への招待 という雑誌を購読するキッカケになったのも謙信と坂本龍馬。
でももし #ショウガイフボン の話でしたらコメント難しいです💦 https://t.co/xhxoNJIg8e
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