mahal(マハール)

【ちゃちゃんN】というパンクバンドでベースを弾きながら歌っているパーソン。刑事法学(刑法・刑事施設関連の諸々)。大きな病気に罹ってしまい、それから(以前にも増して)ゆるゆる生きています。

mahal(マハール)

【ちゃちゃんN】というパンクバンドでベースを弾きながら歌っているパーソン。刑事法学(刑法・刑事施設関連の諸々)。大きな病気に罹ってしまい、それから(以前にも増して)ゆるゆる生きています。

最近の記事

刑務所(刑事施設)における不服申立制度〜刑事施設視察委員会に対する不服申立てに関する問題点

刑事収容施設法には、被収容者が刑事施設についての苦情等を申し立てる手段がいくつか用意されていますが、特に外部への申立ての手段としては、刑事施設視察委員会への申立てというものがあります。これは郵送でも可能なのですが、刑務所の場合には、舎房に設置してある投函用の箱、通称「目安箱」に投函することもできます。 問題はここからで、舎房に設置してある、その通称「目安箱」に投函できるタイミングというのは、朝、工場へ向かう際の移動時のみになるのが実情なのです。しかし移動時には複数名の刑務官

    • 刑務所における医療体制

      刑務所での医療体制の不備を揶揄った、受刑者の中でよく言われる言葉に「刑務所で風邪をひいたら(病気をしたら)死ねと言ってるのと同じだ」というものがあります。 実際、刑務所における医療体制には大きな不備があると思います。例えば、施設によっては、医師による定期的な検診を行わない所もあります。某刑務所では、医師による診察を受けようと思った場合、受刑者の前に先ず登場するのが刑務所の職員である准看護師です。その准看護師が、受刑者の申し出により不調の状況を聞き、自ら「診察」してしまうので

      • 身柄を拘束された被疑者という立場(逮捕は刑罰ではない)。

        犯罪行為を行ったと捜査機関に嫌疑をかけられた者は被疑者と呼ばれ、要件が揃えば逮捕・勾留されることがあります。 この逮捕、それに続く勾留という身柄の拘束は、主に警察署内にある留置施設においてなされます。そこでの身柄拘束の期間は、最長23日間とされています。 この間に、検察が起訴をすれば、身柄拘束された者は、被疑者という立場から被告人という立場に変わります。刑事訴訟の一方当事者となるわけです(もう一方の当事者は検察官です)。 ここで注意していただきたいのは、被疑者という立場

        • 1型糖尿病に起因する低血糖により「分別もうろう状態」となり、責任能力が否定された事例。〜刑法39条〜

          刑事責任能力といえば、一般的に誤解に塗れた概念だと思います。一番よくあるのが、「精神疾患に罹患している者は罪に問われない」という誤解でしょう。 このnoteの別記事で、その誤解を解く一助として、責任能力の構造や具体例(過度の飲酒による病的酩酊や「ねぼけ」の状態での行為も刑法39条の守備範囲の内にあるということなど)を書いてきました。 今回の記事では、1型糖尿病に起因する低血糖による「分別もうろう状態」での行為について責任能力が否定された裁判例をご紹介いたします。それをもっ

          刑事責任能力(刑法39条)〜計画的な犯行だとしても、それが常に完全責任能力であることを意味しない。

          責任能力(刑法39条)を論じる際に、よく聞かれるのは「計画的な犯行なので、責任能力に問題があるわけがない!」という言説。しかし以下に紹介する裁判例では、「その被告人が罹患している精神疾患の影響が大きかったゆえに、計画的な犯行が行われた」という判断がなされています。それはこのような事案です。 【双極性感情障害(Ⅱ型)に罹患し、うつ病状態に起因する希死念慮及び拡大自殺願望の影響を受け、心神耗弱の状態にあった被告人が、無理心中を企て、実子2人を次々と包丁で刺したが、いずれも殺害に

          刑事責任能力(刑法39条)〜計画的な犯行だとしても、それが常に完全責任能力であることを意味しない。

          ある刑務所の立派な刑務官。

          大阪矯正管区内のある初犯刑務所で、とても立派な刑務官(工場担当官)の方にお会いしたことがあります。 その工場は、屋外で作業を行っているので、夏などは地獄の暑さになります。しかしその工場の受刑者は半袖にはなれずに、長袖を着用しなければならないという決まりでした。 暑さによる苦痛で受刑者の顔が歪む中、よくよく見ると、その工場担当官の方も受刑者に合わせて長袖の服を着ていたのです。刑務官には夏用の半袖シャツが支給されているにもかかわらず。また、長袖シャツを着用するにしても、その場

          ある刑務所の立派な刑務官。

          刑法39条「刑事責任能力」(心神喪失・心神耗弱)を理解する。

          刑事責任能力について問題になった事件が報道されると、SNSなどには誤解に満ちたポストが山のように投稿されます。 そしてそれらのポストの大半が、刑事責任能力に関する刑法39条を廃止すべきという意見です。 しかし、それらのポストなどを見ていると、刑事責任能力、そして心神喪失、心神耗弱という概念について、真に理解している方は殆どおられないように見受けられます。 最も目立つのは、「精神病に罹患している者=無罪」という、完全に誤りである単純な等式です。しかしそんなわけありません。 以

          刑法39条「刑事責任能力」(心神喪失・心神耗弱)を理解する。

          言葉を使って一体何を表そうとしているのか?

          読んでいて伝わりやすい本や作品は僕も好きなのですが、表現が難解な本や作品もまた好みです。 ここで言う「難解」とは内容の深遠さとはまた違って、表現上の体裁のことを指しています。「文学的」という言葉よりも、「芸術的」(「感覚的」と言ったほうが良いのかも…)という言葉のほうがしっくりくるような表現の仕方をしている作品もまた好きだということなのです。 これは、イメージでイメージを喚起させるような作品というか、イメージによって何らかの感情を生起させることができる作品というか、とにか

          言葉を使って一体何を表そうとしているのか?

          なぜ他者に伝えようとするのか?

          現在の現代詩界隈の文壇が一体どうなっているのか全くわかりません。なので久々に、かつて読んだり書いたりしていた雑誌でも購入してみようと思います。お世話になっていたあの方々は、今どうしているのでしょうか? フリクションというバンドのレックという人が、概略、次のようなことを言っていました、即ち、「ミュージシャンは音楽が好きであるあまり変な方向に行ってしまうことがある。音楽が好きということであるならば、一人で演奏していればよく、あえて人前でやる必要もない。ステージに立つ意味など、一

          なぜ他者に伝えようとするのか?

          意味の洪水、意味の枯渇

          どれほど複雑で難解な歌詞や詩にも必ず何らかの意味があると思い、無理やり意味をこじつけこじつけして何とか読解しようとしていたときがありました。比較的若いときがそうです。(深遠な?)意味の込められていない歌詞や詩などそれこそ意味がないとまで思っていたこともありました。 そんな訳なので、自分で何かを書く際にも、文章には何らかの意味を込めていないと意味がないと思ったりしていました。 なのですが、最近、文章に逐一意味が込められていなくても、イメージがイメージのまま伝われば大成功だと

          意味の洪水、意味の枯渇

          不義理の洞穴

          脳みそとマインドは刺激し続けるべきやね、さっき幸い10代の頃のなんも考えへんスコーンとしたソウルを思い出すことができたよ、頭とマインドがスッキリしてソウルが燃焼したよ、軸が明確になったよ、言語が踊っているよ、アスファルト路面に白い穴を穿ったよ、寝ないよ、角砂糖は不要なので持って帰ってくれよ、堅い握手をしてもう二度と会うのはよそう。

          詐欺師、風呂、人間

          「新しいチョッキを買ったんだ。まあ見ていってくれ給え。すき焼きも食べ給え、この糸蒟蒻がたまらなく美味いのだ、もっと食べ給え。そもそも君は気持ちが悪い。悪辣な詐欺ばかり働いて、一向に風呂に入る気配がないのだから気持ちが悪い。ああ気色が悪い。」 当初はてっきり、もてなされているとばかり思い込んでいたが、どうもそうではないらしい。結局のところ悪口雑言を浴びせられているのだから。 しかし私が詐欺ばかり繰り返しているのも、一向に風呂に入ろうとしないのも、なんら間違ってはいない。

          詐欺師、風呂、人間

          杜撰な脳

          メルカトル図法など信じていたから気が狂ってしまったんだ。誰かが捨てた腕時計など喜んでつけていたから一向に朝が来なかったんだ。杜撰な作りの脳よのう。

          表現の自由市場

          現代詩と称して何やら書いていますが、自身の中にある明確な思いや、逆にモヤモヤっとした部分を、なるべく最低限の言葉で表そうとしています。抽象的に書いてみたり、象徴的に書いてみたりと、恐らくかなり読み取りにくいものになっている気がします。 今は本当に様々な媒体を通して自分の作品を発表できる時代です。それが一概に良いことと言えるのかどうかは分かりませんが、思想や表現の自由市場が形成されることは望ましいのでしょうね。 そのような中では、書く際はもとより読む際にもそれなりの眼が必要

          表現の自由市場

          人間の幸福

          神社への賽銭の投げ過ぎで自己破産した甲と大量の大豆を窃盗したかどで起訴され保釈中の乙が手を取り合って街のメイン道路でパレードをしている。互いに手の内が見えないことを嘆いている。 沿道では公共交通機関を利用できない人々がその背中の辺りに汁粉を載せながら這いつくばって前進あるいは後進している。 寒空の中に光る星座を見つけて失脚する厚生労働大臣。 特別養護老人ホームの敷地に無断で忍び込み鍋をつつく天秤座の力士たち。 時計屋で葱を購入しようとする熟練の書道家。 空想の孤独感に酔い

          曖昧模糊

          交通量の多い市道の端にひっそりと佇んでいる頭の欠けた地蔵。小さな賽銭箱の中には鳩の雛が押し込められているとのこと。 鳩よ!老舗の左官屋よ! 「もずくはエナジー」そう言い切った男がいた。 そんなことあるもんかい!と瞬時に否定してしまった僕を許してくれ。にわかには信じられなかったんだ。今では恥じ入るばかりだ。反省しているんだ。 やあ、下校中の小学生たちがリコーダーを吹いているよ。あの曲は「三度のノックはペリーの合図」だな。僕は今でもよく吹いているしよく歌っているんだ。時代が変