ボクのサピエンス全史
9万字の長さがあるコラムオムニバスです。
同じマガジンに幾つか各コラムを修正して順次投稿していますので、そちらを先に読まれて、お気に召しましたら以下をお読みください。
こちらはコラムのオムニバスとなっていて、各コラムのソロ投稿より若干荒削りですが、話の流れ・各コラムの繋がりも作品の一部となっています。
快楽と謀殺が人類を進化させ、
サイコパスと美意識が文明を築き、
深い森が日本人を育み、
増大するエントロピーが世界を溶かしていく。
第一章
快楽と恐怖と
サドはドーパミン、
マゾはエンドルフィンの過剰分泌体質だ
○月△日
ボクはサドでもあるマゾです。突然のカミングアウトです。たいしたカミングアウトでもないか。いつもはマゾ、たまにはサドですね。
マラソンのように、マゾヒスティックに走り続けることがたまらなく好きです。またある特殊な場面で、サディスティックに興奮することの虜になっています。その特殊な場面が一体何なのかを、ここでつまびらかにする訳にはいきませんが。
サドは他人の苦痛を見て興奮を覚える性質です。一方、マゾは自分の苦痛を快楽に感じてしまう性質です。これらは逆の性質のように思われがちですが、それぞれ独立した性質だと思っています。
あの人はSだ、いやMっ気があるぞ、という議論のように、SかMかのどちらか対立的に使われることが多いようですが、逆の性質とは思えないのです。
自分の中でサドとマゾが両立できているので、少なくともこれらは対立した性質ではないと確信しています。
では何かというと、すでにタイトルにも書いています、それぞれ違う脳内の化学物質、脳内麻薬や脳内ホルモンなどと言われる物質の、過剰分泌体質だと考えています。
この理論、ボクの知る限り、まだ誰も唱えていないようです。探せていないだけかもしれませんが、ひとまず書いておきます。
マゾは苦痛を受けた時に快楽を覚える人のことです。この苦痛を和らげる脳内麻薬のエンドルフィンが、普通の人より過剰に分泌する人、それがマゾになると考えました。
この脳内麻薬の分泌は、誰にでもある身体の防衛反応です。苦痛を受けた時、その苦痛を麻痺させ相殺する麻薬を自分の脳へ分泌します。それによって苦痛から逃れられる仕組みです。脳のひとつの機序です。それがないと、傷を負った時などに耐えられず、悶絶して気絶までしてしまうでしょう。
進化論的に考えると、猛獣などに襲われた時、あるいは人間同士の戦いで傷を受けた時、出来るだけ早くその場から逃げる、あるいは反撃するなどの行動ができた個体ほど、生き延びたはずです。そのような時に、苦痛のあまり悶絶気絶するようでは生き延びる確率は小さかったでしょう。
戦いの一撃目で傷を負った、勝てそうにない、逃げなくては、いやここは耐えて反撃だ、という事態になった時、傷の痛みを感じなくさせないと、素早い行動には移せません。
人間は、そのような苦痛を受けた時に、苦痛を相殺させる仕組み、機序を持つよう進化してきました。それが脳内麻薬のエンドルフィンの分泌です。
もちろんこのエンドルフィンを分泌する量は個体よってバラツキがあるでしょう。その分泌量が過剰に多い個体は確率的にいるはずです。その中には苦痛を凌駕して、有り余る快楽に包まれる個体もいるでしょう。
普通はイタッです。たまにイタむキモチイがいて、まれにイタタあれれおーキモチイー!がいて、そしてそのキモチイが過剰にキモチイイー!となる個体がいるのです。
そして慣れてくると、苦痛を予見して、まだ痛くないのに、先にエンドルフィンを分泌することも可能になってきます。期待に身をよじってしまいます。もうここまでくると立派なマゾヒストです。
これがマゾの仕組みです。マゾの機序です。なかなかの美しい理論でしょう。反論の余地がありませんね。
さてそのマゾの逆がサドであれば、エンドルフィンの分泌量が極端に少ないのがサドなのでしょうか。少ないことで他人の苦痛が興奮となるとは考えにくいです。違う仕組みがあるはずです。違う機序があるはずです。機序という何だかカシコそうな言葉を最近知って、気に入ったので何度も使っています。
マゾは自分の苦痛に快楽を感じ、サドは他人の苦痛で興奮を覚えると、最初に書きました。あえて、マゾは”快楽”、サドは”興奮”と区別して表現したのです。マゾは、アーキモチイーのですが、サドは、オオーコーフンスルナーなのです。ボクの感覚ではそうなのです。別次元の気持ち良さなのです。
サドの興奮は、エンドルフィンではありません。この興奮は、おそらくドーパミンなのです。また違った脳内麻薬です。その過剰分泌だと考えています。
さて今日はこれまでにしておきます。また今度サドについて書きます。すぐには書きません。焦らすのです。焦らします。焦らされると嫌ですか。嫌ですか。とても嫌でしょう。嫌がってくれるとドーパミンが出てきます。すごくコーフンします。サドの機序です。
それはともかく冒頭の記事から、自分の快楽と興奮について、露わに書いてしまいました。露わです。露わ。露わって恥ずかしいです。恥ずかしい。何だかとっても恥ずかしい。恥ずかしいとエンドルフィンも出てきました。すごくキモチイイです。マゾの機序です。
この先、こんな感じで大丈夫だろうか。たぶん大丈夫じゃないでしょう。それではまた。
サドとマゾはお互い殺し合いをしながら進化した
○月△日
考古学の発掘調査によると、原始時代の人類は、というか原始時代の人類”も”、お互い殺し合いをしまくっていたようです。発掘された頭蓋骨の多くには、左側頭部に陥没痕があるから、そのようなことがわかるのだそうです。
つまり頭に狙いをつけた左側への攻撃を、頻繁に受けていたのです。陥没するということは、石などの武器を用いたはずで、武器で頭だけを狙えるのは同じ人類だけです。おそらく太古の昔から、右利きは多いはずですから、正面を向いた相手の左側へ攻撃が多かったのです。
右手に石を持ち、正面を向き合って、殴り合って、頭蓋骨が陥没するような、ヒリヒリするスリリングな戦いの果てに、生き残った子孫が我々だということです。つまり、そんな遺伝子が我々に残されているのです。
前回の最後に、サドは脳内麻薬のドーパミンが過剰に出て、興奮するのだと書きました。
相手の苦痛に歪む顔や流血を見た時、過剰にドーパミンを出して、興奮状態になれるのがサドと考えました。また進化論的に考察します。
さて仮にS度ゼロ、つまり相手の苦痛を見ても興奮しない人間が戦っているとしましょう。そのサドゼロの攻撃がたまたまヒットして、相手に傷を負わせます。相手は傷によって苦痛に顔を歪めます。血も出ます。
サドゼロは興奮せずに「ああ、ごめんよお、痛かった?」「うわー血だあ」という”人間的な”感情に一瞬包まれて、ひるんでしまいます。戦いではひるんだり、怖じ気付いたりすると負けです。相手はその隙を逃さず反撃に出ます。
さてその後、サドゼロは戦いに勝てるでしょうか。勝つ確率は低いでしょう。そういう戦いが何万年も続くと、サドゼロの血統は途絶えてしまうでしょう。
逆にS度マックスの人間だとどうでしょうか。相手の苦痛でみるみる興奮できる人間です。サドマックスの一撃が相手に当たります。相手は苦痛に顔を歪め、血を出します。
サドマックスは、当然その光景を見てドーパミンを出して興奮し、攻撃の手を緩めません。「ウヒョー、オラオラオラー!」という雄叫びを上げ、相手にとどめを与えます。さらにドーパミンは出ます。もっとドーパミンが欲しくなります。助けに来る敵の仲間を、次から次へと倒していきます。
そういう個体は生き残るのはもちろん、仲間から信頼されリーダーとなり、繁殖競争にも有利になるはずです。
苦しんでいる相手に興奮するサドマックスの末裔が、我々なのです。他人の不幸を蜜の味と思える感覚、ついつい悲惨な事件や事故のニュースを見入ってしまう習性は、自分はああならなくて良かったという安堵感と言われていますが、まったく違います。サドの血が流れているために、ドーパミンが出て、酔いしれているのです。
カーン!
さあゴングが鳴りました!
始まりました、世紀の一戦、サド対マゾです!
おーっと、いきなりサドがパンチを繰り出し、マゾにヒットしましたあ!
しかし、マゾは痛がりません。効いてるはずですが!
グンジさん、これはどういうことでしょう?
あーたぶん、マゾはエンドルフィンを出して、苦痛を和らげているからでしょう。
なるほど! 勝負は一進一退です!
しかし、サドはいつものような迫力がありません。
あーたぶん、相手が痛がらないので、サド得意のドーパミンがあまり出なくて、なかなか興奮できないのでしょう。
なるほど! おーっと、こんどはマゾのパンチがサドに当たりましたあ!
サドは苦痛に顔を歪めます!
あーたぶん、サドはマゾ体質ではないので、エンドルフィンが足りないのでしょう。痛さに耐えられないようですね。
なるほど! そのせいか、サドの攻撃の手が緩んだようです!
ヌオオオオオー!
おーっと、マゾは興奮し始めました! これはどういうことでしょう?
あーたぶん、マゾはサド体質でもあるのでしょう。苦痛に歪める顔を見て、ドーパミンが出て興奮しているのですね。
なるほど!
ドオオオオオリャー!
おーっと、マゾが、えーサドでもあるマゾが、どんどん攻めていきます!
サドは、うーマゾではないサドは、防戦一方だあ!・・・
いやー興奮しますねー。
あーたぶん、あなたもドーパミンが出ているのですね。
なるほど! それではまた。
ロマンとロマンティック
脳内麻薬が止まらない
○月△日
さて、いくつかの脳内物質を自分なりにまとめてみようと思います。
ドーパミン
やる気を司る。ワクワクする。いわゆる達成感。成功したとき、ギャンブルの興奮、満腹感、飲酒、ゲーム、ポルノなどでも分泌される。効果は一時的。同じ刺激で満足しなくなる。依存しやすい、つまり中毒になりやすい。脳内麻薬という称号がふさわしい脳内物質です。
相手を痛めつけるときにドーパミンが過剰に出る人間が、サディストになるというのがボクの説でした。
エンドルフィン
痛みを中和して忘れさせてくれる。強い快楽性がある。走っている時の苦痛を忘れさせるランナーズハイが有名です。瞑想やヨガのリラックス時にも出るようです。感謝したり感謝されたりするときなどにも出るようです。
痛めつけられたときにエンドルフィンが過剰に出る人間がマゾだ、という説も書きました。
セロトニン
幸せを感じる時に出る。日光浴や散歩、雄大な景色に触れたとき。心が落ち着いたとき、瞑想、感謝のときも出る。
オキシトシン
愛情を感じる時に出る。愛する人やペットとのスキンシップ、マッサージのときなど。結束した連帯感。親切にしたり親切にされたりしても出る。感謝の記述もありました。
エンドルフィンとセロトニンとオキシトシンでかなり重なる部分があり、いろいろ見聞きしても区別が明確でない感じです。感謝したり感謝されたりするとき、どれも出る記述を見かけます。ブログ記事なんかじゃなくて、もうちょっと学術書的なものを読む方がいいのかもしれません。
ドーパミンは興奮的快楽、エンドルフィンは個人の内的起因快楽、セロトニンは大自然と触れた時などの外的起因快楽、オキシトシンは関係性やスキンシップ系快楽、と勝手に区別しました。
はっきり言えるのは、ドーパミンだけは、依存性があるなど暗黒面があります。成功や達成に関わり、努力や成長につながるものの、逆に人を怠惰に堕落させるポテンシャルもあります。少なくとも感謝などの良好な人間関係とは無関係です。
オキシトシンも暗黒面があるらしいのですが、話が複雑なのでここでは触れません。いずれ取り上げます。
さて、とある日本の大富豪の話です。フェラーリを十数台だか数十台だかを持っていて、新車のリリースのたびに新しいフェラーリを購入しているのだそうです。典型的なドーパミン快楽に陥っています。もっとお金を、世のため人のために、有効的に使えないものでしょうか。
フェラーリは成功の証です。新しいフェラーリを買うたびに、自分の成功の達成に酔っていることでしょう。ただドーパミンの効果は一時的なのです。次第に満足感が減るのです。つまりどんどん買い続けないと満足できないのです。フェラーリの富豪さんは、本当に幸せなのでしょうか。
高級腕時計なども、財力があれば際限なく買い続けることはよくあることです。オメガを買えばロレックスが欲しくなり、ロレックスを手に入れたら、次はパテックフィリップ、そしてヴァシェロンコンスタンタンが欲しくなるのです。順番はこれで合っているのか、実はよくわかっていませんが。
ゲームにハマって課金しまくっている構図も、同じドーパミン中毒です。
フェラーリもロレックスもツムツムも、結局は同じドーパミンを追いかけているのですね。
せ^つな さ〜は 、、止^まらない、のです。古いな。
一方でオキシトシン系の快楽は、ドーパミンのように、次第に満足しなくなることはないようです。赤ちゃんを抱くときの幸せや、犬をなでるときの幸せは、毎日が同じであっても、それで十分です。飽きてきて、赤ん坊や犬を取っ替え引っ替えするようなことにはなりません。
フェラーリストラダーレ快楽とラブラドールレトリバー快楽は違うのです。同じ4WDで、似たようなカタカナが並んでいますが、全然違うのです。それに犬を4WD、四輪駆動と言うのも間違いです。
タイトルを回収しましょう。ロマンとロマンティックは何が違うのか。どちらもウットリしますが、脳内物質による快楽が違います。もうおわかりですね。ロマンはドーパミン、ロマンティックはセロトニンやオキシトシンです。
ロマンは夢や冒険に使われる言葉です。達成するとドーパミンが出てくるのです。フェラーリは男のロマンでしょう。冒険もロマンです。
それらは達成するとドーパミンが出ますが、一時的です。もっともっと欲しくなります。
冒険だと、次はさらなる過酷な冒険を目指します。大自然に触れる冒険ならばセロトニンも出ますが、次から次へと冒険を続ける構図は、ドーパミン快楽の中毒性が勝っていると思われます。
マッキンレーを登頂したらモンブランやアコンカグアやキリマンジャロやチョモランマを目指したくなるのです。
さっきから無性にカタカナを羅列したくなっています。ドーパミン快楽があるのでしょうか。ヴァシェロンコンスタンタン。フェラーリストラダーレ。アコンカグア。おおー。
ハーレムも男のロマンです。多くの男のあこがれです。中国の皇帝は何千人も妾がいたそうです。意味不明ですが、際限がないことだけはわかります。
ボクに関しては5人くらいで十分ですがね。それでも持て余すかも。
ロマンティックは、セロトニンやオキシトシン系です。愛情系です。いちいち例を説明する必要はないですよね。
なんだかロマンティックは女性っぽいです。一方でドーパミンのロマンは男性的です。このようなジェンダー的な比較論はポリコレ的に面倒なことになりそうですが、以降もいちおう理解の上、ポリコレなんぞ無視して進めます。
ポリコレ"なんぞ"呼ばわりしていいのだろうか。いいのです。
なので恋愛関係にドーパミン的な快楽を持ち込みやすいのが、男と言えるでしょう。そしてドーパミン的に恋愛をしてしまうと、いずれ飽きがきて、取っ替え引っ替えしたくなるのです。別にそれを肯定しているわけではありません。
男は、恋愛関係を「狩り」、女性を「獲物」と、心のどこかで捉えてしまう傾向があるのです。そのほうが進化論的に、自分の遺伝子を多く残しやすいからです。別にそれを肯定しているわけではありません。何度でも言います。
たまにゴージャス系美女をめとる成金男がいます。トロフィーワイフですね。あれは獲物でしょう。ドーパミン系のはずですから、将来どうなるかは明々白々です。自分がトロフィーだと思った女性は将来に備えましょう。
なので恋愛関係や婚姻関係は、セロトニンやオキシトシンを出し合う仲になれば、飽きることなく長続きするで・・・・
どうした。遠い眼をして。
ひ^とり で〜は 、、ね^むれない。なぜ歌う。それではまた。
ホモ・ハシレルス
○月△日
太古の人類は、アフリカ大陸から各大陸へ進出しながら、多くの陸上動物を狩り尽くして絶滅に追い込みました。
最近の記事で読んだのですが、人類が陸上動物の頂点に立てた理由は、単に知能が発達して、道具を使って集団で狩りをするようになったからではない、とのことです。
知能以外に人類は、何の武器があったのでしょうか。
それは長距離を苦もなく走れるようになったからだそうです。ただただ、長く長く辛抱強く走り続け、動物が疲れ果てるまで追い詰め、遂には仕留めたのだというのです。そうして多くの動物を、地球上から駆逐したのです。
長距離を走り続けるためには、運動によって産生する熱を体外へ逃すシステムが必要です。人類は、そのために体毛を減らし、汗腺を発達させ、汗の蒸発で熱を逃したのです。
体毛が濃くて汗が出ない動物は、うまく体の熱を逃すことができません。長く走っていると、体温が上がりすぎて、動けなくなるのです。要するにバテるのです。サウナスーツを着て走るようなものです。
濃い体毛は、低い気温や、冷たい雨、危険な虫、ケガなどから身を守ることができます。人類はそれらのメリットをあえて捨て去り、裸になって、戦いを持久走に持ち込んだことで勝利できたのです。
他の動物たちが身を守るには、人類に走り勝つしかなかったのです。知能の勝負じゃなかったのです。
その証拠に、現在地球に生き残っている野生動物は、小さくてすばしっこいか、大型動物であれば、汗をかける馬か、険しい山岳や深い森の動物か、体が熱くならない寒冷地域の動物しか残っていません。走り負ければ、絶滅か家畜化が待っていました。
いつまでも追いかけてくる、あの毛のない猿ども、
しつこいよー。もう、いやー。
暑いよー、しんどいよー。ンモー。
という動物たちの恨み節が、何十万年も各大陸で聞こえたことでしょう。人類の大陸進出と同じ時期に、大型動物たちは次々と絶滅していきました。
比較的アフリカ大陸に大型野生動物が多く残っているのは、人類がアフリカ大陸で発生したからです。人類の進化に合わせて、早くから人類取扱説明書を作成し、せっせとアップデートしてきたのです。
"あの毛の無い猿どもは厄介だ。臭いを憶えておけ。戦うな。見かけたらすぐ逃げるのだ"
アフリカ以外の大陸では、突然走れる無毛の猿がやってきて、対応する時間がなかったのです。弱そうな猿だったので、みんな油断したのです。
聞いてないよー。
何なんだよー、暑いよー、ンモー。
さて人類の方も、さらに長く走れるように、進化する必要があったはずです。長く走り続けて、しんどくなって諦めては獲物にありつけません。長距離走の辛さを克服する必要があります。
ならば走りながら、脳内の快楽物質を多く出すようにします。走ることが辛いより、気持ち良いと感じるようにするのです。前にも書きました。エンドルフィンです。ランナーズハイです。
そして走れない人間、すぐにバテるような人間は、役立たずとして排除され、淘汰されたでしょう。走れる人間だけが生き残りました。
"今度遅れたら、お前には獲物はやらんからな。知らんぞ"
テレビでマラソンや駅伝の中継があると、ただ走っているだけの映像なのに、何が面白いのか、ついつい観入ってしまいます。あれは、走り続けて獲物を追い詰める、我らが集落の英雄を見ている太古の記憶があるからなのでしょう。
毎年正月に、山を走る若者を「神」と崇める風習が関東地方に残っています。寒いなか大勢の人たちが沿道で旗を振り、拝んでいます。
一時期ボクはマラソンにハマっていました。その頃よく言われたのです。42キロも走れるって信じられない、しんどいのに走る人の気持ちがわからない、すごいですねと。
でも尊敬よりも、変人を見る目で言われていました。
お前ら、情けないぞ。今の繁栄があるのは、オレたちが走れるようになったからこそだ。走ることが人類である証だ。再び動物どもを走って追い詰めないと、生きていけなくなる世の中が来たら、どうするのだ。お前らに獲物はやらんからな。知らんぞ。それではまた。
原始への回帰ダイエット
○月△日
25歳くらいからの約30年間、体重はずっと72〜74キロの中にあり、身長175センチからすると、標準とやや肥満の境目をずっと推移していました。
30歳からジムに通うなど定期的に運動するようになり、40〜45歳の頃はマラソンに目覚めて走りまくっていましたが、体重の増減がほとんどなく、30年もの間、プラスマイナス1キロをキープしていました。
これは異常体質なのか何なのか、分からなかったのですが、特に持病もなく健康だし、ま、いいかと思っていました。
ところがこの半年で8キロ減です。体脂肪率も9%減です。55歳にして腹筋が割れ始めています。特に摂取カロリーも運動量も変わっていないはずです。
すわ、ガンかと、CTで診てもらいましたが、何も異常はありませんでした。
そう言えば2年前からランチ食べない族となりました。空腹が健康や集中力に良いのだと聞いたのです。しかし体重が落ち始めた時期とは異なります。ランチ抜きは関係なさそうです。
体重が落ち始めた頃を思い返すと、昼休みにウォーキングを始めていました。それまでは会社の机で、読書かスマホニュースなどを見ていました。ずっと座っているのは不健康と聞いたので歩くようにしたのです。それで1日の平均歩数が5000歩から10000歩へ増えています。
たかだか5000歩増えたくらいでは何も変わらないと思っていました。以前はマラソン大会の準備で、月に200キロ走破していた時もありました。それでも痩せませんでした。マラソンに比べて、5000歩の消費カロリーなんて、わずかです。では何が違うのか。
それは、空腹での運動だったことです。毎日お昼に空腹状態で歩いていました。オフィス街にいましたので、昼はランチに集まるビジネスパーソンが、至る所でラーメンだの牛丼だの炭水化物を摂取しています。
それを横目に闊歩していたのです。他人が食べている姿を見ると、飢餓感は余計に増します。お腹はグーグー鳴ります。それでも30〜40分歩いていました。
この飢餓状態で歩くということは、原始時代への回帰だったのではないでしょうか。太古の昔、我々は狩りの時、常に歩き回っていたのです。その歩いている時間の、おそらくほとんどは飢餓状態だったでしょう。この原始への回帰が体重減少の原因だったと思うのです。
野生動物の狩りとは動物との勝負です。身体的に万全の状態が必要です。身軽に動く必要があります。体脂肪が付いていると動きが鈍くなります。特に走り続けて追い詰めるとなると、身体が重いことは不利になります。マラソンランナーは皆、痩せています。
脂肪はエネルギーの備蓄として必要ですが、備蓄よりも新たなエネルギー源を獲得する方が優先されます。狩人には養うべき家族がいるからです。
ボクには養うべき家族がいる。走って走ってバッファローを狩るのだ。こんなにも脂肪を付けていてはダメだ。今度また走り遅れると獲物を分けてもらえないのだ。うちのボスは恐ろしいのだ。
55歳にして腹筋が割れ始めていたのは、原始への回帰だったのです。それではまた。
いじめ問題と
竹刀を持った体育教師と
ヨーダの無駄な長生き
"恐怖のともにあらんことを"
○月△日
10年くらい前に、会社のショートスピーチで「絆(きずな)」という言葉が大嫌い、気持ち悪いと話したことがあります。
この「絆」という漢字は「ほだし」とも読めます。情にほだされるなど、しがらみに絡みとられて、自由が利かないニュアンスがあります。
ウィキ先生によると、きずなの由来は、家畜を立木に繋いでおくための綱とあります。きずな(木-綱)、綱、繋ぐ、すべて同じグループの言葉っぽいです。繋がれるって、嫌な感じがします。
ただそういう意味があるからというより、団結とか結束を美しいものとする風潮が、何となく受け入れられなかったのです。なでしこジャパンがW杯で優勝した頃で、世の中の「絆ってスバラシイ」空気が充満して、鼻についていました。
つい最近、オキシトシンという脳内物質についての記事を読んで、この件についてようやく腑に落ちました。
このオキシトシンは愛情ホルモンと呼ばれ、人と人との結びつき、連帯感で幸せに感じる脳内物質です。
しかし一方で、同じグループに属さない人を、攻撃的に排除することを促すホルモンでもあるようなのです。つまりグループの結束を強くするための連帯感ホルモンは、結束外の者を排除する攻撃ホルモンでもあるというダークサイドを持っていたのです。
ボクは絆に、そのダークサイドを感じ取っていたのだと納得できました。
いじめの問題も、オキシトシンのダークサイドで説明できるようです。結束が必要な活動で、活動での連帯感が大きいと言えば、シンクロナイズされた音楽です。例えば、吹奏楽部は、意外にもいじめが最も多い部活だそうです。またクラス対抗の合唱コンクール大会があると、その練習期間中にいじめが多発するそうです。
結束して組織への帰属意識が高まると、連帯感にともなうオキシトシン量も増えるでしょう。そのぶんダークサイドがより暗くなります。そのために、帰属できない人を見つけてしまうと、攻撃したくなり、いじめが増えるのです。
結束、連帯していると気持ちいい。しかし結束外の人を見ると、無性に攻撃したくなる。それがオキシトシンなのです。いじめが悪いことだとわかっていても逃れられないのです。
そもそも、オキシトシンは子供を守るためのホルモンのようです。授乳するときなどにオキシトシンは分泌されます。もしそんな時に、愛情を注いでいる子供に脅威があれば、攻撃が必要になるでしょう。オキシトシンのダークサイドは、子供を守るための攻撃性だったのです。
動物でも、子育て中の母熊などには、近づいてはいけないなど言われています。オキシトシンレベルが上がっているからでしょう。
ここ数十年で、団結やら結束系のものが教育現場で増えたような印象があります。ひと昔前、いやふた昔前か、ボクの中学高校時代、いや三つ昔前か、とにかく合唱やダンス大会のような、シンクロナイズされた結束型イベントなんて皆無だったように思います。しかし、今は大流行りのようです。ダンスの授業も始まっています。卒業式の呼びかけ、声掛け、なども団結結束系でしょう。
それらを教えたくなるのは理解できます。みんなが一つになって何かをやり遂げることは、教育的醍醐味が満載です。教育する側も教育される側も、それなりの連帯感、達成感、快感があります。
つまりオキシトシン分泌促進教育が激増した。そしてその代償が、いじめの増加だったのではないでしょうか。
オキシトシンの力=フォースには幸福感や連帯感というライトサイドと、いじめというダークサイドがある。この使い分けはとても難しいのでしょう。
フォースのライトサイドとダークサイドをうまくコントロールできたジェダイは、銀河の歴史上、ルーク・スカイウォーカーだけでした。ジェダイマスターの緑色の小さい爺ちゃんでも無理でした。
さて話は変わります。団体での規律や秩序を教えることは、教育現場では昔から重要視されてきました。体育館に生徒を集めて校長先生が訓話を垂れるときに、列を正して黙って聞く訓練を受けてきました。起立、礼、着席と言われて、整然とその行動が取れました。
その延長が、どんな災害時でも、暴動や略奪のようなカオスに至らない、日本人の行儀の良さにつながっているのかもしれません。
そんな団体での規律や秩序を教育するために、昔は恐怖が用いられていました。そのことを簡単に象徴的に表現すると、竹刀を持った体育教師の存在です。列を乱したり私語をすると、竹刀でシバかれるのです。今ならあり得ないです。
現在の教育現場はどうなっているのでしょう。最近の学園ドラマを観ると、体育館に集められた生徒は、列が乱れて私語し放題です。あれが現実なのでしょうか。恐怖を用いずに集団の秩序を教えられているのでしょうか。
そう言えば中学の時、クラス全員の前で体育教師に10回くらいの往復ビンタをされたことがあります。両頬が腫れ上がりました。今ならその教師は何らかの処分を受けるのでしょう。
ふと考えました。もしかしたら、竹刀を持った体育教師がいなくなって、いじめがさらに増えたのでは?
恐怖の対象がいると、恐怖ホルモンのコルチゾールやアドレナリンが出ます。オキシトシン分泌量は減るでしょう。なのでオキシトシン代償いじめも発生しません。
恐怖は集団の秩序を守り、集団をコントロールし、いじめを抑制することができるのです。
太古の昔、ヒトの群れを統率していたのはアルファオス(ボスザル)でした。アルファオスは身体も大きくて、最も強く、その恐怖によって群れを統率していたでしょう。常に人類は群れの中に恐怖を抱えていたのです。群れ、つまりコミニュティ内部に、恐怖の存在が無かったことを、人類は長く何万年も経験していなかったはずです。
そして現代の群れ、学校内には恐怖の存在がなくなりました。オキシトシンが分泌し放題になりました。
竹刀を持った体育教師がいなくなって恐怖ホルモンが減り、シンクロナイズド結束型イベントが増えて、オキシトシンが過剰に増えた。その結果、いじめが増加した。一見、平和と正義で美しくなった教育現場の裏では、ダークサイドがどんどん暗くなり、ついには悪の化身、ダースベイダーが生まれた。(※ダースベイダーのテーマ曲を挿入)
恐怖でコントロールすることで思い出しました。恐怖はダークサイドへつながると、緑色の爺ちゃんが臨終の間際に言っていました。なるほど、だから爺ちゃんはダークサイドをコントロールできなかったんだ。900年も長生きしたけど、実は何もわかっちゃいなかったんだ。それではまた。May the Fear be with you.
第二章
謀殺と正義と
禁断の果実とは
筋肉ムキムキの実だ
○月△日
いろいろ訳があって、勉強してアウトプット力を鍛えるのだ、よーしと決意したのが一年前でした。そのためには、とにかく睡眠が大事だ、よーしと思うようになり、その睡眠を深くするためには、筋トレだ、よーしとなって、2日をあけずジムに通っています。
最近は55歳にして人生初めて腹筋が割れ始め、上腕二頭筋やら大胸筋やら広背筋がムキムキしています。自分でも惚れ惚れしています。もっと鍛えて、もっとムキムキしてやろう。よーし。
あれ? はて? 自分は勉強してアウトプット力を高めようとしていました。いつの間に、その手段の手段である筋トレの結果に惚れ惚れして、ムキムキが目的化してしまっているのだ? 立ち止まって考えてみました。
一方で最近は、人類の進化や正義や善悪についても、つらつら考えていました。殺し合いをしてきた人類に、正義や善悪はどうして生まれたのだろう。ふーむ。
そう言えば、この前、「人類だけが生殖行為や排泄行為を見られることに恥ずかしさを覚える」「羞恥心は人類特有の感情だ」と聞き、ほほー、面白い、なぜだろう、とも考えていました。ふーむ。
それにしても、なぜこれらの筋肉がムキムキすると、ホレボレするようになるのだ? ふーむ。
ふーむ。
ピーン!
おおー! わっかりましたあ! そういうことかあ!
それで正義なのだあ!
あっ! おおー! 羞恥心のことまでが、つながったあ! うおー!
叫ぶほどのことか。叫ぶほどのことかも。いろいろつながったのです。
なぜ人類は、正義や善悪を振りかざすようになったのか、という問題が、上腕二頭筋のムキムキを触りながら判明したのです。
なぜ人類だけが、生殖行為や排泄行為を見られることに恥ずかしさを覚えるようになったのか、という疑問までが、大胸筋をピクピクさせながら理解できたのです。
そして、なぜそれらの筋肉がムキムキ逞しくなると、ホレボレしてしまうのか、その謎さえも解けてしまったのです。
それらのナゼナゼとムキムキとピクピクとホレボレが、全部が全部、一気につながってしまったのです。ドーパミンがドバドバ出ました。いやー気持ち良い!
では解説しましょう。
人類はお互い戦いをしてきたんだ、殺し合いをしてきたんだと前に書きました。考古学的にもわかっています。残念ながら我々ホモ・サピエンスはそういう殺し合う種族なのです。その進化の果てが我々なのです。
同種同士で戦い合い、殺し合う動物は、人間だけではなく他にもいます。ほとんどがオスの覇権争いか、メスの奪い合いです。たいがいは殺すまで至りませんが。人類の同種、同胞殺しの目的も同じです。
そして人類だけにできる、同種、同胞に対する、ある殺しが存在していることに気づきました。
人類だけにできて、他の動物にはできない殺し、同種、同胞に対する、ある殺しとは。
それは「不意打ちで殺せる」ことです。つまりは謀殺です。同種、同胞を不意打ちで殺せる能力、いきなり致命傷を与える能力が、人類だけにあると気づいたのです。しかもそれは、自分より強い相手であっても可能なのです。
捕食のため、つまり他の動物を殺して食べるためなら、謀殺は多くの動物がやっています。待ち伏せからの不意打ちなど、捕食のためには珍しくありません。ただし、同胞殺しを不意打ちでしている例を人類以外に知りません。
人類だけが殺気を抑えて、一撃で同胞を殺すことが可能です。それはひとつに、武器を使えるからです。そして次に、殺気を抑えることがてきるからです。そして、致命傷となる急所が頭であることを知ったからです。
他の動物では、同じ種族同士では、一撃での致命傷はほぼ不可能です。
そして何と言っても、彼らは殺気を抑えるだけの理性がありません。どうしても感情を荒ぶらせてしまいます。興奮してしまいます。
戦いには感情を荒ぶらせてアドレナリンを十分出し、臨戦状態にする戦略を取らないと不利でしょう。防戦されたときの反撃に対処できなくなるからです。そして相手が自分より強い同胞だと、恐怖のため、余計に感情は抑えられません。
殺そうという意志がある人類は、手に岩や棍棒を隠し持ち、あるいはそれらを近くに忍ばせ、何気なく殺したい相手に近づきます。殺気は理性で隠して、涼しい顔で相手の隙を窺います。
相手が注意をそらした時、ここぞというタイミングで武器を手に取り、致命傷をあたえる一撃を頭へ振り下ろしたでしょう。感情を抑える理性と、武器を隠す工夫と、どこに打撃を与えれば効果的か、等の知恵を備えているからこそ、できる芸当なのです。ずっと強い相手であっても、武器を用いれば、不意打ちなら勝てるのです。
致命傷に至らなくても、気絶させるなり、反撃できないほどの傷さえ与えても、十分でしょう。いずれにせよスピードとパワーが必要です。そのための筋肉なのです。振り下ろす上腕に関わる筋肉と、それを支える腹筋・広背筋が重要となります。
これらの筋肉が隆々として、惚れ惚れうっとりしているのは、殺しのポテンシャルが上がっていることの確認なのです。よーし、これならあいつを殺れる。よーし、あいつも殺せる。へっへっへっ。
一撃で相手を殺すことができるということは、逆に自分も不意に殺されてしまう可能性もあるということです。
同じ群れ、同じコミニュティに自分を殺すことのできる他人が存在し得る。しかも自分より劣位の者にも、そのポテンシャルがある。
君臨していたアルファオスが、いつ何時、誰に殺されるのかわからなくなった。このことが人類の社会を一変させたはずと考えました。
そして延いては人類に、正義や善悪という価値、恥ずかしいという感情=羞恥心を芽生えさせたのです。なぜそうなったのか。
生殖行為や排泄行為を見られることに、羞恥心を感じるようになった理由は簡単です。これらは無防備な状態になるので、殺される確率が高まります。なのでなるべく他人から遠ざかりたくなります。あるいは見られない繁みや囲いを探すでしょう。
誰も見られていない場所だと、ようやく安心して行為ができるのです。その見られたくない感情が、恥ずかしい感情、羞恥心へと変化したのでしょう。ヘビにそそのかされてリンゴを食べたからではないのです。
次に正義や善悪です。なんだか面倒くさい話になりそうです。かなり長くなってきたので今度にしてもいいですか。よーし。それではまた。
正義の源泉は邪悪な殺人鬼だ
やるせないからTDLに行こう
○月△日
昨日の続きです。人類だけが同胞からの不意打ちによる殺しの危険に晒されていたという話でした。
体毛の少ない人類ですが、豊かな頭髪を持っていることは、この説の証拠の一つではないでしょうか。
人類は長距離を走ることができるようになって、他の動物を駆逐できたのだと書きました。
一方で長距離を走るために、豊かな頭髪は邪魔になります。熱の放散を頭髪は阻害させるからです。マラソンランナーのほとんど全員が、角刈り頭なのはそのためです。偏見も甚だしい。
しかし邪魔なはずの髪の毛はどうして豊かにあるのでしょう。それはヘルメットの役割のためです。大事な頭を守る必要があるのです。他の動物も頭は大事ですが、人類では同胞から殴られる危険性があって特に大事だったのです。
ただし頭髪ヘルメット説だけなら、よく聞く話です。続きがまだあります。
頭髪で特に豊かな部分は耳の上あたりです。いわゆる鬢(びん)です。薄毛の人でも老人でも、この部分だけはしつこく残ります。ここが狙われやすいから豊かになったのです。石などを持って、素早く強い打撃を与えようとすれば、自然とフック、つまり横殴りになるはずです。側頭部は殴られやすいのです。そして、致命傷にもなりやすいのです。
普通に頭を守りたいなら、頭頂も守るべきでしょう。てっぺんだけ薄いヘルメットなんて見たことありません。
そして、スキンヘッドやモヒカンに恐怖を覚えるのは、側頭部を無防備にしても、ワシは平気や、かかってこんかーい、という威嚇を、無意識的に感じ取っているからです。持っている石を殴りつけても効きそうにないのです。
逆に側頭部のみが豊かな人は、なぜだか弱そうに見えます。何としてでも、そこを守りたい必死感が伝わってくるからです。
さて本題の、なぜ不意打ちされて殺されることが、正義や善悪を生んだのかという話です。
コミュニティ=群れとして、謀殺を野放図にできません。ルールを作る必要が生じます。「むやみに殺すな」「みだりに殴るな」というルールです。
それまでは強いアルファオスの存在自体が、ルールブックであり圧力でしたが、いくら強くても謀殺への守備には限界があります。劣位者からの下剋上を防ぐため、むやみに殺してはならないというルールが自然と必要になりました。
ルールがないと無法化して、いずれその群れは成立しなくなり、淘汰されたでしょう。なのでルールがあって、ルールを守れた群れだけが生き残ったはずです。
むやみに殺さないルールを定着させるために、子どものうちから教えたでしょう。わかりやすく何らかの物語を作って納得させたでしょう。何をしていいのか、何がいけないのか、そんな物語を聞かせて自然と社会の掟を教えたでしょう。
ルールを守ると褒められたでしょう。ルールを守ることこそ、気持ち良いんだと刷り込まれたのです。ルールを守るという考えを子どもの頃から教え、それが正しさという概念となり、正義へと形を変え、善悪という価値が生まれたのです。
物語が必要なので言語も発達します。虚構も作ったでしょう。ホモ・サピエンスは虚構を作れたから、ネアンデルタール人、および同じホモ族人類を滅ぼせたのだという説があります。
そう、この記事のライバルである、「サピエンス全史」に書いていました(勝手に世界的大ベストセラーをライバルにしてはいけません。それにタイトルを拝借してるので敬意を払いましょう)。
虚構を作ることができると、社会が複雑にでき、集団を大きくすることができて、戦いに勝てるのだそうです。そのあたりは本を読んでください。
ネアンデルタール人はサピエンスより身体が大きく、同胞を簡単に殺す能力を持っていたはずです。しかし、もしかしたら同胞を謀殺しようとは、あまり思わなかったのかもしれません。
ライバル「サピエンス全史」の著者によると、サピエンスだけが虚構を作ることができたとあります。
なぜネアンデルタール人は虚構を作れず、サピエンスだけが虚構を作ることができたのか。そこを著者は触れていませんでしたが、サピエンスに比べて、ネアンデルタール人は、ピュアで、狡猾さや邪悪さを持っていなかったからと、ボクは考えました。
邪悪でない彼らの群れには謀殺がなく、「殺すなルール」を作る必要がなかった。ならば、ルールを教育するための高等な概念も持てず、延いては虚構を作れなかった。
虚構が作れたかどうかより、そんなピュアでナイーブさがあったことがそもそもの原因で、彼らはサピエンスに勝てなかったのでしょう。ピュアならばサピエンスが同胞そっくりなので、最初から戦う気すらなかったのかもしれません。なんや、かかってこんのかーい。
邪悪だから、謀殺があり、謀殺を防ぐルールを作り、物語が必要になり、言語が発達し、虚構が生まれ、社会を複雑にでき、集団が大きくなり、集団戦で優位になり、勝利を得た。ロジックの最初と最後だけをつなぐと、邪悪だから勝てたとなります。意外に世界は単純なのかもしれません。
かたや同胞を殺しかねない邪悪な人類。かたや同胞を殺そうとは思わない天然でピュアな人類。チンパンジーとボノボのことを思い出しました。
ほとんど同種とも言える近縁種のチンパンジーとボノボには、大きな文化的な違いがあるそうです。チンパンジーは同種の群れと戦って、お互いを殺して食べたりします。ボノボは同種での戦いの例は確認できておらず、平和的だそうです。これを分けた原因については、はっきりしていないようです。
もしかしたら、この分けた原因が、サピエンスとネアンデルタール人の分かれ道だったのかもしれません。チンパンジーとボノボは、人類に最も近い遺伝子を持っています。片や好戦的、片や平和的です。そしてチンパンジーらと違って、人類たちは、相まみえ、戦うことになってしまった。
さて、そもそも動物には正義や善悪、邪悪などという概念はありません。弱肉強食の関係の中にも善悪という意識などありません。ライオンが、シマウマさん悪いね〜と思いながら食べているでしょうか。カッコウが、すまんすまんと思いながら他の鳥の巣へ托卵しているでしょうか。善悪は動物界全体には、そもそも無かった概念なのです。
たまに中高生くらいの子どもが「どうして人を殺してはいけないのか」と大人を困らせる質問をしてきます。きっと善悪がそもそも無かったことを薄々感じているのでしょう。
ここで善悪や道徳的な文脈で説得しようとしても、善悪がそもそも無い土俵から彼らは疑問を発しているので、彼らには通用しないのです。
「人間の社会とはそういうものだ。嫌なら社会と隔絶した所へ行って暮らせ。マンガもネットも絶対に見るな。見たかったら、社会のルールに黙って従え」と言うしかないのです。
なんだか新説に興奮して、いろいろあっちこっちへ脱線しまくっています。もう脱線しながら、この記事は終着駅へ突進することにしましょう。
昔、近所に赤信号おじさんと呼ばれている人がいました。一方通行を渡る短い横断歩道で、車が来ていないから信号を無視して渡ると、おじさんが現れ「お前は犯罪者じゃー!」と怒鳴ってくるのです。ものすごい剣幕でした。正義を振りかざしているのでしょうけど、顔は邪悪で関わりたくない御仁でした。
やはりそうです。正義を掘り起こしていくと邪悪な魔物がいるのです。正義や善悪は、皮肉にも邪悪な殺人種族から生み出された概念なのです。
あーあ。書いていて嫌になってきました。心を洗うためにイッツアスモールワールドに行って20周くらいしてこようかな。それではまた。
平和の祭典と祇園祭で生贄を捧げよう
○月△日
いつのオリンピックだったか、当時シンクロナイズドスイミングって言ってた競技で、漢字で「忍」と刺繍されたウェアを日本選手のみなさんが着ていて、びっくりしたことがありました。
「忍」って、心に刃(やいば)です。「残忍」の「忍」です。アーティスティックな世界には不向きです。もちろん、忍耐、耐え忍ぶ意味と、日本文化の忍者から取ってきたのでしょう。
忍者が文化って、相当のサブカルチャー、というかキワモノなんだけど、それにしても「残忍」の「忍」って。こんな国際舞台で、どんなセンスなんだと思っていたのですが、特に批判も無かったようでした。そうか。残忍性を容認しているのか。
あっ、なるほど。オリンピックはそもそも残忍なものなのだ。オリンピックは生贄を捧げる祭祀なのだ。だから無意識的に、残忍性を容認しているのだ。
オリンピックが戦争の代替となっているという説はよく聞きます。国家間の争いのガス抜きだということです。また陸上競技のようなレトロな競技は、それ自体が古代戦争の競技です。走って、棒で飛び越えて、槍やらハンマーやらを投げたりしています。
しかしもっと根源的に、オリンピックにかかわらず、スポーツ全般、そして祭典、祭祀に至るまでが、国家間の戦争ではなく、生身の人間同士の戦い、争い、殺し合いの代替物ではないのでしょうか。
何度もしつこく書きました。我々人類は殺し合いをしてきました。
そしてそれに勝利するため、殺しや争いを望んで欲する方向へと進化したと考えています。
殺しや争いを望んで欲したから、戦いに勝つ確率が上がり、生き残れたのでしょう。ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人や他のホモ属人類、大型野生動物の多くを絶滅させました。彼らは争いを望まなかった。我々サピエンスは殺しや争いを好んだ。
我々サピエンスは同族同士でさえ殺し合っていました。たった数十年前でも食人部族が世界中のあちこちにいました。近現代戦争は絶え間なく起こっています。残念ながら殺しや争いを望み欲する、残忍な生物種だと認めないわけにはいかないのです。
その沸き立つ血を抑えるための装置が「祭り」なのではないでしょうか。無病息災や五穀豊穣や疫病退散などの祈願は後付けです。祭りは殺しへの渇望のガス抜きなのです。
あの雅びでおっとりした祇園祭の山鉾巡行でさえ、大昔は岸和田のだんじり祭りのように、山鉾を勇壮に走らせていました。しかも、ただ単に走らせるのではなく、必死のレースだったようです。
必死のレースだった証拠に、スタートグリッドを決めるためのクジ引きが、行事として残っています。クジ引きで位置決めをしないと混乱したのでしょう。第一コーナーの四条河原町で、全車がスピンし、クラッシュしてしまわないようにするためです。
そしてそんな殺しの代替としての祭りには「生贄」が必要なのです。「死」をもって殺しのガス抜きをするのです。神などに捧げるという形をとっていますが、自分達の殺しへの渇望のための「死」なのです。
その祇園祭も山鉾に、稚児(ちご)や禿(かむろ)という子供を乗せます。彼らは生贄なのです。山鉾巡行レースの際に、彼らは振り落とされて、死んでもかまわない運命でした。
四条河原町を運良くカーブできても、スピードが最高速度に達した第二コーナーの河原町御池は極めて危険でした。多くがコースアウトし、京都市役所へ次々に突っ込んでいきます。
現在は、もちろん生贄はやめて、代わりに人形を乗せています。ただし今も「長刀鉾」だけは、生きている生身の稚児・禿を乗せています。
実は、長刀鉾は「くじ取らず」と言って、スタートグリッドを決めるクジを引かなくてもいいことになっています。最初から先頭の位置を与えられているのです。それは、本物の生贄を差し出す代わりの、ポールポジションという特権なのです。しかも長刀鉾の稚児が自らスタートフラッグを切って落とし、自分の死のレースの開始を告げることになっています。
オリンピックでも生贄を捧げます。表彰台です。あそこに登る人たちは生贄になれるという名誉を戴くのです。ギリシャからはるばる運ばれてきた聖なる火で焼かれるのです。頭に戴くのは月桂樹です。ローリエです。肉の臭みを取るハーブです。メダルは焼けた跡から、これは誰だったかを確認するための認識票なのです。
勝利を得るほどの強い肉体を皆に捧げ、自分は名誉と永遠の命を得るのです。グリルするなら、ローズマリーも加えてくれないかな。
祭りには「死」を感じますから、「生」への希求も高まります。祭りのある夜は、男女が求め合うことが多いでしょう。夏祭りで浴衣、つまり寝巻き、パジャマを着るのはそういうことなのです。
現在人類は、多くの祭祀、祭典を禁じられています。残忍性が溜まっている状況かもしれないです。「生」への希求を高めて、一刻も早く人類の残忍性を解放したほうが、免疫力に良さそうです。
心配要りません。オリンピックは必ず成功します(※この記事を書いたのは開催前です)。間違いない。何せ、あの橋本聖子さんが大会委員長です。オリンピックの申し子ですから。そもそも聖子の聖は、聖火から名付けられています。
そしてオリンピック出場が実に7回です。しかもスピードスケートにおいてはオールラウンダーです。500から5000mをこなします。国会議員としても出場しました。一度だけだけど聖火で焼かれています。焼かれても子どもを3人産んで、6人の母親もやっています。もう何が何だかです。
そんなスーパーな人がやっていますから大丈夫です。
オリンピックはいろいろと大人の金まみれだけど、それでも清濁、生き血も合わせ飲み、メダリストの聖火グリル・ハーブ添えも食べて、内なる残忍性を吐き出しましょう。
今回はかなりフィクションを混ぜました。失礼しました。いつものことだ。それではまた。
ブロイラーが運命的に悲劇的なら、
アーモンドは倫理的に進化論的に食べられない
と論理的に地球環境的に鎌鼬的に語ろう
○月△日
さて近未来予測の記事を読んでいると、今後ビーガンやらベジタリアンやらが増えて、肉食文化は廃れていくという話がありました。肉自体もなくなり、代用肉になるかもしれないとのことです。メダリストも、もう美味しく食すことは叶いません。
確かに地球環境的に考えると、牛や豚などを食べるより、野菜や豆だけを食べている方が環境負荷が少なく「環境的に良い」のは理解できます。
一方で、動物を食べるのは「倫理的に良くない」という理由で菜食主義としている人がいるようです。エシカルビーガンと言うらしいです。彼らには、何だか心にザワっとしたものを感じてしまいます。
ボクはそもそも善悪、正義というものを疑っていて、そんなものはそもそも無かった、社会が後から考え出したというスタンスです。ライオンがシマウマを食べていても、そこに善悪はないと書きましたね。
善悪の無い原始を原点に考えると、社会が変われば善悪は変わっていくのが自然です。つまり善悪やら正義やら倫理には普遍性がない。そんな倫理を拠り所にすることに怪しさを感じています。
ただ今回の記事は、そんなエシカルビーガンさんたちに、お前ら間違っとる、と言うのが目的じゃないです。
また、人間はそもそも罪深い存在なのだ、みたいな手垢のついたペラペラ宗教観を言うつもりもありません。
もしかしたら、食べられる側の動物たちは、種族繁栄のために食べられているのかも、という記事を書きます。さあさあ何のこっちゃ。
ボクの知る限り、人類以外で何十億もの個体数を誇った陸上脊椎動物は、リョコウバトとニワトリです。
リョコウバトは1800年代に野生で50億羽ほど棲息していたものの、1914年に絶滅しました。たった100年ほどで人間が食べ尽くしたのです。
ニワトリは、現在250億羽ほどが、人間に食べられるために全世界で飼育されています。
リョコウバトがこれほどまでに早く絶滅したのは、大群で行動するので、網や罠などで簡単に大量捕獲できたからとのことです。また、あまり卵を多く産まない、渡鳥であるなどの理由もあり、家禽化(鳥を飼育し利用すること)はおろか種を保存することすら難しかったようです。動物園にも1羽も残っていないのです。50億羽もいたのに。
しかし一方、ニワトリは数千年前に人類に家禽化されました。さほど飛翔力もなく、卵をたくさん産むので、都合の良い動物だったのでしょう。野生種はいなくなったものの、ついには250億羽に大繁栄しました。人類が絶滅しない限り、その「繁栄」は続くでしょう。
飛ぶのが苦手で、歩いて餌を探し、肉食動物から走って逃げ回っているだけだったマイナーな鳥類にしては大成功です。襲われやすいので卵をたくさん産み、確率的になるべく多くが生き残る戦略としたのが、功を奏したのでしょう。
一方でリョコウバトは、襲われないよう大群を作った戦略が、逆に仇となりました。
この記事のライバルと言うべき世界的大ベストセラーの「サピエンス全史」(何度も勝手にライバルにしてはいけません)には、人類は小麦や稲など穀物に家畜化されたとあります。人類はせっせと森を開墾し、灌漑し、農機具や肥料を開発するなどして、小麦に手なずけられたとのことです。
であればニワトリも、小麦と同じように人類を手なずけたと、ボクは考えました。餌は勝手に人類が運んできます。飢えに苦しむことはないでしょう。天敵から身を守ってくれます。自分の肉や卵を提供することで、人類を手なずけて、自分たちの種族の保存と繁栄に寄与させたと言えるのではないでしょうか。
一羽一羽、それぞれ各個体にとっては悲劇だったかもしれません。ただその各個体の、いわゆるブロイラーと呼ばれるような運命も、悲劇かどうか実は何とも言えないのではないかと思っています。
生まれた時から狭い中に閉じ込められて、寿命より短い期間で屠殺される運命を、それぞれが苦しんで悲しんでいるのかどうか、自由を希求してやまないのかどうか、分かりようがありません。
もちろん現代人の価値観に当てはめると大変な悲劇でしょうけど。
これ以上は沼が深いのでやめておきます。
「サピエンス全史」の著者は、家畜や家禽たちを惨めと表現されていました。ライバルなのに青臭いじゃないか。う。10コも年下だった。うむー。
それはともかく、言いたいことは言い切った。あとちょっとだけ、エシカルビーガンさんたちの、その倫理とやらを揶揄してやろう。
やっぱり何かしら言いたいのでした。
倫理的に菜食主義を目指すなら、植物側が食べられたくないと感じていた場合は、食べてはいけないでしょう。植物が食べられたくないって感じていないとは誰も言い切れないじゃないですか。逆の立場で考えたら、もし植物が食べられたくないって感じていないとしたら、絶対に食べられたくないって言い切れないとは認められていると思うのでしょうか。??ボクはいったい何の質問しているのでしょうか。
それはともかく要するに、実は(じつは)植物は、葉を食べられたくないと感じているようなのです。そして実は(みは)食べていいのです。むしろ植物自身が、実に(みに)栄養をつけ甘く美味しくさせて、食べられることを推奨しています。
なので、例えばキャベツは食べてはいけません。スイカはOKってことです。それにしても、実に(じつに)めんどくさい漢字でした。
その根拠は以下です。
ある種の植物は、虫に葉を食べられ始めると、その振動を感知して、虫にとっての忌避となる成分を放出して、これ以上食べられないようにするそうです。おそらくどんな植物も身を守りたいのです。食べられたくない証拠です。
そもそも葉は光合成、つまり生存に必要です。葉を食べられるのは大迷惑です。なので、嫌がっているのは明白で、植物の葉は倫理的に食べてはいけないはずです。
一方で「実」は動物に食べられるように植物が編み出した繁栄戦略です。動物に、実の中のタネを遠くへ運んでもらいたいのです。食べてもらって、遠くでタネを糞とともに出してもらうのです。食べて欲しくないなら、植物が実を色鮮やかに、美味しく、栄養豊かにするわけがありません。
実を食べることは植物が望んでいることなので、「倫理的に」問題ないのです。
種族の保存を考えるなら、実の中のタネは食べてはいけないでしょう。ならばナッツ類もダメです。ナッツ=タネを食べたら種族が途絶えるのでダメです。ナッツの栄養は発芽成長のためなのでダメです。いくら健康に良くてもダメです。せめてピーナッダメです。
実だけを食べて、タネは残して庭に植えて、育てる。それが究極の倫理的菜食主義です。環境にも良さそうでしょう。アボカドの種は食べずに残しましょうね。誰も食べませんが。あの種は植えたくなるなあ。
朝食がアーモンドとクルミだけって言えたらオシャレですよね。ニューヨークのダンサーみたいだ。そんなビーガンが好きそうなナッツを禁止したら、もだえ苦しみそうだな。うけけけ。また嫌われそうだ。それではまた。
友人関係とは不可侵同盟だ
やりきれないからTDSにも行こう
かなり前に、林先生(で、通用しますよね)が友だち不要論を言われて、炎上したと聞いています。どこでどんな炎上をしたのか詳しくは知りません。曰く「友だち100人できるかな、という歌が気持ち悪い」とのことです。
タモリさんも同様のことを発言していたらしいです
ボクも同じような意見です。そんなにたくさん要らないな、そして年1、2回会えたら十分かな。若い頃なら、そうは思わなかったかもしれませんが。
一時期、Facebookが流行り出した頃、学生時代に少し交流があり、名前だけ覚えている程度の人たちから、立て続けに友だち申請がありました。何を今さらと思ったら、中には数百人レベルの友だちがいて、うーむと思ったことがありました。
数百人レベルの人たちに限って、何のメッセージもなく、友だち申請だけしてくる場合が多くて、何だか心がザワつきました。ドアをドンドンドンとノックされて、開けたら久しぶりの知人が立っていて、紙切れ1枚出されて、ここにサインしろ、と無言で言われている感覚でした。
そのうちFacebookに興味を失って、友だちはほとんど切ってしまい、自分のページすら年に1回くらいしか見なくなりました。
それはともかく、この記事のタイトルと、ここしばらくの話の流れから、以降の内容とオチはバレバレですが、気にせず続けます。
太古の人類は、他の類人猿と同じく、群れの社会を作って維持してきました。それは、アルファオスを頂点とした階級社会です。特にオスの序列は厳格に決まっていて、エサにありついたり、メスとの交尾などで優先される順位がありました。
現在においても、その本能は色濃く残っています。権威主義の強い人は、上にはへつらい、下には厳しくなります。順位を重要視しているのです。パワハラがちの人、マウントを取りたがる人は、順位を確認し、劣位の者はそこへ固定化しておきたいのです。みな逆転されることを恐れている裏返しなのです。エラそうにする人は小心者なのです。
さて、まだ言語や正義というルールが未発達で、腕力が幅を利かせていた時代を考えます。順位を入れ替えようとしたら、上の者に戦いを挑まないといけません。
ただし自分と順位が近い者と争うとことになったら、エネルギーの損耗が激しいものになったでしょう。順位が離れていると腕力差が大きいので、戦いが始まってもすぐに決着がつきますが、腕力差が小さいと長期戦になってしまうからです。また得られるものも、少ないランクアップだけです。コストパフォーマンスが悪いのです。
となると、順位の近い者同士では、常に休戦状態としていることが得策となります。不可侵条約ですね。お互い殺し合いになることは、やめておきましょうということです。まずは仲良くしておきましょうとなります。
これ以降の説明は無駄かな。ま。そういうことです。そんな者同士の関係が、友人関係へ発展したのです。
さて、ママ友という言葉はありますが、パパ友って、なかなか成立しません。やはりオスは序列があって、順位が高いか低いか近いかを気にします。なので、どこの順位かわかりにくい人との友人関係は結びにくいのです。戦いは長引くのか、オレが殺せる相手なのか、オレが殺されるのか、量りかねるのです。
年齢や学年が違うと友人になりにくいのが男子です。特に同じ学校出身だと、学年が違えば先輩後輩という関係が死ぬまで続き、友だちになることは稀れです。先輩は後輩を秒殺できるものだと、お互いに刷り込まれているからです。
一方で女性は、序列から外れた存在です。謀殺能力がそもそも低いので、お互いが危険な存在にもなりえません。なので年齢が違おうが、気楽に友だち関係が作れるのです。
特にママ友は、ご近所さんや、習い事仲間よりも関係が親密になりやすいようです。太古の群れで、協力し合って子育てをしてきた記憶があるのでしょう。お互いの子どもの成長を、我が子のように見守っています。後々恐ろしくて、ここに変な茶々を入れる勇気はありません。
林先生も、タモリさんも、ピラミッドから超越した存在の方々です。同盟関係を結ぶ必要なんか、そもそもないのです。なので友だち不要と考える傾向が強いのでしょう。ボクも天邪鬼的一匹狼でしたから、同じような感覚なのかも。
となると、ピラミッドが厳しい社会ほど、友だちを増やしたくなる傾向があるかもしれません。Facebookで友だちをかき集めていた人たちは、何やら窮屈な順位の蹴落とし合いに疲れていたのでしょうか。いつも順位を脅かされていたのでしょうか。どうか楽になれますように。
以上のように、友だちというものは、殺人種族の群れが生み出した同盟関係が源流なのでした。男にかぎるけど。
あーあ。書いていて嫌になってきました。心を洗うために、もう一度イッツアスモールワールドに行こうかな。いや、陸は飽きたから海だ。シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジにしよう。自分の邪気を何とかしないといけないのかも。
さっきTwitterで検索しようと「#友達不要論」と入力したら、「#友達募集」に強制変換されました。いくらやっても同じでした。まずはそこからなのでしょうか。友だちって、今さらどうやって作るのでしょうか。嫌われないよう、人の思いを感じとることが大切なのでしょうか。これは次章への露骨な前振りですな。それではまた。
第三章
サイコパスと共感力と
新種の精神疾患
「他者遮断障害」「妄想性不浄視」
○月△日
ジムに通うようになって30年ちかく経ちます。主にマシンでの筋トレをやっています。その時々の生活スタイルによって、契約プランを変えたり、ジム自体を乗り換えたりしています。今は4社目のジムです。
乗り換えた新しいジムの初日は、オリエンテーションを受けます。一通りマシンの使い方や注意事項の説明を、若いインストラクターから受けるのです。30年選手だけど、義務だから仕方ない。
説明を聞きながら、ハイハイ、そのラットプルダウンとやらは、たぶんアナタが生まれる前から、エッチラオッチラやっとりましたわ、ということを考え、ああオレも歳を取ったわい、という思いに駆られます。それはともかく。
ジムも、もちろん感染症対策は始まっています。マスク着用とマシンを使い終わった後に消毒液で拭くことがエチケットとなりました。マシンにそれぞれ消毒液スプレーと、拭くタオルが備え付けられています。
さて、ジムには「マシンの順番を、あからさまに目の前で待つ人問題」というのがあります。ジム通いの人は分かっていただけると思います。
それほど混んでもいないのに、トレーニングをしているマシンの近く、ほぼ目の前で、順番を待つ人がたまに現れるのです。
ボクはあの人たちの精神が理解できないです。他にも空いているマシンはあります。何だったら同じ筋肉を鍛える別種のマシンが空いていたりします。それでもプレッシャーをかけるかのごとく、目の前で待つのです。
ボクもだいたいの鍛える順番があって、次はこれ、その次はこれ、というルーティーンはあります。でも誰かが使用していたら、柔軟に順番を変えたり、ベンチに座って待つなどします。
人が懸命にトレーニングしているのに、あせらすようで失礼じゃないですか。あの人たちに、そういうデリカシーってないのでしょうか。
実は、そんなデリカシーなく待っている人が現れたら、意地悪ですが、使い終わった後、わざとゆっくり消毒作業をおこなうことにしています。触ったと思われる全ての箇所に、消毒スプレーを吹きかけ、念入りにタオルで拭き取るのです。消毒スプレーの取っ手までも拭き取ります。待っている方はイライラするでしょうけど、こちらも良い気分ではなかったので意趣返しです。プチ復讐です。
その後ようやくマシンを譲ると、彼らはどういうわけか、まず消毒を始めようとするのです。ほぼ100%、すべての人たちは消毒スプレーを最初に手にします。
目の前で、念入りに念入りに消毒をして見せたばかりなのです。最初は驚きました。嫌味なのか、意趣返し返しなのか。
どうやら何度か体験し、観察していると、彼らは空いていたマシンでも、同じように、念には念を入れて消毒をしていました。目の前で誰がどのように消毒しようが関係なく、時間をかけて消毒しなければならないと思っているようです。
あからさまに待つというデリカシーの無さは、共感力の無さでもあります。しかし念入り消毒行動は共感力有無とは関係がなさそうです。
潔癖症などの神経症に近いものがあります。ただ神経症にいたるような情緒があれば、デリカシーは人一倍ありそうです。
両者をつなぐ説明を見つけられていません。なぜ両立するのでしょうか。
他者がいないも同然ということが、これらの行動に共通します。あからさまに待つ人は、他者が見えているようで見えていない。他者がおこなっていた消毒作業も実質は見えていない。何らかのシャットダウン状態があるようです。
そう言えば、長くマンション暮らしをしていると、まったく挨拶を返してこない人が、一定数いることがわかってきました。聞こえるほどの声で挨拶をして、完全に目と目が合ったとしても、全くの無視で、しかも表情に変化がないのです。相当不気味です。
それに近いものを彼らに感じます。彼らも、もしかしたら挨拶を返さない人種の可能性があります。
まだ誰も発見できていない新種の精神疾患、あるいは疾患や障害までいかない精神的傾向なのでしょうか。とりあえず勝手に、他者遮断障害と名付けておこうか。
あと、もうひとつの可能性に思い至りました。彼らは他者を穢れ(けがれ)、不浄の存在としているのではないでしょうか。穢れ・不浄の対象なので、気を配る必要がない。目の前で待って、どう思われようが気にしない。そして穢れの存在がいくら消毒を行おうが、衛生的な問題ではなく、宗教的に穢れているので、清めないといけない。消毒は、お清めの儀式なのです。
一定数、他者を穢れたものとして扱う人たちがいる。もっと不気味です。妄想性不浄視とでも名付けよう。
これで自分の中で、意趣返し返し返しができた。スッキリ清められた。それではまた。
トイレでは用を足す「前に」
手を洗おう「無宗教的に」
○月△日
昨日の記事で、人の存在を無いものとする、もしくは人を不浄と捉える人たちの話をしました。
ジムで、人がトレーニングをしている目の前で、あからさまに順番を待つデリカシーに欠ける人たち。目の前でマシンの消毒を念入りにやって見せた後でも、自分が使う前にはあらためて時間をかけて消毒をおこなう人たち。いい大人になのに、挨拶を無表情で無視する人たち。
他者の存在を穢れ、不浄と捉えているなら相当不気味です。この穢れ、不浄と感じる感覚は、人の衛生観念から派生した宗教観の表れだと思っています。
人の衛生観念というものは理屈ではありません。非合理的です。
例えば、かなりひどい汚物が入っていたコップは、どれだけ綺麗に洗って、煮沸消毒までしても、そのコップで何かを飲むのは躊躇します。
頭では大丈夫と理解していても、感情的には許されないのです。気持ち悪いのです。この気持ち悪さは何なのか。
おそらく、そのコップに「死」を感じ取っているのでしょう。
不衛生は病気や死につながります。自分だけでなく家族や属する共同体にも、死の危険を及ぼします。この死を感じ取ったことこそが、穢れであり不浄なのです。死を感じることは、正に宗教的な感覚です。
なので宗教的儀式には、不衛生を「清める」行為が数多く見られます。どんな宗教にもあるのではないでしょうか。不衛生、すなわち不浄は清めなければならないのです。人はいろいろと清めたくて清めたくて仕方ないのです。
日本人なら神社で参拝の前に手を洗って口をすすぎます。あれもそうです。
キリスト教では洗礼式に聖水を頭にかけるなどします。エクソシストも悪魔祓いで聖水を振りかけます。映画の知識なので、例として挙げるには相応しくないかもしれませんが。
さて、誰もがトイレで用を足した後に手を洗います。あれも一種のお清めなのです。宗教的儀式なのです。ほとんどの人には自覚がないでしょうけど、あの行為は無意識の宗教的儀式と考えています。
そもそもトイレに入る前に、最も汚れているのは手です。体は風呂に入って綺麗にして、綺麗な下着に着替えてから特に何もしていないのなら、下着の中もずっと綺麗なはずです。
一方、手はいろいろな場所を触って汚れています。その状態でトイレに入る。手を洗わずに下着を下ろしたりして、手の汚れを至る場所へ付ける。あの場所にも付ける。そして用を足して、トイレを出る前にようやく手を洗う。
綺麗になったのは手だけです。他はいろいろ触って汚しました。そもそも用を足したことで手は汚れるのでしょうか。手以外は本来は綺麗でした。最後に手だけ洗うって、理不尽と思いませんか。合理性に欠けますね。
衛生を考えるなら、トイレに入って、用を足す前に手を洗うべきです。ではなぜ用を足した後に手を洗わなければならないのか。
トイレに入ったこと自体で、身体が穢れたからです。自分は、ケガレ、不浄の存在となったのです。なので、清める必要があるのです。儀式として手を洗うのです。
多くの人が形式的に手を簡単に洗います。洗うというより濡らすだけの人もいます。きゅっ、じゃー、ぴっぴっ、きゅっ。
衛生的意味はありません。儀式以外の何をしているのでしょうか。もう儀式そのものです。清めの聖水を手にかけたのです。
子どもの頃、えんがちょ、べべんじょ、などの遊び・風習がありました。これは不浄を忌避することにつながる遊びの一環ですね。鍵閉めた、鍵切ったなどと言って、印を切っているのは、不浄を遠ざける儀式なのでしょう。不浄の忌避は、子どもの頃から深く生活に根付いています。
このように人の衛生観念、衛生的行動は合理的ではなく、むしろ宗教的です。なので、このコロナ騒動という衛生に関わる問題も理屈では考えられないでしょう。
なので多くの人々が集って、理屈で同意を形成することは不可能です。非合理な宗教観が関わるので相当厄介です。議論したところで、正しい着地点などありません。不毛な議論が至る所でおこなわれました。
そろそろ全人類は(どうだ!これほどの大上段の構えがあることか!)、衛生空間において「穢れ」や「不浄」のような、非科学的宗教観から解放されるべきと思います。
人類が長く苦しんできた感染症の仕組み、つまり不衛生が死に至る原因は、科学的にすでに解明されました。細菌やウイルスが感染するルートは、目には見えないものの、誰もが怨霊や悪魔の仕業とは思わなくなりました。
正しく恐れるという言葉がよく使われますが、まさしく宗教的に畏怖せずに、科学的に恐れを抱けばいいのです。科学的なはずの衛生観念の中に非科学的宗教観を残していては、人類の進歩がありません。未来がありません。あまねく広がる全人類たちよ、わかりましたか。
さらに非衛生的という状態自体が、存在しないのだと言いたいです。非衛生と衛生の境界なんて無いのです。さあ、ちょっと飛躍が過ぎるが、行ってしまえ。
人間の体の中には、細菌が数百種、数百兆個が共生しているそうです。そしてウイルスもその何倍も共生しているとのことです。誰もが内部にたくさんの様々な生物を抱えているのです。
一方で人間の細胞は、遺伝子的に一種類だけが40兆個くらい"しか"ありません。人間の細胞はマイナーな存在なのです。そういう細菌とウイルスと人間細胞とが、一緒になったのが人間なのです。
人間の予備知識のない人工知能が人間をスキャンしたとき、人間一人を多くの微生物集合体と見なすでしょう。その人間が感染症で苦しんでいたとしても、健康な人間との差異を見出すことは難しいかもしれません。
細菌やウイルスを克服しようとか、たぶん不可能であまり意味がないでしょう。ワクチンが効くこともあれば効かないこともあるでしょう。細菌やウイルスには善も悪もないのです。その時々で有用だったり害があったりするでしょうけど。
このコロナ騒動に関しては、無責任だけど「達観」とか「諦観」がいいのだと思っています。
なんだ、あきらめろって言っているのと同じじゃないか。やれやれ。変な奴らがいるからだ。バチが当たればいいのに。どうか神罰を与えたまえ。無宗教的に。それではまた。
10万ライフのシミュレーション
男は誰もがロリコンか
○月△日
イチロー選手が現役ピークの頃、イチロー選手のデータをプログラムにして、仮想イチローを10万シーズンほどシミュレーションでプレーさせたそうです。
すると数百年に一度くらい、シーズン打率4割を打てるという結果になったそうです。細かい数字は忘れましたが。4割って大変なんだ。
自分も10万ライフほど脳内シミュレーションをしてみたら、1300ライフくらい、つまりは80ライフに1ライフ、ホモセクシュアルとして人生を歩むこともあるかもと感じています。いや3000ライフ、33ライフくらいに1ライフかな。
でもロリコン、マザコンについては、何だかそんなライフがありそうに思えません。
とつぜんボクは何の話から始めているのでしょう。今回は、人が持っているさまざまな性質について、行き当たりばったりに、仮想自分でシミュレーションして考えたことを、まずは聞いてください。
男はみなロリコンと何度か聞いたことがあります。男はみなマザコンもたまに聞きます。うーむ。わかりません。自分のロリコン濃度もマザコン濃度も低すぎて、男全員がそうだと断言できないのです。どちらも仮想自分はゼロライフでした。
自分自身はそれほど特殊な人間だとは思っていないので、自分よりもそれぞれの濃度が低い人間が存在するはずです。自分がほぼゼロなので、もっとゼロはいると予想されます。男はみなロリコンだマザコンだというのは成立しない気がします。
ナルシストというのはどうでしょうか。以前通っていたジムで、いつも鏡に映った自分の顔を見ている人がいました。トレーニングのインターバル中に、必ず鏡の自分を見ていました。そんなに男前でもない人でしたが。
自分自身は、自分の顔を鏡で見るのは1日に10秒もないですが、ナルシストの気持ちは分からなくはないです。自分の筋肉を見て惚れ惚れするようになったのは、あれはナルチシっているのでしょう。たぶん男はいくばくかナルシストでしょう。
あっ。言い忘れてました。人の性質を考えるつもりですが、基本は男としてでしかシミュレートできないので、そのへん容赦ください。
サド、マゾ成分は以前にも書きましたが、どちらもその成分はあります。誰もあると思っています。
覗き見趣味、あります。「普通に」を付けて、普通にありますと書きかけました。普通かどうか分からないのに。主観的には平均より少し下かな、と思っています。圧倒的にダントツだったりして。
女装趣味、うーん、誰も見ていないところに、衣装と鏡があって、よほど他にやることもなかったら着てみるかもしれない。着てみたらハマったりして。
下着などのフェチ、うーん、理解できないです。大好きな人が持っている物に触れてみたい感情はあります。この感情を引き伸ばしたら、フェチになるのであれば、あるのかなあ。違うような気がするなあ。
差別者意識、選民思想、この二つは同根だと思っています。差別者としての自分を想像するのは難しいです。ただ選民思想があるのは確かです。自分は選ばれていると思っています。
小学生くらいの時に、自分は遠くからやってきた宇宙人で、いずれ地球を危機から救うんだ、という妄想にとらわれていました。いつか呼ばれる時が来るんだと。それがまだどこかに残っています。55なのにアホです。そんな選民思想がある限り、人を差別してしまう傾向がないとは言えないですね。
鉄道オタク趣味、少しあります。自分ではまったく活動しませんが。鉄道オタクには、乗り鉄とか撮り鉄、グッズ、時刻表などいろいろ分類化されているようです。一番理解できるのは、音鉄ですかね。鉄橋を渡る音とか好き、という気持ちは実にわかります。
それよりも、鉄道オタクたちが楽しく語り合ってるテレビ番組を観るのが好きです。鉄オタ観察"鉄"かもしれない。
さっきからただただ、自分の性的趣味嗜好などを恥ずかしげもなくカミングアウトしているだけの記事になってきました。
自分の中の、意識的にわかっていない、わずかな成分でも、何とか分離濃縮培養して、10万ライフのシミュレーションをしていけば、いろいろと理解できないことも理解できるようになるかもと思ってのことです。
法律的にアウトなもの、倫理的に許されないことに対しては、社会的にバイアスがあって、自分の中を正確に見つめるのは難しいのかもしれません。ロリコン成分が見当たらないのは、アウトだと思っているのが理由なのかも。時代や文化によってはロリコンは問題視されませんがね。
マザコンは何ら倫理的アウトじゃないですが、カッコ悪さはありそうですね。そんな少ないバイアスを無理に取り去っても、マザコン濃度はほぼ無しです。
ただし特に母親が嫌いとか思っていませんし、尊敬していますし、長生きしてもらいたいです。しかしマザコンって想像できず、何だろうと思っている自分がいます。
これらの性質で、誰もがほんの少しは持っていそうな性質・嗜好・傾向と、中にはゼロの人も存在するのではないかというものに分けられるような気がしています。あくまで想像ですが自分なりに分けてみます。
誰もが持っている
・サディスト、マゾヒスト
・ナルシスト
・差別意識、選民意識
・ホモセクシュアル
・覗き見趣味
誰もが持っていない、ゼロの人もいる
・ロリコン、マザコン
・女装男装、下着などフェチシズム
・オタク系の趣味
さて、一体何が言いたい回なのだと思われるでしょう。ようやくボクの仮説です。
誰もが少しは抱えていると思われる性質はすべて、人類に必要な性質であると。
進化論的に、これらがなかったら淘汰されていただろうということです。上に挙げた誰もが持っていると考えた性質は、進化で必要だったのです。解説は長くなるので次回以降にします。
誰もが持っていない、ゼロの人もいる性質に関しては、人類に必要でも何でもなかったのです。人類が文明発生後に獲得した、現代的な性質だと考えています。
誰か、それぞれゼロ濃度が存在するかどうか、正確に調べてくれないかな。分布を作ったらそれなりの学術的価値はあると思うのだけど。しかし定量化が難しいものばかりだ。下着蒐集趣味とか覗き趣味とか、どうやって数値を調べるのだ。
考えるのはメチャ楽しそうだ。実験とかフィールドワークも楽しそうだ。そんな研究をするライフを歩みたかった。それではまた。
鳥かごでレアチャンスを逃さず、
新時代を生き残れ!
○月△日
どういうわけかボクは、ホモセクシュアルの人に狙われやすいようです。最近はありませんが、若い頃は何度もその筋の人から誘われました。電車で会っただけのフランス人男性に、アパートに来ないかって手を握られながら口説かれたことがあります。
なのでヘテロセクシャル(言ったらダメなのですが、いわゆるノーマル)の人でも、ホモセクシュアルの素養がある人は、何となくボクにはわかります。本人が気づいてなくても、あーこの人は10万ライフ生きたら、2万6800ライフくらいは、ホモセクシュアルとして人生を歩みそうだな、ということがわかりますね。今回はたまたま、それなりの出会いがなくて、それと気づかない人生だったのです。
それにしても、どんな才能だ。
それはともかく昨日の記事では、誰もが少しは持っている性的嗜好・傾向などは人類に取って必要だった、それがなくては絶滅していたという仮説を述べました。以下のような性質は人類の進化に必要だったのです。
・サディスト、マゾヒスト
・ナルシスト
・差別意識、選民意識
・ホモセクシュアル
・覗き見趣味
まず、誰もが持っている性質であれば、そもそもそれは必要だったから持っていると考えるのが自然でしょう。不要なのに、全人類が少しずつでも持っているのはおかしいからです。持っていない人類については淘汰されて生き残っていないのです。それぞれ個別に考えましょう。
さてサド、マゾについては何度も述べました。戦い、殺し合いに必要な脳内物質が出る傾向で、それが過剰となる場合です。サドはドーパミン、マゾはエンドルフィンです。それら脳内物質が出ない、あるいは少ない個体は、戦いに負けて淘汰されたでしょう。
ナルシストは単純です。自分を愛せない個体は、自分を大事にできない。いろいろな競争や戦いに敗れて淘汰されるはず、というものです。自分を愛せない奴は、戦いに勝てないのです。何だか名言ぽいですがスルーしましょう。
差別意識、選民思想については、ボクの周囲で統計的にゼロではないという確信に近い直感があります。どんな人格者でも、お高く止まっている部分があると感じています。そういう感情と選民意識と差別意識は根底で繋がっていると考えています。
差別という意識は、集団を守るための異物を排除する目的があり、社会生活上どうしても発生する意識だと思っています。現代の価値観では悲しい話ですが、太古の昔に思いを馳せ、ありったけの善悪を棚に上げて考えると、そのような結論になってしまいます。なんだか重い話だ。
さあ次に、一番矛盾ありそうなホモセクシュアルです。子孫を残せないので進化論的におかしなことです。政治家が生産性が無いとまで失言していました。
ボクの説を正確に言うと、ホモセクシュアルが進化論的に必要なのではなく、人類に必要な性質の結果として、ホモセクシュアルは存在するということです。ちょっと何言ってんだか、ですよね。
太古の昔、人類の人口としては非常に少なかったでしょう。狩猟採集社会で人口を維持できる人口密度は決まっていたはずです。ならば一生の間に出会う他者の数も限られます。近親でない異性と遭遇できるチャンスなど、わずかだったはずです。そんなにレアなチャンスなのに、あんな人いやー、もっとこんなのがいい、って言っている場合じゃないのです。言っている個体、言うような性質は絶滅するのです。ある程度は、誰でもいいと思っていないとダメなのです。
各個体の嗜好で考えると、想像しにくいかもしれません。ミクロよりマクロです。個人より集団です。
巨大な鳥かごを二つ用意しましょう。そこに一方は、好みのウルサイ男女100人を入れます。他方には、比較的"誰でもいいかな"と思える男女100人を入れます。守備範囲が広いのですね。それぞれの男女は、年齢容姿さまざまにしておきます。
そして1人ひとりが出会う確率は年に1回くらいになるほど、鳥かごが広いものとしましょう。国を囲うほどの巨大な檻です。
1万年くらいたって、フタを開けた時、どちらの鳥かごにたくさんの人間が生息しているか、という想像をしてみてほしいのです。1回の実験では、たまたまかもしれませんので、10万回くらい繰り返してみてください。
1万年×10万回の鳥かごに思いを馳せると、好みがウルサイ方が人口は少なさそうですよね。絶滅している場合もあるでしょう。なので性的な嗜好の幅は広く維持されるようになるでしょう。嗜好のバラツキが一定以上に保たれるということです。
性的な嗜好の幅が広いと、中には(いわゆる)男っぽい女子を好む男も現れるでしょう。(いわゆる、あ、ポリコレ無視宣言してた)女っぽい男子を好む女も現れるでしょう。そういう性質が10万ライフあったら、偶然の出会いや、幼少期などの経験や、社会の形態なども影響して、何度かのライフでホモセクシュアルになってもおかしくないのです。なので一定数のホモセクシャルが存在するということになります。
ここで仮に、ホモセクシュアルが存在しない場合を考えてみましょう。男は男らしく、女らしい女を好きになる。女は女らしく、男らしい男を好きになります。
ということは中間的な個体はいなくなっていく。多様性が失われます。多様性が失われると、生き延びる可能性も失われるのです。ある病気に特異的に弱くなるかもしれません。環境変化についていけないかもしれません。集団同士の争いに負けるかもしれません。
ネアンデルタール人はホモサピエンスに負けて絶滅しました。しかしネアンデルタール人はホモサピエンスより体格が大きかったようです。男性ホルモンであるエストロゲン量が多く、男は男らしかったのかもしれません。もしかしたらネアンデルタール人にはホモセクシュアルが少なくて、多様性の乏しい人種だったのかもしれません。なので多様性の豊かなホモサピエンスに負けた。
この「レアチャンスを逃さないため性的な嗜好の幅は広く維持されるはず理論」および「多様性があるほうが強い理論」は、かなり美しく強い理論タッグとも思えます。
あっ。これらの理論が正しいとすれば、ロリコンも同じカテゴリーとなります。つまりある程度幼くても、あるいは歳相応でない幼い容姿でも、それなりに興奮する性質を持っていないと、そこで淘汰の壁が発生します。生き延びる確率が低下します。多様性が失われます。
好みに多様性を持たせようとするなら、ある程度のロリ濃度を高めの目盛りに設定しなければなりません。ロリ濃度ゼロはいなくなるでしょう。ボクにもロリ成分が自覚できていないものの、わずかにあるようです。
さて覗き見趣味。これも人類に必要なのです。覗き見して興奮しないようなパッションのない個体は生き残れないのです。他の個体たちが、まぐわっているのを見て、興奮して、引き剥がして、我が物にする、あるいは、興奮のあまり手っ取り早くそのへんの個体を見つけて我が物にする、そんな激しいリビドーだったっけか、そんなリビドー山がないとダメなのです。いろいろなチャンスを逃さなかった子孫が我々なのです。
前回、ロリコン、マザコン、フェチ、オタク的な性質は、ゼロ気質の人もいるので、人類にとって必要ではないと述べました。ロリコンに関して、ボクのシミュレーションと理論は違っていましたが。
マザコンは、集団生活をしていたら、産みの母親って、そんなに影響があるように思えないのです。何人かのメスが共同で育てることになるからです。遺伝的にも近親相姦を避けるはずなので、逆に忌避のシステムがあるはずです。マザコン濃度はかなり低めに設定されているでしょう。
マザコンが生まれたのは、核家族が主流になった世界以降のことだと考えられます。
フェチ、オタクなどは文化の香りがあるので、太古の昔からのものとは思えないのです。
人類学を揺るがす新説を次から次へと発表しているなあ。大丈夫だろうか。何がだ。こんなヨタ話では揺るぎませんね。そもそも"説"扱いもされないでしょうね。それではまた。
文明は回る
トナラーの鼻歌に心を重ねよう
○月△日
日曜日の朝です。近所のガストに来ています。さあ今日は何を書こうかと思案していたら、若い男が隣に座りました。こんなに空いているのに、なぜわざわざ隣に?
トナラーってやつでしょうか。最近この言葉を知りました。空いているのに、なぜだか隣に座りたがる人種のことです。
以前、ジムではマシンの順番を平気で目の前で待つデリカシーの無い人たちについて書きました。かなり似た性質に思えます。イラつくなあ。
トナラーについて調べると、他人を没人格化するとか、逆に空いている状態で孤立するのが不安だから、誰かに寄り添いたくなる気持ちが働くとかあります。
隣の人、なんだか鼻歌を歌っていて気持ち悪いんだけど。不安に思っているようには見えません。ボクを没人格化しているというのは近い感じはします。
あるいは席がいつも決まっているのかも。ボクは初めて来る店なので事情がわかりません。ガストへ来るのも人生で2回目くらいだし。むー。気が散るなー。鼻歌だけでもやめてくれよー。
もう少しトナラーについて調べ、以下にまとめました。
・その場所と決めている、
その場所に何らかの意味がある
・実はわかっていて、わざとそうしている
→嫌がらせをしてストレス発散している
・端から詰めていくのがエチケットと
思っている
・空いているのが不安で集団を作りたい
・考え事をしていただけ
・周囲を気にしない(他者を没人格化する)
上の3つは意識的、下3つは無意識的ですね。考え事をしていたというのは、周囲を気にしない場合の一時的なものでしょう。意識的なトナラーには興味が湧きません。考察したところで、何も出てこないでしょう。
無意識的なトナラーは、不安心理か他者没人格化かのどちらかです。この二つについて考えてみます。それぞれ、不安な第一種トナラー、他者没人格の第二種トナラーと名付けましょう。
進化論的に考えましょう。集団に属していないと不安を覚える心理が全く無いと、生き残るのには弊害がありそうです。集団から離れて独りになると、普通は生き残る確率が減るからです。
性質が全く無いと弊害があるのなら、誰にでも少しはその性質があるように人類は調合されているはずです。誰にでもあって、その量に多い少ないというバラつきがあるのでしょう。
自分にもほんの少しはある性質なんだと思えると、仕方ないなあと考えることができます。要は諦めがつくということですね。
前回の記事で、以下は進化に必要な性質、もしくは必要な他の性質の現れなので、存在が不可避な性質と述べました。このような進化に必要だった性質は誰にでも少しはあるはずというのがボクの説です。
・ホモセクシュアル
・ナルシスト
・サディスト
・マゾヒスト
・ロリコン
・差別意識、選民意識
・覗き見趣味
ここに集団安心意識、つまり不安な第一種トナラーも仲間に入れて、自分を納得させることにします。
さて第二種トナラーである、他者没人格化、あるいは、前に命名した他者遮断障害は進化論的にどうなのでしょう。人類に必要な性質なのでしょうか。
直感的に、文明が発生してからの性質のような気がします。太古の人類でこの意識を持っていて得をすることなんてないはずです。淘汰され存在しなくなるのではないでしょうか。では文明発生後に現れたと考えていいのでしょうか。
複雑な社会において、他者を没人格化するのは自己防衛上、役に立ちそうです。得になりそうです。文明社会が生み出した、病気とは言えないけど、そんな障害なのだと。文明社会が生み出した心の闇の一つなのだと。
いや、ありきたりすぎる。よく聞く便利なフレーズだ。複雑な文明社会が生み出したなんて言ったら、それは思考停止なのだ。そんな結論で終わらせてたまるか。フレーズを使ったことのある多くの人がギクっとしたかもしれないが、知ったことではないのだ。
因果が逆かもしれません。他者を没人格化する能力を人類は何かの拍子、突然変異か何かで獲得した。そしてその性質を持ったことによって、文明を生み出すことができた。今までの小さな集団社会を、大きく複雑な社会にすることができた。他者を没人格化する能力はそれくらいのパワーを秘めていた。
この性質ってサイコパスっぽいじゃないですか。サイコパス的な人って偉業を成し遂げたりします。サイコパス的人格を手に入れて、人類は複雑な文明を作り出したのだと。
おおー。良い感じの論理展開になってきた。しかし隣の男が気になってこれ以上深く考えられないです。まだ論理展開が粗っぽいです。鼻歌だけでなく、手先で何かの振り付けの練習をし始めました。スマホで動画を見ているようです。首もカクカク動かしています。めちゃめちゃ気になるよー。なんなんだよー。
(急に低い真面目な声で)複雑な文明社会が、カフェで鼻歌を歌い、手や首を何やら不気味に動かしても、恥ずかしさを自覚できない人類を生み出したのか。それとも気持ち悪いこの男の性質が源流となって、この文明社会を生み出すことになったのか。この疑問にどう答えるのだ。しかし今日はこれまでだ。再び今度にするのであった。それではまた。
あなたの苦しみは私の苦しみ 熱っ熱っ
○月△日
15年くらい前に、とある名門ホテルの社長と話をした時のことです。皇族も宿泊されたことがあるという、そのホテルのスイートでの会談でした。会社の研修の一環で、ボクがセッティングしたのです。なんそれ?、でしょうけど、詳しく説明するのも面倒なので、そのまま続けます。
ホテルの従業員の採用についての話になった時、その社長が「人の喜びを自分の喜びにできる人しか採用しない」と言ったことが非常に印象に残っています。
社長曰く、人の喜びを自分の喜びにできる人は限られた一種の才能であり、教えて学べるものではないとのことでした。なので、採用の面接時にその才能の有無だけはしっかりと見極めるのだそうです。
これは共感力のことですね。当時はあまり使われなかった言葉だったかもしれないです。やはり、ホテルマン、ホテルウーマン、めんどくさいなー、ホテルパーソン、聞いたことないな、ホテリエ、フランス語っぽいから、オテリエか、何でもいいや、えー、ホテルで働く人たちは、共感力が重要なのでしょう。
自分も喜びを感じている人のサービスって真のサービスという感じで、こちらにも伝わってきます。マニュアルだからやっている人のサービスは見抜けます。ボクも高級レストランのウェイターのアルバイトをした経験があり、サービスをして喜んでもらえる喜びについては理解できます。お、ボクも才能があるのかも。
逆に教えられないというところが衝撃でした。つまり一定数の人たちは、人の喜びを自分の喜びには、いくら教えてもできないということです。サイコパスがそうなのでしょうけど。そこまで極端でなくても、確かに周囲を見渡してたら、3割くらいは才能がなさそうな気がします。
昔の同僚で、極めて共感力の高い人がいました。他人がヒジなどをぶつけて痛がっている時、多くの人が見て笑うなか、その人も一緒に顔をゆがめて痛そうにするのです。
面白いから、火傷をしたエピソードを話した時に、わざと大げさに「熱っ」とすると、その人も「熱っ」と言って一瞬飛び上がったりするのです。「ミラーニューロン」ってやつですかね。
そんな彼は、ナイーブすぎて、心が弱いと見えて、周囲からは高い評価ではなかった感じでした。その後、彼はエンジニアにもかかわらず、一時的に営業業務を任された時、ボクはこれは面白いことになったと思いました。彼の共感力の高さが、どう生かされるか見ものでした。
しばらくして、ボクにとっては案の定、周囲にとっては予想を裏切って、彼は契約をバンバン取ってきたのです。エンジニアなのに、彼には営業の才能があったのです。たいていのエンジニアは営業の才能がありません。
営業職能では共感力は重要です。客の話に共感できると逆に思いが伝わります。こいつから買ってやろうかと思わせる関係性を築けるからです。
さて多くの企業で、採用時にアンケート形式の性格診断をおこなっています。ただアンケート形式の性格診断では、仕事の適正はわからないことが研究で明らかにされています。
そりゃそうです。アンケートって主観的なものです。自分を客観視できている人なんて、ほとんどいません。本当はAの答えでも、Bの方が印象が良さそうならBを選びます。あるいは無意識的にはAでも、表層の意識はBと答えることもあるでしょう。
なので提案です。何らかの動画を見せ、その時の反応を細かく分析するのはどうでしょう。笑ったか、顔をしかめたか等の表情や瞳孔の開き、視線の動きなどを調べるのです。
少なくとも共感力は分かると思います。共感力の必要な職能、もしくは共感力があってはむしろ邪魔になる職能もあるでしょう。すでに在籍する社員で調べたり、採用者を数年追跡調査したりすると精度は高まるはずです。適職となった人の反応のデータベースを作るのです。
今は優秀な人を採用するより、適職とする人材を採用すべきなのです。
あれ、何の話でしたっけ。そう共感力の話でした。サイコパスが文明を築いたんだという、壮大な説の前の、焦らしの回でした。壮大って自分で言うんだ。それではまた。
高共感マゾは、未経験者歓迎に近づくな
○月△日
共感力の高さと感受性は相関がありそうです。共感力のある人は芸術的才能が秀でているかもしれません。美しいものをより美しく感じやすいでしょう。神経質な傾向もあるかもしれません。
感受性、芸術的才能、神経質、傷つきやすい、緊張しやすい、シャイ、などなどあたりとの相関が高そうです。しかし何だか粗い括り方で、ちょっとずつ違うような気もします。
ネズミにまで共感力があると研究で確かめられているそうですが、犬や猿などの社会性のある動物は、顕著に共感力があるようです。なぜそういう動物に共感力が備わったのでしょうか。おそらく、強い者、社会的優位の個体への服従戦略がそうさせたのでしょう。
社会で生き残るには、最も強くなるか、その強い個体・アルファオスからおこぼれをもらうかの、どちらかの戦略が効果的です。後者の弱者戦略としては服従、それも心から嘘偽りのない服従となった方が、強者から気に入られやすいはずです。
逆に共感力が無かったら、うとまれ、生意気な奴と思われ、排除されていったでしょう。
つまり強者の喜びを自分の喜びにできるとか、強者の困りごとを自分のように感じられるとか、その違いで生存確率は増したでしょう。何だか切ない話ですが仕方ないのです。我々はそんな強者と弱者の遺伝子を備えていて、そのどちらかが強く表れているのでしょう。
さて以前にサドはドーパミン、マゾはエンドルフィンという脳内物質が過剰に出やすいのだという説を書きました。
このマゾ気質と共感力が重なると、ちょっと厄介なことになると考えています。人のために自分が際限なく犠牲となることを、厭わなくなるからです。
人の喜びは自分の喜びなので、人が困っていると、自分が何とかしたくなる。そして自分が痛い目にあう。そのときマゾなので快感を得る。困ってた人がもしサドなら、それを見て喜ぶ。それを見て、自分も喜ぶ。さらに快感となる。サドにとっては、きわめて好都合な性質です。
「勉強とか忙しくなるのでバイト辞めたいんですが」
「今辞めてもらったら困るなー」
「え。でも」
「他の子たちも困るし、もうちょっとだけお願い。もうすぐヒマになるから」
「え。でも」
「すぐに他の子を探すから。それまでお願い」
「あ。はい」
とか言って、すごすごと引き下がる人、そのままずるずるとバイトを続ける人、ブラックな会社に入ったら、高い確率で「社畜」になってしまうことでしょう。こんな経験のある方は、本当に要注意です。心を強くして辞めましょう。
ブラックな会社にはサドがウヨウヨいて、高共感なマゾを餌食にしようと待ち構えています。未経験者歓迎です。アットホームで笑顔の絶えない職場です。親切丁寧に指導します。自由な社風です。これだけ揃えば、ブラックなサド会社のフラグ立ちまくりです。
サドたちは、サドだからこそ、これらの文言を疑うことなく本気で真実だと思っています。
未経験者歓迎とは、未経験者のほうが、教えがいがあって楽しいのです。つまりサドは調教がしたいのです。
アットホームで笑顔が絶えないのは、サドたちみんながドーパミンを出して気持ち良くなっているのです。
親切丁寧な指導とは、サドたちが思い込んでいる親切丁寧であって、普通の親切丁寧ではありません。
自由な社風の意味は、人の困る顔が見たくて、自由に人に失敗をなすりつけ、誰も責任を取ろうとしていないという意味です。いずれマゾが責任を取らされるでしょう。
あれれ、これも何の話でしたっけ。そう共感力の話でした。サイコパスが文明を築いたんだという深遠な説の前の、再び焦らしの回でした。また焦らすのです。そしてまた深遠って自分で言うんだ。それではまた。
吸い殻を見て嘘がわかると、
巨大文明が生まれる
○月△日
前に他者を没人格化できる第二種トナラー的人格の話をしました。人の迷惑を考えられない共感力の無さは、サイコパスに通じるものがあり、これらの人格が出現してきたことによって、人類は文明を作り出すことができたのではないかと、半ば発作的に思いついたのです。
今回は今いちど、この説を整理してみます。焦らしは終わって、ようやく取り掛かります。
さて太古の人類社会において、この共感できない性質を持っていたら、強者から疎まれ淘汰されやすいと書きました。しかし、共感力を多く持ちすぎるのも何らか弊害がありそうです。精神的に疲れてしまいます。戦いにも勝てる気がしません。ある程度の鈍感性が必要でしょう。強さとは鈍感力でもあるのです。
特に人口が増え、徐々に人口密度が大きくなってくると、共感力の強さは邪魔になり、逆に鈍感さが有利になってくるでしょう。
となると、共感力は高くないあたりで制御されます。ダイヤル目盛りは2あたりにセットされます。そうするとバラツキで、今度は共感力がゼロに近い個体が出現してしまいます。
共感力の無い個体は、初めのうちはアルフォオスや集団から嫌われ、排除される傾向にあったでしょう。するとどうなるか。淘汰されて、すっかりいなくなるか。
しかし共感力は低めのボリュームで設定されています。バラツキがあって、常に共感力の無い個体は産出され続けます。排除はされ易いが、いなくなることはない。
共感力の無い個体でも、共感力があるように、賢い振る舞いができる個体であれば、生き残るのではないでしょうか。その振る舞いとは、嘘をつくことです。
前章で述べたように、人類は同胞を謀殺する能力を身につけるようになりました。その能力によって、正義を語る物語を作るようになりました。言語が発達していったのです。次第に言語能力が人類に求められるようになりました。
言語能力すなわち、嘘をつける頭の良さを持っている者なら、社会で生き残れます。口の上手い者が生き残れます。つまり共感力の無さを隠せる能力が、共感力の無い個体の中で発達していくでしょう。
つまり共感力が無く知能の低い者は淘汰され、共感力が無く高い知能を持つ者だけが生き残ります。おそらく高い知能を持つ者同士は、惹かれるでしょうから、お互い交配することになり、子孫はさらに、高い知能と共感力の無さを兼ね備える傾向が強まるでしょう。
サイコパスには以下の10の特徴があるとされています。ネットから拝借してきました。
・表面上は口達者
・利己的、自己中心的
・自慢話をする
・自分の非を認めない
・結果至上主義
・平然と嘘をつく
・共感ができない
・他人を操ろうとする
・良心の欠如
・刺激を求める
口達者とか、平然と嘘をつくなどが能力として持つのは生き残る戦術として必要だったと考えられます。
集団に視点を置くと、口達者でない嘘をつけない、知能の低い個体が少しずつ排除されるようになります。つまり集団の知能の平均値が徐々に上がっていきます。言語能力の高い個体が増えると、影響し合って、集団全体の言語能力も向上していいくのです。共感力の低さは、言語能力を押し上げるのです。
集団内の共感力の無い個体割合も高まっていきます。つまり集団のサイコパス度も徐々に高まっていったでしょう。多くの個体が平気で嘘をつくようになります。
世界的大ベストセラー「サピエンス全史」、つまりこの記事の宿敵と言える本では(ライバルを宿敵に言い換えても同じです)、人類は虚構を語れるようになって発達したのです。
嘘をつける社会と嘘をつけない社会が戦ったら、嘘つき社会の方が勝ちそうなのは、現代社会を見ていても納得できます。
粉飾して株主に大嘘をついていた会社がのうのうと生き残り、ズバズバと正直なことを言いながら、法律に則って株を購入していた人は投獄されるのです。
嘘をつく能力が育まれていく過程で、嘘を見抜く能力も必要です。誰かが嘘を言い出し、誰かが違和感を感じて嘘を見抜く。どんどん集団は賢くなって、サイコパス度も上げていく。さらに言語能力が高まり、言語を紡いで知恵となる。多くの新しい知恵が集まり、知恵と知恵が有機的につながり始める。そしてついには臨界点を超える。
そして、どうなったか。
エジプト文明やらメソポタミア文明のような巨大文明が築かれました。最後のほうは、ずいぶん駆け足になって飛躍したけど、たぶん誤魔化せたはずだ。うっかり心の声が出ています。
折れたタバコの吸い殻で嘘がわかると、文明が生まれるのです。誰かいい人できたのです。2回分の記事で焦らした挙句に、第三章をこんなover50にしかわからないオチで締め括っていいのだろうか。いや、over55だろう。それはどっちでもいいぞ。それではまた。
第四章
美意識と違和感と
三種の神器は古代人の美への憧れの象徴
○月△日
真円、まん丸を書こうとすると、コンパスを用いるか、単にパソコンのソフトで描いて印刷すればよいでしょう。真円を目にする機会は現代人にとって珍しいことではないと言えます。今でも見える範囲に、コップとかスマホのホームボタンとか数え切れないほど目にしています。
すでに、もう勘のいい人はタイトルからして、その後の展開は読めてしまっているでしょうけど、勘の悪い人のために続けます。何とひどい言い草だ。
古代の人は真円、美しい円を目にする機会はほとんどなかったのではないでしょうか。見ることはあっても、手元でしげしげと眺めることはできなかったのではないかと。
真円といえば、まず太陽です。夕焼けや朝焼けの光が弱い時などに、くっきりと見ることができます。ただし手元で見ることはできません。また時間も限られています。
次に満月です。1ヶ月に一夜しかありません。厳密にいえば一瞬ですが。これも掌中のものにできません。
身近なものとしては、水の波紋でしょうか。手元で見ることはできても止まることがなく、すぐに消えてしまいます。
円ではなく、球であれば、ポットホール、つまり海岸の岩の窪みにある石が長い年月をかけて削られて球体になる例はあります。ただし非常に珍しい現象です。
なので技術が未発達な古代では、真円を作ることが難しく、真円は貴重であったはずです。権力者だけが所有して、権力の象徴になっていた時代もあったと想像できます。
古代が終わって中世あたりになると、技術が一般に広がって工芸品として美しい円がようやく登場しました。それが日用品にまで至ると、円というものは珍しくなくなったことでしょう。
さて真円のことを考えていると、直線も浮かびました。古代人にとってまっすぐな線、きれいな直線もなかなか目にして、手元におくことは難しいのではないでしょうか。いちいち例は挙げませんが。
そして同じように、まったいら、きれいな平面も珍しいものだったと思われます。とりわけ、つるつるの平面、つまり鏡面となると自分がそこに映り込み、それはそれは驚いたことでしょう。
円、もしくは球、直線、平面、それぞれに対して古代人は憧れがあった、あるいは手元にあると、驚くべきことであったと思われます。
さて、これらの要素を含んでいるのが、玉と鏡と剣です。もしくは円鏡と剣です。三種の神器との整合性について考えてしまいます。
三種の神器の玉は、勾玉で球形ではありませんが、勾玉は陰陽合わせて円の形になります。そもそも三種の神器に勾玉は入れてもらってなかったという説もあります。
とにかく無理矢理感はありますが、何となくその整合性を理解していただければと思っています。
さて言いたいのは、昔から人はシンプルな形に対して憧れなり驚きがある。つまり形に感情を動かされる。美しいものを美しいと感じることができる。人には「美意識」があるということです。
そして次に言いたいのは、「美意識が人類を繁栄させた」ということです。
おお!なんとでかいネタだ。大丈夫なのだろうか。つい昨日思いついた話で、それほど練れていないのだった。まだ心拍数も高い。ちょっと落ち着こう。それではまた。
芸術家に必要な4資質と書く書く詐欺
○月△日(前回から1ヶ月後)
突然ですが、芸術家、アーティストに必要な資質について考えました。以下の4つがあると思っております。
1.感じる能力
2.感じたことを記憶できる能力
3.表現する技術
4.新しい何かを追加できる能力
自分に当てはめて考えると、まず音楽的な才能については、1の感じる能力が全然です。ある程度高いレベルの演奏などでは、その良し悪しがさっぱりわかりません。クラシック音楽を聴いて、やっぱりカラヤンだ、いやいや小澤だ、というレベルどころか、プロと大学生の差ですら判別不能です。
そんな人間には音楽家としてプロには到底なれないでしょう。舌がバカだと一流のコックになれないという例えがわかりやすいでしょうか。
2の記憶できる能力は、自分が表現する時に、参照比較するため必要だと考えています。今の表現と、過去の感動との差異を把握していないと高いレベルの表現はできません。
ここでは3の表現する技術も絡んでくるのですが、表現を駆使して自分が感動できる高いレベルに引き上げるためには、まずは記憶できる能力が必要だということです。そして技術ももちろん必要です。
また料理の例えですが、「あの時のあの味」を記憶できていて、そこへ到達できる技術があるからこそ、一流のコックなのです。どんな味だったっけ、と悩んでいるようでは二流です。
そこまでの3つの能力だけだと、誰かの真似で終わります。なので4の新しい何かを追加できるかどうかが重要です。そもそもオリジナリティがないと芸術家ではないでしょう。
そしてその独自に追加したものに対して、良いか悪いか感じる能力が必要でしょう。いろいろ試して、尋常でない高いレベルで、さらに良くなっていると感じることができるかどうか、ここでも1の感じる能力が必要となってきます。
また一方で、新しい何かを思いつく瞬間は、いつ何時やってくるかわかりません。それを記憶しておくことも重要なのです。歌詞のフレーズを思いついても、書き留めるまでに忘れてしまうようでは作詞家になれません。オリジナリティを発揮するには記憶も関わってくるはずです。
以上を自分に当てはめると、絵画や写真などについては、音楽ほど酷くはないものの、凡人レベルです。良い絵画、良い写真は何となくわかるものの、表現する技術がほとんどありません。高校生の時に一眼レフカメラを手に入れて、いろいろ撮ったものの、良い写真が撮れたという記憶がありません。
料理は好きで作っていて、自分なりのオリジナルを作ることも多いのですが、技術がなくて記憶力も乏しいのでムラが大きい感じです。20年前に発作的に作ったオリジナルパスタが超えられないどころか、再現できないでいます。
「言葉」や「文章」に対してだけは、感じる能力が比較的高いように思っていますが、文学で大成できるレベルにはほど遠いでしょう。
この4つの能力のうち、一番重要なのは1の感じる能力だと考えています。他は訓練で何とかなりそうですが、この能力だけは天賦のもののような気がします。ある一定以上は、鍛えようがないということです。
さて、ではその能力の「感じる」とはどういうことでしょうか。違いがわかり、その良し悪しがわかること、というニュアンスで述べてきました。微妙な差異が判別できて、なおかつどちらが良いか。並の指揮者による演奏なのか、名指揮者による演奏なのか、その差異がわかるということです。ではその「良し悪し」って何なのでしょうか。
とある抽象絵画の大家によると、「美」とは「調和」であるとのことです。画家の名前は忘れました。たしか30年ほど前に読んだ対談本に、その発言がありました。とにかく美しいということは、調和が取れていることなんだと。
もし抽象絵画が上下逆さまに飾られていたとすると、素人にはわからなくても、その大家は、初見の絵でも逆さまがわかるとのことでした。調和がなく違和感があるからだそうです。
「美」とは「調和」であるということは真実なのでしょう。つまり感じる「美の良し悪し」とは、「調和が取れているか否か」である、ということを前提に話を進めます。
では「調和」とは何なのでしょう。そろそろ言語化は難しいという直感が働きます。とにかく「調和」「ハーモニー」「バランス」なんだと。
例えば「真円」はシンプルに調和が取れています。非常に美しい形のはずです。「直線」「鏡面」も調和が取れています。ただ見慣れてしまっているので「美しい」とまでは感じにくくなっているのでしょう。
つまり、見慣れていない、つまり新しい、そして調和がすごく取れている、そういうものに心を動かされるのではないかと考えています。つまり前述の4番目の新しい何かを付け加えることができることが、芸術家かどうか、というところへ繋がってくるのです。
「アート」には見慣れぬ新しさが重要です。時代時代の背景で切り取らないと語るのが難しい側面があります。絵画などは中世、近代、現代では比較が難しいです。特に現代美術は「新しさ」に重きがありすぎて、何のこっちゃ感が多すぎます。
音楽で言えばポップスも60年代のビートルズなどは、あの時代背景での音楽の新規性を語るべき側面があります。80年代以前の映画なども、現代のテンポからは考えられない間延び感があります。
バンクシーなどは活動の背景(後ろの景色じゃなくて、経緯とか裏事情のことです、念のため)を全部取り払って、作品だけを純粋に切り取って鑑賞することは不可能です。大学生の卒業制作と言っても納得してしまいます。
ではなぜ「調和」の取れているものに心を動かされるか。さあどんどん哲学的になってきた。
「調和」が取れていて心が動かされるということは、「調和」ってのは気持ちイイってことなのでしょう。ボクたちは「調和」の状態で脳の快楽物質がドバドバ出るよう進化してきたのだ、と考えています。ようやくこの記事らしくなってきた。
そうです、1ヶ月前に、「三種の神器は古代人の美への憧れの象徴である」という記事で「美意識が人類を繁栄させた」と書きました。そしてその詳しい話を書かないまま、書く書くと言って放置してきたことを、ようやく書こうとしているのです。
さあさあ!ってところですが、既に長くなっています。またまた今度にしましょう。それにしても理屈ではないはずの「美」を扱っているのに、何だか理屈っぽくなってきました。美とは理屈っぽいのかもしれない。
美学という学問については、何も知らないけど、きっとそういうものなのだ。美とは理屈だらけなのだ。これは次回の予防線だ。厚顔にも堂々と言ってしまった。それではまた。
「美意識と人類の繁栄」の大風呂敷を
理屈っぽく畳む
○月△日(また前回から1ヶ月後)
重たい荷物を運ぶ時、どのように荷物を持てば最も楽ちんでしょうか。答えは頭の上に載せるです。20キロくらいの米俵を何度か運んだことがあるのですが、手に持ったり肩にかつぐより、頭の上に載せた方が圧倒的に疲れませんでした。
アフリカ人などが頭の上に水ガメを載せている写真を見たことがあると思いますが、重い荷物を遠くへ人力で運ぼうとしたら、頭の上に載せるのが最善手です。
さて何の話かというと、脳の大きさ問題です。人類は直立二足歩行をするようになって、手(前肢)が使えるようになっただけでなく、脳を大きくすることができたと言われています。立って頭の上に米俵を載せながら、そのまま四つん這いになれば、そのことがたちどころに理解できます。今の脳が10倍大きくなっても直立なら何とかなりそうな予感があります。
脳が大きくなるということは、情報処理能力が高まるということです。様々な視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚などの情報を細かく認識して、記憶することが可能になってきます。そしてその中から、より自分が生き抜くことのできる因果や、より子孫を残す因果などを発見するようになるでしょう。
あの方角に黒い雲があると大雨になり、この辺が水浸しになる。そして水が引いた後、あの瀬に行けば魚がたくさん捕れる。
この臭いと、あの糞と、今の季節を考えると気の荒い猪がいるはずだ。
あんな感じの肌艶の異性と仲良くすれば、健康な子を授かることができる。等々です。
脳は大きくなればなるほど、各種センサーから得られる情報を細かく分析して記憶し、過去データと照合して予測し、時には修正して新しい法則を導くなど、複雑なことをどんどん可能にしていくのです。
さて話は変わりますが、人が異性を魅力的に感じる時は、外見の左右対称性を重視していることがわかっているそうです。顔だけでなく、身体のバランスも左右対称であることに、美しい、魅力的だと感じているようなのです。
こんな実験があります。CGで、多くの顔や身体の写真を作成して、そこに微妙な対称性や非対称性を与えておきます。それらの写真に対して被験者に、左右対称かどうかを聞きます。
次に、左右対称が判別できなかった写真に対して、美しいか、魅力的かどうかの質問をします。すると、わずかでも対称なものほど美しく、魅力的だと答えるのだそうです。わずかに非対称なものには、美しく魅力的とは感じていないのだそうです。
無意識は、左右対称かどうか判別できていて、その対称性を美しいと感じているのです。
左右の対称性は、身体能力の高さや、健康や免疫力と相関があることがわかっています。つまり対称性は繁殖相手にふさわしい、だから魅力的に映るのです。それは人だけでなく、動物でも同じような調査結果があるようです。
生命の発生って、受精卵から均等に分裂していきます。遺伝子がミスコードしない限り、消化器や心臓のような臓器は別として、基本は左右均等になっていくでしょう。左右が不均等だとエネルギーのロスが生じます。四肢が不均等だと、速く走れないとか長距離を歩いたりできません。片方の目や耳が悪いと、状況判断が遅れます。生き残るには対称であることが有利なのです。
対称であることは調和がとれていると言えるでしょう。なので、人類は調和を求めていると言えます。そして人類は、外界の情報をより細かく認識することができ、情報の中から生き残るための因果律を発見できると説明しました。
人類は、調和の中に神秘の因果律を見つけるでしょう。
調和が取れている形の方が壊れにくい。なるべく真っ直ぐが効率が良い。なるべく平らで水平が有利だ。さまざまな調和を見つけては、その因果を発見し、それを利用して生き残る確率が高まっていく。調和の取れたものが好きだと感じるようになる個体がより生き残るでしょう。調和は良さそうだ、気持ちいいと徐々に感じるようになります。
さてまたまた話を変えます。脳という臓器は大量のエネルギー、特に糖分を消費するのだそうです。なので人類は糖分を希求するか、脳をできるだけ使わないように進化してきたはずです。
糖分の希求に関しては、長い人類の歴史で有り余るほどの糖分を摂取した経験がなかったものですから、糖分の摂りすぎに対するストップ機構を持ち合わせていません。際限なく甘いものを求めて、糖尿病などの生活習慣病に陥ってしまうのが現代人の課題だという話はよく聞きます。
一方、脳をできるだけ使わないようにしてきたことについてです。
生き残ることを目的に、脳を大きくして、いろいろな難しい処理ができるように、つまりより多く深く考えられるようにしてきたはずですが、あまりに脳の燃費が悪いので、なるべく考えなくて済むベクトルも強まるはずです。いざというときは大きい脳で考えるけど、なるべくは考えたくないというケチケチ戦略を築いてきたのです。
そこで調和です。調和が取れている状態って、実は考えなくていい状態じゃないかと思うのです。調和が取れていると違和感がない。違和感があったら、この違和感は何に起因するのだろう、えーと、以前にこんなことあったっけ、などと考えてしまいます。調和が取れていると安心できます。考えなくていいんだ。これでうまくいくってことだ。そんな安心感が調和にはあるのです。その考えなくていい状態が、気持ちいいのです。調和は気持ちいい。
調和は考えなくていい。だから気持ちいい。調和は強い。効率的だ。選ぶと得をする。生き残れる因果がある。だから気持ちいい。調和=美は気持ちいい。調和は美だと、このシリーズで書きました。だから「美」は気持ちいいのです。快楽物質がドバドバ出るのです。
調和は芸術の美だけではありません。物理や数学も追究すると、調和のとれた世界が浮かび上がります。いかに物理や数学、つまり宇宙が、調和の取れた世界だということを説明したいのですが、それを説明できる大それた筆力を持ち合わせていません。
重要な物理や数学の公式がいかにシンプルで美しいかについても説明したいのですが、うまく説明できる自信はありません。そういうものだと感じ取ってください。ピタゴラスの定理、オイラーの等式など実に美しいです。
とにかく宇宙の真理は調和なのです。そして人類は、物理やら数学から調和、つまり法則を発見して、それを使って巨大建造物やら精密電子部品やGPSや惑星間航行などを作ってきたのです。矛盾するようですが、考えなくていいように、調和を求めて、考えてきたのが人類なのです。
あーやれやれ。美意識が人類を繁栄させたという話、かなり理屈だらけになるので、どうしたものかと長く逡巡していたのでした。どうやって書けば面白くなるか、わかりやすいか、ずーっと考えていたのだけど、ダメでしたね。今回はうまく誤魔化せたはずとは言えません。変な茶々やギャグを入れる余裕もありませんでした。読んでいる人の、眉間のシワが目に浮かびます。
足掛け3ヶ月かかって、三種の神器から惑星へ飛び立ったものの、論理展開がぜんぜん美しくない。「なるべく考えたくない脳」で読んでもらって、考えずに理解できる美しさを目指しましたが失敗でした。
20キロの米俵を頭に載せて、眉間にシワを寄せ、糖分を消費しながら、もう一度「考える脳」で読み返してください。それではまた。
パンツの穿き方が分からなくなったら、
それは風邪のサイン
○月△日
数年に1回、パンツの穿き方が分からなくなることがあります。皆さんはないでしょうか。もちろん穿き方を忘れてしまって、どうしても穿けないということではありません。あれ? オレ、いつもこんな穿き方をしてたっけ、右足からだっけ、左足からだっけ、もっとパンツを下から迎えにいってたっけ、などなど穿いた時に何だか違和感があって、一度脱いでは何度も穿く動作を繰り返すというような状況です。ボクだけかなあ。
そういう時、タイトルにもありますが、だいたい1〜2日後に風邪を引きます。パンツの穿き方が分からなくなるのは、風邪の引き始めということが、長年の観察データ、疫学的調査の結果からそう断言できます。疫学的って言っても一人だけですが。
パンツを穿く動作って、実はめちゃめちゃ難しいって分かります? たぶんですが、今のロボット技術を持ってしてもかなり困難と思われます。もちろんパンツを穿くだけに特化すればできるでしょうけど。基本仕様は歩いたり登ったり障害物を避けたりするロボットに、パンツも穿かせようとすると一気に難易度は上がるでしょうってことです。
我々の足や手も、パンツを穿くだけに進化してきたわけではありません。そもそもパンツを穿くようになったのは、人類数十万年の歴史のつい最近の出来事なのです。人類の歴史を1年にすると、パンツを穿き始めたのは12月31日の夕方くらいなのです。1年のほとんどをノーパンですごし、ようやくさっきパンツを穿いて、紅白やガキ使などを観始めたかと思うと、あっという間に宇宙へ飛び立ったのです。なので我々もその動作には全然慣れていないのです。
まずパンツの穴に向けて正確に足を入れないといけません。パンツを構えて片足を上げると重心が動き、バランスが崩れてしまいます。バランスを保つには、支えている軸足の足の裏の筋肉まで使って微妙な制御を行うのです。また体幹を支えるという相当な筋力も要求されます。筋力の落ちた高齢者などは困難さが増すでしょう。
そうやって微妙に揺れる体幹に両手も影響を受けます。その両手でパンツの穴を広げて状態を保持し、一方でわずかに動いているパンツの穴位置情報を、目の視神経から脳が得て、情報を常にフィードバックさせながら、足の諸動作の制御補正を行います。脳は大脳側頭野と小脳を駆使するのです。上げた足の形もなるべく穴に入りやすくなるよう、足指を曲げて流線型にして引っ掛かりを最小にしようと努力します。幸い足がパンツの穴を通過しても、その先に体重計の角とかがあると踏んづけてしまいますので、そういう周辺情報にも注意を向けています。とっても大変なんです。パンツを穿くっていうことは。
一方でロボット技術の進歩はめざましいものです。20年くらい前は二足歩行するのに、ヒーヒー言って苦労していたはずが、ホンダのアシモなどが、滑らかに歩くようになってビックリしていたら、あれよあれよという間に宙返りしたり、悪路を歩いたりできています。メカ的な技術の進歩というより、センサ情報から最適な動作をアウトプットする制御側の技術が発達したのでしょう。おそらくそれでも、パンツを穿くとなると、技術者たちは再びヒーヒー言うと思いますよ。ぜったい。
しかし、そもそも羞恥心のないロボットにパンツを穿かせるなんて、前代未聞どころか、ロボット史の未来に渡ってもあり得ないことでしょう。そのうち羞恥心のある意識が芽生えたりして。
そういう問題提起から考えると、パンツを穿くということは、人類にとって文化人類学的意味あるいは哲学的意味がそこにあるっていうことなのでしょうか。あるいは宗教的なものなのでしょうか。そしてそもそもロボットの羞恥心や意識って何なのでしょうか。
ボクはいったい何の話をしていたんでしたっけ。そう風邪です。そういう微妙な動作、微妙な制御って、脳を含めた、身体全機能の"粋"を総動員させているのです。普段は全く意識していませんが。
そんな中、どこか機能に不調があると、この精度良く構築されたパンツ穿きシステムにいつもと違う変位が生じ、いつもと違うフィードバックを行なっていることになり、それが違和感となって、あれ?何かが違うぞってなるのです。
その不調が風邪の引き始めということなのです。身体は増殖するウイルスと原始的に戦っており、パンツを穿くという近代的な動作なんかやってられない状況だったわけです。なのでパンツの穿き方が分からなくなったら、早めに寝るのが一番だということなのです。
今回の話はこれだけです。この第四章の一連の流れの中では、人類の技術の発展だけが繋がっているものの、少し突飛な内容になっています。実は次回に回収できるのです。ふっふっふっふ。不敵に笑うことか。それではまた。
地下街が歩きにくくなったら、
それも風邪のサイン
○月△日
タイトルからして前回と同じ話になりそうですが、予告通りにしてみせます。
さて大都市の地下街は人が縦横無尽に歩いています。よく通っていた大阪の梅田地下街は全国一広くて、電車の駅が、JR2、地下鉄3、私鉄は阪急と阪神があって合計7駅もあります。
地下の場所によっては、本当に八方から人が歩いてくるような所があります。夜中の10時くらいに甲子園帰りのタイガースファンが「勝ったー勝ったーまた勝ったー」と騒いでいるあたりなどです。そんなに勝ちはしないけど。
それはともかく、朝の時間帯は特にとんでもない人の流れです。しかし不思議と皆さんぶつかることなく歩き進んでいます。ボクも普段はそれほど気にならず行きたい方向へ行くことができました。
ここはこう避けて、よし、このルートならぶつからない、とか意識で考えることなく、仕事のこととか、前行く美しい女性の後ろ姿とかに気を取られながら、いつの間にか行きたい駅へ向かうことができています。
しかし数年に1回、何だか歩きにくいなー、ぶつかりそうだなー、という日があります。そういう時、お分かりでしょうけど、だいたい1〜2日後に風邪を引きます。地下街が歩きにくくなったら風邪の引き始めということが、長年の観察データ、疫学的調査の結果からそう断言できます。疫学的って言っても一人だけですが。このへん前回のコピペです。
人が縦横無尽に歩いている地下街を歩くことは、実はめちゃめちゃ難しいって分かります? たぶんですが、今のロボット技術を持ってしてもかなり困難と思われます。このへんもまだ前回のコピペです。
まず人の動きと自分の動きから、ぶつかるかどうかの予測をしなくてはなりません。その人の速度と方向と自分の速度と方向を瞬時に計算し、数秒後の位置を予測します。ぶつかりそうなら方向を変える、速度を変えるなどの軌道修正を行います。
それが一人だけならいいのですが、その後方から迫ってくる人、横からもカットインしてくる人もいるのです。ただこの辺りの計算をするとなると、現在のロボット技術というか制御技術なら何とかなるでしょう。
もう一つ、もっと難しい予測があります。それは迫ってくる人が、急に軌道を変更するかもしれない、変更するとしたらどう変更するか、その予測です。これはこちらの動きによって、刻一刻と先方の判断も変化するのです。さらにその予測を難しくしているのは、人によって動きが違うことです。
その人のキャラクターからどう動くかの予測を、瞬時に判断しなければなりません。スマホを見ている人、気の弱そうな人、神経質に急いでいる人、避けそうもない無神経系の人、万が一ぶつかったらマズイことになるオラオラ系の人、それぞれこちらのデータベースを照会して、予測と最適な軌道修正をおこないます。
そこまでやるのだから、AI技術を駆使しディープラーニングさせたロボットでないと難しいでしょう。理解していて、このディープ何とかという単語を持ち出したわけではありませんが。
地下街を歩くということは、そういう瞬時の予測と難しい判断と、微妙な身体の軌道修正という脳を含めた、身体全機能の"粋"を総動員させているのです。普段は全く意識していませんが。
そんな中、どこか機能に不調があると、この精度良く構築された地下街歩き抜けシステムにいつもと違う変位が生じ、いつもと違うフィードバックを行なっていることになり、それが違和感となって、あれ?何かが違うぞってなるのです。
その不調が風邪の引き始めということなのです。身体は増殖するウイルスと原始的に戦っており、地下街を歩き抜けるという近代的な動作なんかやってられない状況だったわけです。
またまたこのへんも前回のコピペです。かなり大量のコピペです。
早めに寝るのが一番が前回の結論でしたが、今回は違います。
この地下街を歩く話とパンツを穿く話の共通点は、違和感です。自分の体調に留まらず、あらゆることに対して何かいつもと違うぞという違和感を逃さずにいると、色々な不調や異常を早期に発見できるということです。
この第四章では、美を感じることが重要だと書いてきました。美を感じ、調和を求めて人類は進化してきたと書いてきました。その調和を感じることの逆が、違和感を感じることです。抽象画を上下逆さまに展示すると、美術の大家は、違和感を感じ取れました。
そして、美や調和を感じ取るだけでなく、違和感を感じ取ることも人類の発展につながると言いたいのです。
違和感は、何かがいつもと違う、何かが変だということです。その違和感、”いつもsomething different”、に気を配ることが重要なのです。
ボクは仕事柄、機械設備や測定器などを多く扱ってきましたが、いつもと違う音がする、データの動きが何か変だ、このへんなぜか熱くなっている等々に気付くことが出来た時は、故障しているなどの異常の早期発見につながったものです。
また装置の故障だけでなく、違和感のある実験結果には、思わぬ新しい発見があったりして、次なるアイデアへの手掛かりとなっていることもありました。お。何だかノーベル賞の逸話みたいですが、ボクなんかでも本当に何度かありました。
そうです。卑近な例を出さなくても、多くのノーベル賞につながる発見、ノーベル賞でなくても人類に貢献した発見や発明は、初めは違和感なのでした。
違和感から、放射線やら薬やら食品やあれやらこれやらが発見されました。多くのエピソードには枚挙の暇がありません。マイキョノイトマが具体的に何なのかわかりませんが、たぶんこんな時に使うはずです。
多くの人たちが、いつもと違う現象やデータの動きに、違和感を感じ取って数々の発見が生まれました。人類は調和を求め、違和感を感じながら、科学や技術を発展させてきたのです。
さて、その違和感を感じ取るセンスを、モノや現象だけでなく、人に対しても向けられるよう磨くことも重要だと思っています。人の違和感を見分けると、その人の精神状態、機嫌が良いのか悪いのか、心配事に気を取られているのか、はたまたメンタルがやられかかっているのか等がわかります。
上司などは、いつもと違うかどうか実に分かりやすい人種でした。上司という生き物は、部下の前で自分の喜怒哀楽をだらしなく垂れ流します。
それより、同僚、部下、後輩、特に新人には気を遣いました。実はメンタルを病んでいて、取り返しのつかなくなる例を、何度も見聞きしてきました。
しかしもっと、それよりも誰よりも、最も気を遣わなければならない人種が、家にいました。一緒に住んでいました。
妻です。彼女はなかなかの大女優なので、いつもとの違いは非常に分かりにくいのです。
あれ? 今の笑う反応は、少しだけ早くなかったか? いつもならあと0.2秒の間をおいて笑ったはずだ。何か違うことが頭を占めているのか?
おそらく冗談の意味を咀嚼する前に、今のは笑うところだと判断して、反射的に笑ったようだ。笑い方も若干軽かったぞ。
こ、これは、け、警戒警報発令だ!
ウオーン、ウオーン。
冷静を保て。
最近の出来事を脳内検索するんだ。
今日は何の日だ? また何か忘れているのか?
ウオーン、ウオーン、ウオーン。
また何かやったっけか?
何かがバレたか?
い、いや、何もないはずだ。
ウオーン、ウオーン、ウオーン、ウオーン。
怒っているのか? 顔色を読み取れ!
わ、わからん。
ウオーン、ウオーン、ウオーン、ウオーン、ウオーン・・・それではまた。
しんから愛すと言ってくれ
こころから愛しているだと遺憾だ
○月△日
今回は、次にあげる3つの言葉について、違和感を感じるようになったのは英語の影響じゃないだろうかという話を書きます。
「遺憾」
よく政治家が謝罪の言葉として用います。謝罪だけでなく非難する時にも使われます。領土問題地域に他国の政治家が訪問すると、官房長官が極めて遺憾だと言うお約束です。
遺憾という言葉には、後悔の念、残念という意味があり、それが転じて、謝罪や非難したい時に使っているようです。そしてこの言葉を、謝罪の場面で聞くと何だかイラっとする人が多いようです。
「遺憾」という言葉は普段の生活であまり使いません。使うとすれば「遺憾なく発揮する」です。後で残念に思うことなく、後悔に思わないよう、思いっきりという意味で使います。
謝罪のときに「遺憾」と聞いて、イラっとしたり違和感を覚えるたりするのは、客観的すぎて、そこに謝罪の熱量が乏しいと感じているからだと思っています。では、なぜ謝罪の熱量が少ないのでしょうか。
「遺憾」にはもともと謝罪の意味なんてなかったのではないでしょうか。いちおうネット辞書で例文が30ほど出ていました。どれも小説の抜粋でした。それらは著作権が無料のもの、つまり著者死後70年以上経っている文章です。いくつか文脈がわからないものがあったので、取り寄せて前後を読んでみました。
ボクの読解力では、30の例文すべてが、残念か非難の意味のもので、謝罪の意味のものは一つもありませんでした。謝罪の意味は、近年誰かが付け加えて使うようになった可能性が疑われます。
なぜ謝罪の意味として使われるようになったか。これは英語の「sorry」の影響だと思います。「I’m sorry」で「ごめんなさい」も「残念です」も言えます。人の肩にぶつかったら「sorry」と言って謝ります。落ち込んでいる人を慰めときにも「I’m so sorry」などと言います。
英語では、残念と謝罪が同じ言葉で表されるのです。なるほど、残念を言えば謝罪にもなるのか、これは便利だ、と官僚だか政治家が思ったのでしょう。官僚は英語が達者です。昔の政治家の多くも英語が堪能でした。
政府の公式文書として「残念」では軽い感じです。「遺憾」なら重々しいし、これは使える。外交文書として英語訳されることも考慮したでしょう。そういう経緯で残念の「遺憾」が謝罪にも使われるようになったのではないでしょうか。
そんなこんなは、一般市民はわかりません。だから何だかイラっとするのです。
「心から」「心より」
これらは「遺憾」とセットで用いられることが多いようです。「心から遺憾の意を表します」「心より哀悼の意を表します」「ご冥福を心から祈ります」などです。
この「心から」に違和感を抱くのはボクだけでしょうか。なんだかウソっぽくないですか。「心の底から」申し訳ないと思っています、って言われても、他人の心の底なんてぜったい分からないじゃないですか。「深く」とか「切実に」でもいいはずなのに、なぜあえて分かりようのない心の底を言うのでしょう。
表面的じゃないですよ、心から、心の底から思っているんだから。だから許してよね、当然許すよね、許すよね、ね、ね、と言われているようで、逆にその心を疑いそうになります。
これも古い例文を調べてみました。「心から」はいくつか例がありましたが、「心より」はありませんでした。
「心から」の例文には礼儀的な内容、つまり謝罪や遺憾や冥福などを他者に伝える例はありませんでした。「兄さんを心から恨めしく思った」など、単に感情を強くしているさましか書かれていませんでした。昔は、謝罪では使わなくて、感情を強くしているだけの用法しかないのです。どういうことでしょう。
確かめるのは難しいですが、古い例文の「心から」は、多くは「しんから」という読みのつもりで、当時の作者は書いていると感じました。
昔の日本では「心から」を「こころから」とは読まなかったのではないでしょうか。この「しん」は中心の心で、センターであり、ハートではないようにも思えます。芯ですね。
「しんから」のほうが「こころに」なじみむのはボクだけかな。
「心から」や「心より」も、「遺憾」と同じで新しい修辞だと考えました。近代に生まれたのです。ではなぜ生まれたのか。これも英語の影響だと思います。
「sincerely」が怪しいです。これは英語では、特にフォーマルな文章として頻出します。外交文書で頻繁に登場していたはずです。誰かが最初に「心(しん)から」と翻訳したのかもしれません。
そして漢字の読めないエライ政治家がそれを「こころから」と読んでしまった。漢字が読めないエライ政治家は一定数いるという仮定です。
それを聞いた優秀な官僚は、忖度して同じように「こころから」と読んだ。忖度する優秀な官僚は一定数いるという仮定です。
それを聞いた若い新聞記者が、そうも読むのかと思った。モノを知らない若い新聞記者は一定数いるという仮定です。
そして、どんどん「こころから」がポピュラーになっていった。
「から」と「より」は同じ意味なので、後から「心より」も同じく使われるようになったでしょう。こっちはもっと気持ち悪い感触があります。さらに新しいからでしょうか。そう言えば「しんから」はあっても「しんより」って聞かないですね。
「愛している」
英語が侵出して日本語を変化させている例のついでに、超大物「愛している」を相手にします。そんな大それたことをして、ボクの人生は今後大丈夫だろうか。
「I love you」って「愛している」としか訳せません。それ以外の例は知りません。しかし「愛している」って違和感ないでしょうか。何だか「こころの底から」言いにくいのです。
いろいろ調べると、「愛す」「愛する」は日本語として昔からあります。しかし「愛している」という日本語は例文が見つからず、古くに存在していないようです。これも新しい言葉なかもしれません。英語、というか外国語を訳するときに仕方なく誰かが「愛している」としたのではないかと。新しい言葉なので、まだ馴染んでいないのです。
そもそもなんですが「LOVE」という概念自体が日本人にとって、まだ理解できていないのではないでしょうか。「好き」「恋している」「慈しみをもって大切にしたいと感じている」などなど、「LOVE」とはキリスト教の神の愛までを包括している概念です。それを一語でスパッと表す日本語は存在していないのです。言葉が無ければ、実は概念を理解できていないというのがボクの持論なのです。
日本語にもともとない言葉って、いろいろ他の言葉や文化や思想体系との整合性が悪くて、違和感があるのだと思います。要は噛み合わせが悪いのですね。まだまだ異物なのです。歯医者で入れてもらったばかりの詰め物みたいなものです。
さあ違和感から日本の話になった。いい流れだ。次章へ、実に美しい橋渡しとなった。自分で言うのも何だが、栄光の架け橋だ。恥ずかしげもなく言うけど、まるで交響曲のようだ。交響曲が何なのかわかっていないけど。それではまた。
第五章
深い森と日本人と
日本人挨拶論
挨拶せずが正しい礼儀でもある
○月△日
今は、共同オフィスというか自習室のようなスペースを借りて、この記事を書いたり、起業の準備に勤しんでいます。現在まさにその場所にいるという状況です。
共同オフィスなので、他人も同じ部屋に数人おられます。ボクのようなスモールビジネス用途以外に、受験などの勉強にも用途があり、学生風の人から同年齢くらいの人まで様々おられます。
仕切りで分けられていて、お互いが見えないようになっています。トイレに行ったり、お茶を入れに行ったりする時には、その人たちに会うことがあります。最初のうちは、会えば軽く挨拶をしていました。しかしどの人も返答が薄いというか、ほぼ挨拶は無視されるのです。
なるほど、この空間は他人との関わりは無であり、他人は風景として、自分のやるべき事に没頭することが、暗黙のルールなのだなと理解しました。
ただ自分のポリシー的には、挨拶をしないはありません。最小限の会釈、朝ならおはようございますを、返答を要しない程度の小さい声でしようと心がけています。
さて会社員時代も似たような経験がありました。関わりの薄い関係同士だと、挨拶は少ない傾向にありました。大きな本社組織にいると、同じロッカールームでも、何をしているかわからない部署の、知らない人同士では挨拶がありませんでした。一方、地方の工場に行くと、同じ製品を作っている仲間意識があるのか、知らない人でも挨拶は気軽にできていました。
この挨拶するしないの違いは、帰属意識なり仲間意識があるかどうかの違いだと思っていました。
さて、ここで疑問があります。海外での挨拶の体験です。海外旅行、特に欧米へ行くと、赤の他人同士での気軽な挨拶が、珍しいことではありません。知らない者同士、あきらかに外国人同士で、同じ仲間とは言えない者同士でも、挨拶が普通です。
欧米では、帰属意識と挨拶するしないは、全く関係がないようです。エレベータに乗り合わせると、目を見てhello! とかmorning! とか言い合います。ボクもなるべく笑顔で返すようにしています。なかなか気持ち良い体験です。あー海外に来たと思える瞬間です。
マドリードで朝ランをしている時、徹夜で遊んだらしき若者たちから、何度もスペイン語の朝の挨拶をかけられ、びっくりしたことがあります。徹夜で遊ぶような若者が、走っている東洋人に挨拶するのです。
さて一方で、日本ではボクがいた会社での体験と同じく、他人同士の挨拶はほとんどありません。あっても田舎や観光地くらいでしょうか。では日本人は仲間意識が薄くて、欧米は濃いのでしょうか。欧米人は我々日本人をも仲間とみなしているのでしょうか。
しかし日本人は、災害時には利己的な行動は控えて他者のための行動ができます。決して日本人は感情的に冷たく仲間意識が薄いわけではないと思います。どうやら仲間意識の差だけでは説明しづらい感じがします。
挨拶するしないは、仲間や帰属意識などの対人関係論や共同体論ではなく、挨拶という行為自体の重みの違いではないかと考えました。つまり、日本人にとって挨拶は心理的に重くて言いづらい、欧米人にとっての挨拶はカジュアルなもので気軽に言えるものという説です。
そもそも「挨拶」って漢字、意味が分かりません。仏教用語のようですが、それぞれの漢字の「挨」も「拶」も、他のどの漢字とも熟語を作りません。単独でも使いませんし、かなり特殊すぎる漢字で構成されています。ちなみに中国語では挨拶は別の言葉のようです。日本人にとって「挨拶」は、仏教用語でもあり、特殊単語でもあるので、無意識的には、崇高で小難しい宗教的儀式と捉えているのではないでしょうか。
挨拶に宗教的な儀式が含まれているのなら、やたらと親しくない人には気軽に挨拶してはならないでしょう。崇高な儀式なのですから、気軽におこなっては逆に失礼なのです。
一方で欧米での挨拶は気軽なものです。また英語になってしまいますが、挨拶は「greet」です。言語学的に一音で発音できる種類のものです。単純な言葉に思えます。
語源は俄かに分かりませんでしたが、「meet」(会う)に近い雰囲気があります。greetに深遠な意味があるように思えません。単に、会うことと同じです。very casualなのです。いつでもどこでも誰とでも、会える、挨拶できるのです。
日本人が挨拶をあまりしないのは、挨拶を無意識的に崇高な重々しい儀式としていているので、相当近いと感じる人同士でないと、逆に失礼を感じる。
欧米では挨拶には儀式的意義は全くなく、気軽なものとしているので誰にでもできる。
さてさて自分で言うのも何ですが、文化人類学だか社会科学のズブの素人の割に、まあまあの切れ味の考察だと思うのです。ざっくり検索しても、同様の説は出てきません。新説だったりして。腰を据えて調べれば、あるかもしれませんが。
実はこの記事を書く直前に、いつものように挨拶を無視されたところでした。そう言えば会社員時代にもあったよなー、よしそれを書こう、と結論も考えずに書き始めました。
書いているうちに、何らか面白い結論めいたものが浮かべばいいなと思って、「挨拶」を辞書で引いたりしているうちに、思わず、それなりの説が浮かんできて、自分でもびっくりしています。
そしてそして、挨拶について、もっと深く考察して、もっと新しい変なことを思いついてしまいました。それは、それは、、、
また今度なのです。ふふふ。また今度ね。see you! 軽いな。それではまた。
ダッチのワイフの疑問
特別な友人と世界幸福度ランキング
○月△日
20年以上前、友人夫婦とオランダへ訪れた時のことです。友人夫婦は新婚旅行で、我々夫婦が勝手に合流したという形でした。友人が新婚旅行の途中で、オランダに住む別の友人のところへ行くと聞いたので、オレも行きたい行きたい行くぞ行くぞ行く行くとなったのです。
オランダに住む友人というのが、30歳くらい年上のオランダ人女性と結婚していて、当時オランダの離れ小島でホテルを経営していました。そのオランダ人女性というのは、そもそもこの友人のモトカノの母親だったのです。このへん気になる情報が何個かありますが、そこは脇見せずスルーしていただき、要するに旧友3人の家族がオランダで会ったのです。今回は、その後のオランダ側友人夫婦が交わした以下の会話で、記事を書こうと思います。
オランダ人妻「今まで多くの友人が遊びに来たが、今回のあなたは特別リラックスしていた。それはなぜ?」
日本人夫「高校時代の友人だからだ」
妻「なぜ高校時代の友人だとリラックスするのか」
夫「高校時代の友人は特別だからだ」
妻「なぜ高校時代の友人は特別なのか」
夫「わからないがとにかく特別なのだ」
妻「友人は友人のはず。おかしい。友人に『特別』も『特別でない』もないはず」
というような議論になったと聞きました。ニュアンスは分かりませんので無機質な会話にしています。
彼が言う、高校時代の友人は特別だという気持ちは激しく同意します。中学時代、大学時代、バイト仲間、社会人の同期などに比べて高校時代の友人は特別です。
特に我々が中高一貫校にいたからかもしれません。中学時代に仲が良くなる友人は、同じクラスで家が近くて同じ部活とか、人格として仲良くなるより外的要因でたまたま仲良くなった友人です。
中高一貫だと合計6年間一緒にいますから、徐々に考え方とか趣味とかが分かり始めて、内的要因で友人を選ぶようになります。最も多感な時期も重なり、類は友を呼ぶ現象が積み重なって、高二高三あたりで強固な友人関係ができるのです。
その後、大学時代の友人は一過性になりがちです。社会人になるとなおさらです。この頃出会う人も、外的要因、つまり同じ学科、同じサークル、同じ配属先などの外的な偶然性が強くなります。
またそれぞれの個性や人格が確立しつつありますので、自分をさらけ出すことに恥ずかしさを覚えたり、お互い干渉しない態度を取り始めたりするのかもしれません。
大人になって心が開きにくくなるのでしょうか。こうなってしまうのはボクだけでしょうか。
一方でオランダ人ワイフの、友人に『特別』も『特別でない』もないはず、という話は興味深いです。何歳でも、どんな年代で出会っても、押し並べて友人になれるということでしょうか。very frendly なのか、単に雑な精神構造なのか何なのか。
前述しました、男女間の友だち関係の差も、もちろん影響しているでしょう。
さて話は変わって、世界幸福度ランキングというものがあります。日本は56位とのことです。
一方でハーバード大学による人の幸福の研究があります。それによれば、幸福に最も影響を及ぼすのは、温かい人間関係だそうです。
となると日本では温かい人間関係が築けていないということでしょうか。ちなみにオランダは世界幸福度ランキングで5位です。温かい人間関係を築けているのでしょう。
さて、高校時代にしか特別な友人を持てない日本人、それは変だと思うオランダ人。幸福度が低い日本人、幸福度が高いオランダ人。そして温かい人間関係と幸福度です。前の記事で日本において挨拶は儀式と書きました。
カジュアルなはずの挨拶が日本においては儀式的で、人間関係を閉ざしがちなのです。高校を卒業し年齢を重ねるにつれ、裸の自分へアクセスする窓を、徐々に小さくしているようです。社会がそう圧力をかけているのでしょうか。あるいは自ら窓を閉ざしているのでしょうか。
うーん何だか重くて暗い話へ突入してきましたよ。結論を急ごう。
「日本人は深い森の民であったため、人間関係がオープンになりにくい」
さあ、突飛でおかしな新説だ。しかし今日はもう疲れた。今度にします。得意の今度だ。それではまた。
深い森は人をシャイにさせる
出会いは突然だから
○月△日
日本各地へ出向き、車窓などを眺めると、日本は山だらけだということに気づかされます。Google Earthで俯瞰すると日本の大部分が濃い緑色です。つまりその山々はほとんどが鬱蒼とした木々に埋め尽くされています。
裸状態の山は、高い山か人工的に削った以外では見たことがありません。日本が温暖で雨に恵まれているので、あれだけの濃い木々を維持できているのでしょう。
一方で平野部は、現在は市街地か宅地、田畑などの耕地となっていますが、昔はどんな風景だったのでしょう。昔とは、弥生時代の農業が始まる前の縄文時代やその前の旧石器時代ほどの大昔です。
おそらく平野部も鬱蒼とした木々に埋め尽くされ、深い森のような状態だったのではないでしょうか。古墳を見れば、こんもりとした木々に覆われてて地肌も見えません。人が介入せず放置して自然に任せておけば、古墳のように木々に埋め尽くされるのです。特に西日本は常緑広葉樹に覆われ、冬でも鬱蒼としていたはずです。
その平野部の木々を、弥生時代以降の日本人は農業のために少しずつ耕地へと変えていきました。奈良時代の墾田永年私財法で、一気に平野部の耕地化が進みました。森林を開墾して田に変えてやれば、その土地が代々自分の所有物になるのだから必死になります。うひょうひょ言いながら、あちこちの木を抜きまくったでしょう。
時代が進んで、権力者による租税の重さのため、もっと田を広げようと、平らな土地にある木々は、文字通り根こそぎ無くなっていったはずです。そのようにして日本の平野部の森は無くなってしまったと考えられます。
多くの日本人が平野部だけで暮らすようになったのはは、ここ二千年くらいでしょうか。一方で原始日本人は日本列島に四万年前(十万年以上という説もあり)から住んでいることがわかっています。つまり日本人は、ほとんどの時間を深い森で暮らしてきた森の民だったと言えます。
森の民としてのDNAが数万年、数千世代に渡って育まれてきたのです。稲作をしていたのは最近の日本人の姿なのです。深い森の中で猪や鹿を狩り、クリやドングリを拾って食べていたのです。森林狩猟採集民族だったのです。
さて、深い森に住んでいると、どんな精神構造となるのでしょうか。タイトルに書いてしまっていますが、人に対してまずは警戒する、つまりシャイになると考えました。
深い森では、見通しが良くありません。また雨風があると細かな音がわからなくなります。つまり、他人が近づいてくることを事前に察知できないことがあると思われます。
知らない人と出会う時は、かなり近づいてしまった状態、時にはお互い攻撃できる範囲に、相手が突然ぬっと現れてしまうのです。相手が悪意を持って近づいていたとしたら、即座に戦う必要があります。油断していたら殺されるでしょう。
挨拶などは二の次です。まずは一定の距離を空けた方が無難です。そんな戦略を取った者が生き残りやすいのです。常に緊張してビクビクすることにコストをかけたほうが有利だったのです。
さて一方、深い森が育たない地域や、草原や砂漠に住んでいる人類はどうでしょうか。他者との出会いは突然ではありません。
見通しがいいので人と遭遇するときは、遠くにあらかじめ見えるはずです。まずは敵か、悪意があるか、見極める時間が十分にあります。お互い、自分が属している証拠となるものを示したり、言葉があれば声をかけるなどをするでしょう。
そうです。まずは挨拶をするはずです。そういう戦略を採用したでしょう。対人関係に緊張するコストは無駄だったはずです。緊張は野生動物にだけ向けられたでしょう。
人間同士が出会うとき、深い森の民は緊張しながら距離を取る。草原の民は緊張はせずに挨拶をする。
これを何万年、何千世代も続けてきたのです。対人関係で心を開きやすくなる精神構造を持てたのは、もちろん草原の民なのです。森林の民は人と対する時にビクビクしてしまい、草原の民からすればシャイに映ることでしょう。
さて深い森の民は、突然の出会いに対して、すぐに動けるよう日頃から準備も必要です。自分の持ち物がどこにあるか気を配っておかないと、急な戦いや逃避に備えられません。几帳面さが発達するのではないでしょうか。音や臭いに敏感になって神経質さも育ちます。臭いに敏感になると味覚も発達します。
一方で草原は、森よりも寒暖の差が激しく、食料も乏しいので、そこで育つと基礎的な生命力が強くなるはずです。几帳面さや感性よりも基礎生命力が必要になるのです。何となくですが、我々日本人と、他の民族の違いが現れている気がするのです。
あと日本人は声が小さいと言われているのも、警戒心の現れと考えられます。敵が近くにいるかもしれない状況では、声は小さくなるでしょう。
小さい声でも伝わるようにしたのか、日本語は明瞭で判別しやすい単母音5個で主に構成されています。聞き取りにくい連続した子音などもありません。
一方で、英語は母音が26、なんと中国語は声調も含めると36もあるとのことです。大きく発声しないと、話す側も区別して発音できないそうです。草原で遠くの人との会話には、それが適しているのです。なので彼らは店内などで騒がしいのです。
深い森の民は、日本だけではないようです。中国南部からマレー半島も同様です。照葉樹林文化圏という捉え方もあるようです。このあたりの国民性も、シャイなイメージがあります。几帳面さや感性などは、何とも言えませんが。
ちなみに日本の歌謡曲で「出会いは突然」で検索すると、70曲ほどの歌詞が見つかりました。少女漫画の95%は、第一話で突然の出会いがあります。これは適当です。とにかく出会いの突然さに、現代日本人も心を揺り動かされるのです。
草原や砂漠なんかで育った、粗雑な毛唐どもにはわからないでしょう。毛唐のみなさま、ごめんなさい。それではまた。
サイエンス誌に載った研究と
一流脳科学者をぶった斬る
その研究というのが以下です。いちおう原典を見ました(読んでないです。ナナメに見ただけ)。バージニア大学の2014年発表の研究です。
「中国における米と小麦農業による大規模な心理的差異研究」(拙訳)です。
・米と小麦の生産地域によって、
それぞれの出身者の心理的傾向が違う
・米生産(稲作)地域では、相互依存的で
全体の和を重視する
・小麦生産地域では、個人主義的となり
離婚率も高め
・この違いは、米のほうが手間がかかり
農家同士の連携が必要となるから
要するに、米生産地域は農家の連携が必要で和を重んじる。小麦地域はそうでもない、ということです。
確かに米の栽培には多量の水を要求するため、用水路の確保が必須です。土木作業での農家同士の協力が必要となります。
また、水利、つまり水を回してもらう権利の確保も極めて重要です。地域社会で和を乱すと、水を抜かれたり、水を堰き止められてしまいかねないのです。文字通り干上がってしまうのです。
なので「和」は極めて重要なのです。小麦はある程度雨で育つので、大規模な用水路は不要です。なので連携も必要なく、個人主義が強くなるというものです。この研究は、つけ入る隙の無い見事な研究に思えます。実に面白い。
ちなみに、水利についての「和を乱すと、水を抜かれたり水を堰き止められてしまいかねない」という記述はボクの独自考察です。土木作業の協力という圧力だけで、全体の和を重視するようになるという考察では不十分でしょう。←ココ自慢
さて一方で、セロトニンという脳内物質を出す能力が、人種によって違うという研究があるそうです。これは又聞き(又読み)で、原典も何も読んでません。
それによると、セロトニンの出やすい順に、アフリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、日本人となっているそうです。日本人はセロトニンが最も出にくいということです。
セロトニンは以前の記事でも書きましたように、心を落ち着かせる脳内物質です。なので日本人は心を落ち着かせるのが下手な人種なのです。不安いっぱい、ビクビクオドオドな民族だそうです。なぜそうなったのか、ボクの説はさて置き、一流科学者に聞いてみましょう。
脳科学で有名な中野信子先生の登場です。先生によると、日本は自然災害が非常に多いからだという考察です。自然災害に対して不安がって、何らかの行動ができる不安遺伝子の方が生き残りやすいという進化論的解釈ですね。不安遺伝子とはセロトニンが出にくい遺伝子のことです。
うーん。これは違和感があります。自然災害に対して不安がって何らかの備えをする、あるいは自然災害時に不安がる個性ほど、上手く生き延びるということでしょうか。抽象的には分かったような気になるのですが、具体的に想像することができません。
中野信子先生の本では最短二十世代ほどで遺伝子は変化するとのことでした。なので400年ほどの江戸時代だけでも変化できるそうです。最短の条件が二十世代連続で、しかも日本全国津々浦々で続くようなことがあるでしょうか。
マウスか、まさかシャーレの中での微生物の遺伝子変化速度を、人間に当てはめて計算してはいないでしょうか。そんな単純なものか、ボクには甚だ疑問です。瞬間速度が400年続くという話ですよ。たった400年の世代で、日本中の日本人の、不安がらない”何とかなるさ遺伝子”が淘汰され少なくなるなんて。にわかに信じられません。
遺伝子の違いが出るほどだったら、数千年くらいのスパンではないはずで、数万年を要するのではないでしょうか。つまり桁違いに長かった狩猟採集時代から、淘汰圧力があって不安遺伝子が残ったと考えられます。
自然災害不安ビクビク論を狩猟採集の時代にまで当てはめて考えてみましょう。
日本の場合の自然災害は台風と地震ですが、狩猟採集生活への影響ってどんなものでしょうか。あまりピンときません。住居は洞穴ですし、流されてしまう資材、資産など多くありません。
そもそも日本は災害が多いと言っても、日本列島全体での話です。ここが騙されやすいポイントですね。日本にいる人間一人ひとりにとっては、たかが年一回程度の台風に、大地震は数十年に一回程度でしょう。不安遺伝子が有利になるでしょうか。それこそ杞憂です。
うし。きれいに斬ってやった。
さてもちろん、ここで前の記事に書いた、深い森の民はシャイになるという理論を持ってきます。
これは、見通しの悪い森林で生活すると他者との出会いは突然になるので、警戒心のあるほうが生き残るというものです。警戒心の薄かった者は殺されやすかったでしょう。このほうが心を落ち着かせるセロトニンが出にくい個体が生き残ることを説明できます。
深い森林、いわゆる照葉樹林地域は日本とアジア南部です。セロトニンが出にくい地域が含まれています。
そしてそれは稲作地域、米生産地域でもあります。再びここでサイエンス誌に載ったバージニア大学の研究の登場です。さあ、返す刀で斬ってやりましょう。
確かに米生産地域での人間の、相互依存度が高いことは、生産手段に依るところが大きいのは否定しません。ただ、その素養がもともとあったとも考えられるのではないでしょうか。照葉樹林が臆病で不安がる人種、和を重んじる性質を育んだと。
そして照葉樹林地域でしか、米は生産できないのです。米が作れるほどの地域って、温暖で日照と降水量が十分あるということです。米の品種改良が進んでいなかった大昔はなおさらです。
そんな土地はもともとが照葉樹林、深い森でした。照葉樹林地域と米生産地域はピッタリ重なっているのです。
一方で、もともと草原となっている地域が小麦生産地域なのです。小麦しかできない地域は、深い森ではなかったのです。
因果関係はこうなっているのではないでしょうか。深い森すなわち照葉樹林が原因、米が生産できることと、臆病で不安・和を重視する性質が育まれることとが結果なのです。
一方で、見通しの良い草原地域が原因、小麦しか作れないことと、不安を感じにくい個人主義が育まれることとが、結果なのです。
バージニア大学の研究は、ボクからすれば、アイスクリームの売れ行きが良くなると、サメによる被害が増える、と言っているのと同じです。どちらも結果です。それらの原因は、暑くなったから、です。
暑くなったから、アイスクリームを食べ、海へ泳ぎに出かけてサメに襲われるのです。
サイエンス誌に載ったかどうか知らんが、粗雑な毛唐め、まだまだじゃな。
さて、そんな七面倒な米など作らずに、小麦だけを作っていたら良いじゃんか、と思っているアナタ、米は、栄養的にも収穫量的も、小麦よりずっと優秀なのですぞ。小麦を作っている地域は、米が作れないから仕方なく小麦にしているのですぞ。本当は面倒でも米を作りたいのですぞ。米の方が単位面積あたりに支えられる人口は大きいのですぞ。そして小麦から作るパンは必須アミノ酸が何種類か足りてないのですぞ。一方、お米は全種類が揃っているのですぞ。だから、お米だけ食べていても病気にならないけど、パンだけだと病気になるのですぞ。はあはあ。家がもともと農家で、米を作っていたので興奮してしまいました。
だからご飯は飽きずに食べられるのかもしれません。パンなんて途中で飽きて、沢山は食べられないですよね。
もひとつちなみに、そのパンに足りない必須アミノ酸が含まれている飲み物があり、それはワインだそうです。パンにはワインです。キリストさまが最後の晩餐でおっしゃってましたから間違いないです。
確かにパンにワインは合う。食べ物の組み合わせで合う合わないって、必要な栄養素を補完し合う関係にあるのではないでしょうか。誰か研究してください。そして一緒にサイエンス誌に投稿しましょう。それではまた。
労働を通じて悟りを開こう
生産性など邪念だ
○月△日
日本の労働生産性が低いと言われてから久しいです。この手の国際比較は難しいです。そもそも円安で物価が低いから、時間生産性は低く算出されます。
日本のサービスが良すぎるというのも、生産性を低くしているでしょう。日本の大部分では、夕方までに発送した荷物は、翌日には確実に届きます。これが3日後に届いたときと比べると、労働生産性は翌日に届く方が低いと計算されてしまいます。
両者の産み出した付加価値(動いたお金)は同じですが、早く確実に届ける方は同じ付加価値を得るために、システムや人件費などに大きなコストをかけるからです。
こういった例は、きめ細やかなサービスに付き物です。コンビニも毎日24h開けずに、23時に閉めて7時に開けて、定休日を設ければ、人件費をかけずにすみます。売り上げが多少落ちても、人件費はもっと少なくできるので、労働生産性は高くなります。シフトが楽になり、バイト募集もしやすくなります。そうはいかないのが日本のコンビニ業界の実情でしょう。セブンイレブンは実状と看板が矛盾しています。
日本製品の品質が良すぎるのも同じです。不良率を0.1%から0.01%に落とすだけで莫大なコストをかけたりします。不良率に表れない品質にもコストをかけます。例えば海外家電を間近で見ると色ムラだらけで日本製と大違いです。耐久性や使い勝手や安全性などの配慮が全然違います。
そうして苦労して得られた信頼という付加価値は、お金に換算できないので労働生産性は低くなっててしまいます。
また日本製は過剰に期待されています。海外で適当に作られた製品が、ネジが外れてても、仕方がないか、メイドイン〇〇だしって許されても、日本製なら許されません。
日本人なら、すぐネジを持って来いって電話してきます。そして、それに応じたりするのです。それができる体制を、コストをかけて整えているのです。
日本の労働生産性が低いのは、目に見えない付加価値、つまりお金に換算できないサービスや品質によるものだ、という視点、読む人によっては、おーなるほどと唸らせることができそうです。
しかし、これでも読む人によっては、そんなもの、100年前からの常識じゃい、ってなるでしょうね。なのでこの記事ではもっとクセ球を投げるのです。
さて昔から「頑張る」という言葉が嫌いでした。全力を出すとか最善を尽くすという意味以外に、我慢する、理不尽なことがあっても耐える、という意味が含まれているような気がするからです。我慢なんかせずに結果は出すから、ほっといてくれと言いたいです。
不本意ながら遅くまで仕事をしていると、「お。今日は頑張ってるね」とよく言われました。いつも早く帰るお前が、遅くまで仕事を「頑張っていて」感心だという意味なんでしょうか。こっちは、いろいろミスが重なり、遅くなっているのです。つまり準備を怠って「頑張らなかったから」遅くなったのです。普段は「頑張って」早く帰っているのです。
常に遅くまで残業している人は「あいつは頑張っている」となり、仕事を効率的にこなして早く帰る人は「頑張っていない」と評価されます。
そもそも同調圧力に負けず、残業せずさっさと帰ることのできる人は、言いたいこともズバズバ言ったりします。そんな人ほど、可愛くない奴と思われてしまいます。
労働生産性が高いと評価は下がる傾向にあるのです。なので労働生産性は低い方向へ圧力がかかっているのです。
遅くまで仕事をすることが美徳、だから長時間労働になりがちになり労働生産性が落ちる、という論理展開なら、まだありきたりです。話に深みがありませんね。
それなら、仕事は「修行」なのだ、というのはどうでしょう。日本人は仕事を通じて「修行」しようとしているのです。人生の何かを仕事から学んで、自分を高め、果てには悟りを得ようという意識があると考えました。
理不尽を我慢して耐えて「頑張る」って修行そのものじゃないですか。日本人は悟りたがっているのです。みんなー、悟りたいかー。いえー。
修行なので王道はありません。楽をしてできません。時間をたっぷりかけないと、我慢に我慢を重ねないと道を開くことはできません。修行に効率などもってのほかです。
一方で海外の奴らにとって労働は贖罪です。罪です。本来なら、やらなくてよいものという概念が根底にあります。サービスと奴隷は同じ語源の言葉です。働いてはいけない日があったりします。働くことはネガティブなのです。
なのでなるべく手間を惜しみ、労働生産性を引き上げます。生産性のために職場で昼寝を奨励することも厭いません。"神聖な"職場で寝るなんて。
無意味と思われる写経のような業務だって、修行と思えば何だってできます。そもそも無意味かどうか、生産性があるかないかなんて邪念であり、考えてはならないのです。
自分自身が「無」の境地になるのです。目に見えない付加価値とは、労働を通じて悟りに近づくことなのです。
修行といえば、だいたい山奥です。深い森の奥です。比叡山で千日間休まずに走り回っているのが千日回峰行です。"深い森"で"走る"。原始に戻っているのです。常々、ボクが言いたいことに繋がっています。このへん、あきらかなコジツケです。それでいいのだ。それこそが悟りから得られる真実だ。言い切った者勝ちだ。それではまた。
日本語と英語の違いから、罪と正義について考える
○月△日
アフリカ・ケニアを旅行した時のこと、現地のガイド同士の会話を聞いていると、現地語の中にところどころ英語で three hundreds や one thousand などが聞こえました。 大きな数は英語で代用していたのです。どうやらかれらの言葉には百やら千という言葉が無いようです。おそらく「たくさん」という言葉はあるのでしょうけど。
言語には思考体系、世界観や宗教観が現れていると考えています。逆に言うと言葉が存在しなければ、その概念もありません。
例えば、現在はパワハラという言葉があります。その言葉が存在しなかった20年以上前だと、その概念が理解できないはずです。パワハラ=権力者による人格への侵害、と無理矢理に言葉を紡いでも、当時は皆が同じ概念を共有することは難しかったはずです。
もちろんパワハラまがいの行動が悪いことだという社会的な共通認識もありませんでした。言葉があって初めて概念が生まれ、その評価も生まれるのです。
「罪」という言葉を英語に翻訳することがありました。いったいエンジニアだったボクが、なぜ罪を翻訳しようとしたの、すっかり忘れましたが。とにかく、その時は苦労しました。
罪を辞書で引くと、sin、crime、guilt、blame、offence、fault などがあります。
それぞれ、sin:宗教的な罪、crime:罪そのもの、guilt:罪である状態、blame:非難のニュアンスがある罪、offence:法的な罪、fault:非意図的な過失に近い罪、と理解しました。
知りませんが、フランス語やドイツ語などの言語も似たようなものでしょう。欧米人は罪について、いろいろ細かく感じることがあるようです。
一方で日本語で罪:ツミは他に、タガ、アヤマチ、しか見当たりません。これらのいわゆる大和言葉、つまり訓読みの言葉だけだと、宗教か法的かの区別は不可能です。
漢字も入れた熟語にして、ようやく罪悪、犯罪、過失など、違ったニュアンスを持たせることができそうです。ただし、宗教的な罪を明瞭に表す言葉は見当たりません。罪悪にだけ宗教的雰囲気はありますが、無宗教的にも使用可能です。
例外的に、原罪という言葉が存在しますが、これはそもそも翻訳語であるので日本語とは言えないでしょう。
宗教的な罪を明瞭に表す言葉が無いということはすなわち、日本人は宗教的な罪という概念を理解できていないということになります。理解していないとまでは言えませんが、誰もがほぼ同じ概念として共通認識的に理解できている状態ではなさそうです。
あるいは日本人の宗教観には「罪」という概念が無いのかもしれません。おっとここは沼がありそうなので深くは掘るまい。
それはともかく、欧米の映画を観ていると、背景にキリスト教的、あるいは一神教的な罪に対する恐れなのか、そんな影響があるなあという映画がたくさんあります。たくさんと言うわりに題名がにわかに出てこないな。
さて、特にアメリカやら中南米において、何かひどい災害や大事件や、政治的にまずいことが起こるたびに、暴動や略奪が起こっている印象があります。これは、こんなひどいことが起こっているなら、神様がいない証拠だ、あるいは神様は不在なのだ、今なら見ていないはずだ、だから何をしても罪に問われないはずだ、と無意識的に思って暴動や略奪をしているのではないでしょうか。
日本においては宗教的な罪への恐れ、つまり神から見られている恐れが無い代わりに、他人の目を常に気にしています。なので火事場泥棒的な略奪などをしないのは、他人から見て恥ずかしくないかどうか気にしている結果です。
日本人は行儀が良い、落ち着いていると賞賛されますが、単に後ろ指をさされることだけを気にしているのです。いるかどうかわからない神の目など気にしないのです。
日本人が他人との関係を気にしている証拠が、日本語の中にあります。一人称の多さです。相対する人物との関係で、自分を表す言葉を多様に変化させます。私、僕、俺、我、ワタクシ、ウチ、ワシ、小生、自分、当方、手前、吾輩、拙者、朕など、まだまだあるはずです。すべて、相手にどう思われるか気にして使用します。英語は、「 I 」アイしかないでしょう。朕て。
一方で、宗教も他人の目も抑止として機能しない社会においては、法律だけが罪へのブレーキになるでしょう。法律、つまり国の監視を強めないと制御できなくなります。宗教もなく、他人の目を気にしない国民性、国による監視が強い、そんな国って、、、
さて、罪のついでに、正義や正しさについて英語を調べると、goodness、fairness、justice、right、moral、virtue、correctness、legal、proper、honest、truthful、straightなどたくさんあります。大和言葉だと、タダシイ、ヨイくらいです。漢字の助けを借りても、正義、公正、公平、正当などかな。欧米人は、正義に懸命なのです。正義に懸命にならないと暴動は際限がなくなるのでしょう。
罰となると英語は、punishment、penaltyくらいです。もっと増やさないと暴動は収まらないのじゃないかな。日本語には、バチ、トガ、シオキ、ムクイ、コラシメ、タタリ、ノロイなど多数です。日本人は祟り、呪いが怖くて、簡単に悪いことができないのです。祟りと呪いは、ちょっと無理矢理ですかね。
この辺にしておきます。ど素人が言語と宗教に切り込んでいった無謀な回でした。いつものことです。そもそもプロの目など気にしていませんでした。祟りも呪いもプロも気にしないのだ。それではまた。
サッカーが強いか、野球が強いか 違いは宗教だ
とかまた大上段だ
○月△日
大相撲を枡席で観戦したことがあります。大阪府立体育館、春場所でした。若貴フィーバーの頃でしたね。枡席とは2X2の4座布団分の正方形の席で、大の大人が4人座るには非常に窮屈な席です。料金は当時で64,000円、ひとり16,000円の記憶ですが、今は少し安くなっています。強気の時代だったのかな。
お弁当や焼き鳥などのおつまみ、お菓子、お酒、タオルや湯呑みなどのお土産、いろいろ付いていて豪勢でした。追加のお酒の注文もでき、お茶子さんが席まで運んでくれました。春場所とは言え、3月でまだ寒いからコートなども嵩張って、窮屈この上なかったですね。
その時思ったのは、大相撲観戦というのは、スポーツ観戦というより「興行の見物(けんぶつ)」だということです。なぜそう思ったかと言うと「間(ま)」の長さです。
相撲には長い「間」、各取組みに4分くらいのインターバルがあります。前の取り組みが決着すると、呼び出しが次の力士名を独特な調子で告げます。行事も力士名をもっと独特な調子で宣言します。力士たちは土俵に上ると、柏手を打ったり、パンパンとお腹を叩いたり、シコを踏んだり、パンパンとお腹を叩いたり、力水を飲んだり、パンパンとお腹を叩いたり、塩を撒いたり、パンパンとお腹を叩いたり、いろいろあって、ようやく中央で対戦相手と睨み合って、突進の構えを見せたかと思うと、構えをやめて立ち上がり、パンパンとお腹を叩いたりして、何事もなく引き下がっていきます。
そんなこんなを3回か4回繰り返し、50回くらいのパンパンがあって、ようやく立ち合い、試合開始なのです。あらゆるスポーツの中で「間」が長すぎるのです。お腹を叩きすぎなのです。他にあんな思わせぶりな競技があるでしょうか。あんなにお腹を叩く競技もあるでしょうか。
しかし直接、ナマで観戦してみて、その「間」の意味がわかりました。観ている客は、そんな長い「間」を、長くゆったり優雅に楽しむのです。
その「間」で、客は飲んだり食べたりしながら、直前の取組の話をしたり、次の力士の話をしたり、もらったお土産を確かめたり、知っている親方や白鷺や芸能人を見つけて興じたり、晩ご飯はどこに行くか話したり、パンパンとお腹を叩いたり、そんな「間」を楽しむのです。客はお腹をパンパン叩いたりしません。
あれは相撲という見世物、興行の見物であり、花見や芝居とかと同じような風情で、ゆっくり楽しむものなのです。そのための「間」なのです。いろいろな儀式や作法があって、いちおう神事の体裁がありますが、その神事を見物しているという見方もあります。祭りを見物しているのと同じです。
そこに真剣勝負などなくてもいいのです。二の次でしょう。昔は八百長も楽しみのひとつでした。あー今の取り組みは、前場所の借りを返したんだなあって、邪推するのも楽しいものですよ。スポーツなんかじゃなくて興行ですから。
現代の他のスポーツの価値観を無理に当てはめず、鷹揚に清濁あわせ飲んでいれば良かったのに。裏でお金が動くところに、嫌悪感を感じる人たちが多いのでしょうね。
さて相撲を観てきた同じ時期に、発足したばかりのJリーグも観に行きました。ガンバ大阪対横浜フリューゲルスでした。フリューゲルスには前園選手がいて、ガンバは釜本監督だった頃です。ゾノ対カマは3−1でゾノの勝ちでした。カマて。
実はすべての得点のシーンで、毎回トイレに行っていて、全部を見逃していました。毎回トイレ中に歓声が聞こえてきては、え、え、えーっ、なんなん、どっちー?てなってました。
何度もトイレに行った原因は、観戦中にお酒を飲んでいたからです。頻尿系サラリーマンだったボクは、寒かったので余計にトイレが近くなっていました。その日は残念な記憶しかないです。Jリーグが始まって、Jリーグなるものを「見物」に行ったのが間違いでした。
サッカーは相撲のように、見世物の見物気分で観戦するものじゃなさそうです。あれはどちらかのチームをしっかり応援をして、自分も入り込んで、サポーターとして試合に参加するものなのでしょう。
さて野球観戦はどうでしょう。「間」に関しては、サッカーより相撲に近いものがあります。ワンプレーが途切れたら、投手が投げるまでの「間」が必ずあります。攻守切り替え時間もあって、その間にトイレに行くことだって可能です。何だったら、応援チームの守備の時間にタコ焼きを買いに行くこともできます。野球は参加型観戦というより、相撲の見物型観戦に近いと思います。
さて、この見物の「間」で出来ることに、「分析」があります。さっきのプレーの分析、そして次の作戦の分析、次に投げる球の分析、いろいろできます。野球って、これが醍醐味だと思うのです。
追い込まれた時の打者心理とか、点差を考えての作戦とか、ベンチの代打要員とか、次の打者の調子と投手との相性とか、個人タイトルがかかっているとか、今日の審判の判定の厳しさとか、前日の試合の死球の因縁とか、白すぎる監督の歯とか、細かい状況が複雑すぎて、考えることは山のようにあります。
あと打率やら防御率やら本塁打数やら盗塁阻止率やら得点圏打率やらOPSやらQSやらBTSやらK/BBやらEqAやらBABIPやら、背後にある複雑な数字が笑うほどたくさんあります。これらは、ほんのごくごく一部ですが、何か違うものが混ざっているような気がします。
それをあーだこーだと考えるのが楽しいのです。そのための時間が与えられているのです。特にアメリカの野球は、ほとんど科学の一分野と言えるほどに数学的な考察が進んでいて驚くほどです。
アメリカンフットボールも、「間」の多いスポーツです。局面々々で作戦が立てられます。選手交代も目まぐるしいほどです。ワンプレーごとにフィールド内で集結して、作戦会議をするスポーツって他にあるでしょうか。アメフトも相当複雑な競技のようで、野球に匹敵するくらい分析が盛んだと思われます。
野球とアメフトには「間」があり、分析を必要とし、考えなければならない。一方でサッカーは、「間」がなく、ほとんど「流れ」だけで、そんなに深くは考えていられません。
細かい戦術などはあるようですが、状況の複雑さや数字的な考察の幅は、野球に比べるとほとんどありません。サッカーは考えるより、感じるスポーツなのではないかと考えました。観戦スタイルとして、野球は考える、サッカーは感じることで楽しめるのだと。
さて世界を見渡すと、サッカーが強くて、野球が流行っている国はほとんどありません。野球が強くて、サッカーが流行っている国も少ないです。これはなぜなのでしょう。
サッカーが強いのは、ヨーロッパと南米です。フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、ブラジル、アルゼンチン。それらの共通点はカトリックです。とくに南米大陸はほとんどカトリックです。これらの国では、野球は流行っていません。そして一方で、野球のアメリカはプロテスタントです。この違いに目を付けました。
しかし、野球がまったく流行っていないイギリスはプロテスタントです。ですがイギリスでサッカーが生まれたので例外とできそうです。そもそもイギリス人がアメリカ発祥のスポーツを今さら好んでやるはずがありません。
オレたちにはフットボールとラグビーがある、野球なんて田舎者のやるスポーツだ、そもそもオレたちが考えたクリケットを、勝手に変な感じにしやがってムカツクーと思っているでしょう。
ドイツはプロテスタントとカトリックが半々のようです。ただブンデスリーガの上位チームの地域、つまりサッカーが強い地域はカトリックが優勢とのことです。
野球の強いドミニカ、キューバあたりはカトリックです。しかし、この国々はアメリカに近く、地理的影響が考えられます。すぐそこの国で一攫千金のスポーツがありますから、サッカーをしている場合ではありません。
カトリックのメキシコはサッカーをしながらも、アメリカと隣なので野球にも熱を入れています。
オーストラリアはイギリスが宗主国でプロテスタントですが、アメリカに対する変なコンプレックスが無いので、野球熱も高いようです。
やはりざっくりと、カトリックがサッカー、プロテスタントは野球と言えそうです。
さてサッカーは「感じる」、野球は「考える」と述べました。ではカトリックは「感じる」、プロテスタントは「考える」という分け方ができるでしょうか。
なんと、どうやらできるようです。より儀式や衣装や建物を荘厳にするのがカトリックです。宗教的権威を高めて畏怖させ、感じさせます。プロテスタントはその辺りにはお金をかけずに質素です。その代わり、聖書を読みます。聖書を読んで、説教をしてあれこれ考えさせます。プロテスタントは、より理屈っぽくなるのです。
ちなみに考えさせるプロテスタントと、同じように考えさせる宗教に、ユダヤ教があります。ユダヤ教ではタルムードという知恵の書物を、子どもに散々読み聞かせて、考えさせるのだそうです。
ユダヤ人と、プロテスタントのイギリス人、アメリカ人、ドイツ人、彼ら彼女らは考えることが得意なのか、ノーベル賞が多い印象です。そう言えばユダヤ人国家のイスラエルは中東にしては野球が盛んなようです。
カトリックとサッカーの関係を論じた記事はいろいろあります。しかし野球をもちだしてきて、プロテスタントとの関係についてまで論じた記事は、日本語では見当たりませんでした。英語はあるかもです。あるだろうな。がんばって英文を読んで、発見してしまったら悲しいだけですから、あえて探しもしませんが。
さて翻って日本です。相撲に近い「間」のある野球が流行したのは、どちらかというと分析が好きな面があるからでしょう。戦後アメリカに統治されたからという見方もあるでしょうが、野球は戦前から流行っていました。
サッカーについては、野球との比較は難しいですが、観客動員数や選手の年棒から考えると、今でも野球ほど流行しているとは言えません。
各種国際大会の戦績を見ても、あきらかに日本は野球の強い国だと言えます。
ということは、日本人の宗教は「考える」宗教が主流で、感じるものではないということでしょうか。さあどうでしょう。そもそも日本人の宗教って何でしょうか。
日本人の宗教というテーマは深すぎて、ちょっと手に負えません。
ただ宗教ぽく表現するなら、日本人って「順番教」信者じゃないでしょうか。順番があるものがとても好きなのです。野球も相撲も順番だらけなので大好きなのです。
野球には多くの順番があります。秩序があります。攻守交代が順番にあります。打つ機会が順番に回って来ます。まずは一塁、次は二塁を狙います。前のランナーを追い抜かしてはいけません。7回からはJFKがFJKの順番で出てきます。知りませんか。権藤、権藤、雨、権藤。もっと知らないでしょう。
相撲も、とても順序よくしています。土俵入りでは、お相撲さんが東から西から順番に土俵の回りをぐるぐるぐるぐる練り歩きます。その順番は番付表で厳然と決まっています。呼び出し、拍子木、懸賞、力水、塩、四股、柏手、蹲踞、八卦良い、残った、残った残った、もろ差し、巻き返し、土俵際、歓声、悲鳴、軍配、溜息、拍手、場内アナウンス、下手出し投げ、座布団投げ、弓取り式、ヒョーショージョー、ありとあらゆるものが順番通りに粛々と進みます。
日本人は順番が大好きで大好きで、大勢が並んでいる列を見ると、何の列か分からなくても、すぐ順序よく並び始めます。
一方でサッカーには順番なんてありません。オレがオレがです。オレがオレがオレがフリーキックを蹴るのです。無回転シュートが無秩序に揺れます。先輩にタメ口です。ギラギラの腕時計を両手両足にはめます。もうぐちゃぐちゃです。乱雑さ大です。
順序良くすることと、乱雑さ大なこと。
さあ、このへん、次章への無理矢理な導入だ。流れが美しくない。次は最終章なのに、ハリボテの架け橋だ。取って付けたような話を、取って付けている。あからさまな伏線も、しれっと張っている。いいのか。わからん。それではまた。
第六章 増大するエントロピー
専と博の神隠し
○月△日
さて昨今のテレビはクイズ番組だらけです。そのクイズ番組でたまに気になることがあります。それは漢字の書き順の正誤についてアレコレ言ったり、その書き順自体をクイズ問題にすることがあったりする時です。
ボクの考えは、漢字の書き順に正しいも間違いも無い、書き順なんてどうでもいい、むしろ書き順を強要することは悪影響があるというものです。
さて、「上」という漢字の書き順って、みなさんはどう習ったでしょう。ボクの世代は、横→縦→横です。どうやらこの書き順って今は、縦→横→横らしいのです。そしてボクの世代より以前では、縦→横→横だったとのことです。つまり「正しい」書き順って、変遷があって、ゆらいでいるのです。
誰が決めているのでしょう。聞くところによると習字で書きやすい順にしているだとか。今さら、縦→横→横のほうが書きにくいのですが。というか筆運びの距離は横→縦→横のほうが短いですし、動きも美しいと思います。
それはともかく、もうひとつ書き順で重要視されているのは、漢字の成り立ちだそうです。
「右」の書き順は、上から斜めにはらうのが一画目、次に横棒です。一方で「左」の書き順は、横棒が一画目、斜めのはらいが二画目です。左右は最初の書き順が逆なのです。これは漢字の成り立ちで決まっているそうです。詳しく文章化するのは面倒なので省略しますが、とにかく象形文字の段階までさかのぼって、それを元に書き順が決まっているのだそうな。ここでは書きやすさは関係なさそうです。
ちなみにそれぞれの一画目は、二画目より長さが短いのだそうです。これも成り立ちで決まっているのです。右の斜め線と左の横棒は短いのです。なので字の形として、右は横長、左は縦長になります。そのように書くと、この人、わかってるーってなります。
書き順は漢字の成り立ちで決まるというなら、文句がありますぞい。「博」の点だ。博、薄、簿などの右上の点は、書き順で言えば最後です。
しかしこの部分の漢字の成り立ちを調べると、もともと甫という漢字です。浦、圃と同系列です。
ならば、博などは下の寸を書く前に上の甫を完成させるべきでしょう。点は最後じゃありません。成り立ちをいうならそうするべきだ。
ちなみに、甫、という字は、うすくひろがっている様を表すそうです。
博は広いと言う意味です。博識とかね。薄はそのもの、うすいです。簿は、竹や木などを薄片にして、文字を書くためのものです。浦も圃も何やら地形的に薄く広がっています。田ん圃などです。敷は、広げる意味があります。
そして、音は、ハク、ホ、ボ、フ、などです。これらの漢字は意味も音も、明らかに同系列ですね。
もっとちなみに、専には点がありません。この字だけ点が無い問題って、謎ですよね。博たちに仲間外れにされています。
実は、この字は「甫」系列とは成り立ちが違うのです。専は「專」という字が元々の漢字です。なぜか形が省略されたのです。
この寸の上の部分は、糸巻きだそうです。寸の意味は手です。手で糸巻きを巻いていることが、専念している様の「もっぱら」という意味だそうです。
同系列の漢字は、ほとんどが省略されています。轉=転(車の糸巻きで転がっている)、傳=伝(人から人へ糸巻きのように伝わる)、團=団(糸巻きでカタマリがある様)、などなどがあります。
音としては、セン、テン、デン、ダンなど同じ系列とわかります。省略されて姿形がそれぞれ変わってしまい、お互いが仲間かどうか分からなくなった悲しき一族ですね。「專轉傳團」、せっかくだから並べてあげるね。
「セン、仲間がいてよかった。もうここへ来てはいけないよ」
「ハク、ありがとう。私がんばるね」
「おばあちゃん、私の本当の名前は、專っていうんです」
「專かい。いい名だね。自分の名前を大切にね」
以上のように点の有無は、成り立ちの違いなのです。ここまで解説できている例は他に見つけられないでいるので、かなり貴重な記事自画自賛ですよ。
た、め、に、なったねー。わかりましたか、林先生。そこまで教えましょうね。
ずいぶん脱線しました。漢字の書き順は、象形文字までさかのぼる割に、以上のように抜けがあります。そして書きやすさも、ゆらいでいます。つまり普遍的なものでは無い。そんなものに、正しいとか間違っているとか区別するのはナンセンスです。
漢字の周辺って、漢字検定だの、今年の漢字だの、なんだか怪しい連中が蠢いている気がしてならないのですが、それはここでは不問にします。そんなことより、「順番を正しく」という考え方自体が、気持ち悪いと感じているのです。
小学生の間に、漢字の書き取りで正しい書き順を叩き込まれます。順番を守ることを無意識下に叩き込まれるのです。順番抜かしは悪なのです。滑り台などで遊ぶ時も、順番を守ることを教え込まれます。
順番を守ることの行儀の良さが国際的に感心されているようですが、その先に年功序列などという非効率な呪縛が潜んでいると感じます。
前回、日本人は順番が好きなんだと書きました。おそらく日本人ほど、順番を守ることに対する、善悪メーターの感度の高い民族は他にいないのではないでしょうか。世界では、気づかれなければ順番抜かししたって構わない、抜かされる方も悪いんだと思って、悪びれない民族の方が多い印象です。
確かに順番抜かしは、せちがらいです。でも大人しく順番を待っているより、少しは狡猾にガツガツしてもいいんじゃないの、せめて書き順くらいは厳しく教えないで、ゆるーくしたらどうでしょうかねって思うのです。
おすすめの書き順はコレコレですが、好きに書いてもとやかく言いませんよってね。そこの自由さを残すことが、発想の自由などのイノベーションの原動力になるんだ。
そういや大正生まれの死んだバーさん、ガツガツしていて順番抜かしなんて平気でしてたなー。そういう人たちが戦後の日本を押し上げたんだ。その後、順番を守って大人しく待つことを憶えて、日本は没落したんだ。
うーむ。ただなあ。順番を守るって、エントロピー増大の法則と戦うってことなんだ。そろそろ日本の話からエントロピーの話に移って、エントロピー増大に対抗しようぜ、という話の流れにしたいのだけど、順番を無視しようって言ったら、エントロピー増大のままに任せろって言っているのと同じだ。言いたい方向とは逆になってしまった。
さて突然、エントロピーが出てきました。それって何だよ、っていうところの解説は次にします。このへんのことは忘れてください。今回は漢字のお勉強ができたので許してください。それではまた。
どんどんバラまけ どしどし詰め込め
日本沈没はこうして防げ
○月△日
世の中は10万円の給付金のニュースで賑やかです。賑やかに見えるだけかな。まあどうせボクには関係ないのですが。税金が使われているという意味では関係ありますけど。
ここで給付金の是非や、財政赤字問題や、日本のマクロ経済予測や、ピケティと現代貨幣理論について論じるつもりは毛頭ありません。後半にいくほど自分でも何のことか、さっぱりわからなくなっていきますが。それはともかく、ボクが気にしているのは「バラマキ」という言葉なのです。
経済対策と子育て支援のために10万円を給付することに対して、「バラマキだ!」という批判が多いです。こういうやり方を「レッテル貼り」と言います。議論の中味を、ネガティブな印象の言葉へ押し込めて、言葉の力で批判する方法です。これって、とても楽ちんです。
「ばらまく」という行為に、印象として思慮深さはありません。「ばらまく」は、バカでもできそうです。バカだからやりそうです。
そんな印象だけをまんまと植え付けることができます。具体的にどんな問題があるのか、なぜ良くないかの理由など、面倒な理論を言う必要がありません。
それはバラマキだ、と言ってしまうだけで、議論を優勢にできます。聞いている方も、はあ、バラマキなのかあ、はあ、なんだか良くはなさそうだなあ、はあ、お茶飲も、ってなるのです。楽ちんです。嫌だなあ。
さてこのような「レッテル貼り」への批判って、当たり前すぎます。「レッテル貼り」を検索すれば、それに対する批判記事などいくらでも出てきます。そんな当たり前の、誰もが言っていることで、この記事は終わりません。
言いたいことはこれじゃないのです。ボクが言いたいのは、あるレッテル貼りによって、日本は大きく失敗・失策・失政してしまったと考えているのです。
それは「詰め込み教育」という言葉です。そしてそれによるレッテル貼りがあって、その後日本の教育政策は、ゆるくてぬるいものに変換され、人的資産の質が落ち、延いては日本の没落、日本沈没、日本人の大移民となったのです。後半はこの前観たテレビドラマだ。
おそらく、知識を蓄えること、つまりは単に暗記することは真の勉強ではないと言いたいのでしょう。そのあたりを「詰め込み教育」と表現した。
この言葉は非常に強い威力を発揮したと思います。言葉を聞けば何の批判かすぐにわかります。説明がなくてもイメージが共有しやすいです。
同時に「受験戦争」という言葉も使われ、戦争アレルギー患者には響いたことでしょう。「偏差値」も何だか不気味で人間味がない言葉です。これも文脈への深い思慮がなくても、ただ放り込めば威力を発揮してくれる便利な言葉です。
この辺りの言葉を適当に散りばめれば、論理的でなくても、教育政策と取り巻く世論を、変えさせることは容易だったことでしょう。
本当は自主性や独自性などを重んじて、考える力を育みたい、そのためのカリキュラムが必要で、暗記する時間をそこに回したほうがいいと考えたのでしょう。
暗記は人間味がない。一方で、独自に自主的に考える力は人間味があって素晴らしい。リベラル的発想ですよね。理解はできます。目指すところはボクも賛成です。
ただし、知識を蓄えることを疎かにしてはいけなかったと思っているのです。「考える」ためには、ある程度の知識が必要です。というか、できるだけ多くの知識があったほうが良いはずです。
「考える」とは、自分が持っている知識を組み合わせていくことです。その組み合わせの数が多いほど、多くの発想が得られる可能性が高まります。知識を増やせば、その組み合わせの数も指数的に増えるのです。
20個の知識でできる組み合わせは、10個の知識の組み合わせの2倍じゃないです。4倍でもないです。1025倍あります。30個の知識となると10個の知識の百万倍を超える組み合わせがあります。104万9千倍です。
ホントかな。富岳が正しければホントです。理化学研究所に頼み込んで、世界に誇るスーパーコンピューターの富岳を使いました。1秒間に1000兆回以上ものペタフロップス級の浮動小数点演算速度が必要だったのです。嘘です。電卓でもできます。
ゆとり教育って2000年代以降のイメージがありますが、ボクの高校時代、1980年代でも始まっていました。
ボクが受けた共通一次試験は5教科7科目でした。確か次年度あたりから減っていたように記憶しています。後輩たちは楽でいいよなーって思いました。
ちなみに5教科7科目とは、国語、数学、英語、理科2、社会2でした。理科は物理、化学、生物、地学、そして社会は日本史、世界史、地理、倫社、政経から、それぞれ2科目選択でした。ただし途中まか全科目をある程度は履修した記憶があります。そして国語は、現代国語、古文、漢文とあったので、全部合わせると実質14科目でした。今はどうなのでしょう。漢文は無くなるって聞いています。
嗚呼、温故知新、歳歳年年人不同。
また脱線しています。とにかく記憶力があって時間もある若い間に、なるべく知識は蓄えた方がいいと思います。ただし暗記合戦に陥るのはよくないでしょう。昔はそのあたりのバランスが良くなかったのかもしれない。受験というシステムの中で、記憶力以外を定量的に測るのは困難ですから。
さて給付金に話を戻します。お金を無為無策にバラまくと、日々の生活に消えていきそうです。10万円という半端な額の現金ですから、はあ、10万円なのかあ、今月苦しかったから助かるなあ、はあ、今日はお寿司にしよかなあ、スマホ画面割れてるし買い替えよかなあ、はあ、ポテチ食べよ、ってなるのです。せいぜいスマホを買っても、ゲームするだけでしょう。
つまりは何もしなければ、10万円というカタマリは、1万円分価値が10個になり、千円分価値が100個というように、どんどん低い価値ばかりのものへ細かく拡散していきます。
つまりは、無為にしているとエントロピー(乱雑さ)が増大するだけです。教育への支援という建て前があるのなら、そのお金が巡り巡って、知識や経験という高い価値に還元されて、若い人たちの脳に濃く凝集していくことが望ましいのです。
だらだらポテチを食べてスマホに依存するようなことへ、手を貸してはいけないのです。無為に拡散せず、高い価値である「知識」へ集約されるようなことへ、策を講じないといけないのです。
エントロピーの増大と戦うには、エネルギーをかけて秩序を与えないといけない。低きへ流れるエントロピー増大則に負けない、そんな有効な施策を打たないと、、、
あっ。忘れてたっ。エントロピーについて解説してなかった。それがないと、このへんわかりにくいのだった。何を熱くなっているのだ。
エントロピーは、また今度にします。今度は書きます。それではまた。
進化論的圧力がエントロピー増大の法則に屈して晩婚化が進む
○月△日
女の人と実家について考えました。この”実家”という言葉がありますが、ボクは正しい言葉使いを心掛けていて(あ、ここは言葉"遣い"か、言葉"使い"か、微妙なところだ、でも言葉"使い"だ)、この実家って、嫁いだ女の人にとっての親の家という意味であって、本来は男や独身女性が使う言葉ではないらしいです。
実は、この実家のウンチク説明は冒頭からの脱線なのですが、その脱線の中に、言葉"使い"の漢字はどちらかという、さらなる脱線をしてしまっています。脱線中の脱線です。ちなみに、言葉”づかい”は、美しい言葉"遣い"、正しい言葉"使い"で区別できます。今のも脱線です。冒頭からウンチク脱線の応酬です。さっき朝5時に書くネタを思いついたばかりで、まとまってなくて、出だしが大変なことになっています。
ちなみに自分の妻を、ヨメという言い方も、い、いや、やめておきましょう。
それはともかく、この"実家"と独身女性との関係が、晩婚化に密接に関わっているのではないかというのがボクの説です。
さて詳しく説明すると、女性を観察していると、親との関係が良好な場合ほど、なかなか結婚しない傾向があります。親と喧嘩の絶えない、そこまでいかなくても、あまり実家の居心地が悪そうな女性ほど、さっさと結婚している傾向にあります。ボク統計年鑑によりますが。
この辺りの因果関係は理解しやすいですね。結婚を迷っている時に、実家の居心地の良し悪しは、決断に影響を与える重要な因子となり得ます。
進化論的には親は子離れをしなければならないのです。そして子を遠くへ放つ必要があります。自分の遺伝子をなるべくたくさん遠いところへ撒いて、色々な可能性に賭けないと遺伝子は残らないからです。
多くの動物は子が成長し、自力で生きていけるようになると、自分のテリトリーから追い出しにかかります。自分も生きて次の繁殖をしなければならず、食い扶持がテリトリーに居たら、餌が減って困るからです。
なので、進化論的には、実家というところは厳格にしたり、面倒なしきたりを設けたりして、子にとって住みにくくし、子の方も反抗期というものを自ら作って、いつかの旅立ちに備えます。
しかし昨今は、実家を親が、子にとって住みやすいものにしています。いつまでも子にそばに居てもらおうとしています。
子が住みやすい家を作る方が、実はそれほどエネルギーを必要としません。厳しくするより、そっちの方が圧倒的に楽なのです。
親子間の軋轢と戦う精神的エネルギーの方が多大でしょう。なので、遺伝子を残す方向に不利であっても、そのエネルギーを使わない方を選んでいるのです。要するに進化と種の繁栄は諦めた、個々が気楽に楽しくやろうよ、という選択をし始めているのでしょう。
そういう低きに流れるというのが、エントロピー増大の法則に従っている状態なので、、、
ああっ。また忘れてたっ。今回もエントロピーの解説をしていなかった。タイトルにもあるのに、どうしよう。ええい、また今度にしよう。それではまた。
夢を追い、自分らしく生き、
巨人の足を見上げる
○月△日
突然ですが読書感想文みたいな記事にします。
「無理ゲー社会」 橘玲 2021 小学館新書
ベストセラー作家の、ベストセラーとなっている本です。
無理ゲー社会とは、平均あたりからそれ以下の人々にとって、社会的経済的に成功して、評判や性愛を獲得することは不可能となっている社会とのことです。 要は「ワーキングプア」「非モテ」がほとんどを占めて、格差と閉塞感があるという社会です。閉塞感というより絶望感かも。
そして、この本の第一章末尾に書かれている、
『リベラル化』がすべての問題を引き起こしている
のくだりが、本書の本質だと思います。物質が満たされ、非物質的な価値、つまり「自分らしく」「それぞれの夢を追う」などのリベラルな発想が、無理ゲーな社会を作り出したのだと。
本書で何度か登場する、集団の分布形態であるベルカーブとロングテールについて、以下の例え話がわかりやすいです。本書ではこれらの表現は使われていませんでしたが。たしか著者の橘氏の他の本にあったと記憶しています。
ベルカーブ:例えば、成人の身長は120−200cmの間に人口のほとんどが集まっていて、ごくまれに2mを超える人がいます。しかし、3mを超えるような人は絶対に存在しません。低い身長も同じ傾向で、50cmを下回るような人はゼロとなります。このような極端がいない集団は、ベルカーブと呼ばれています。
平均を中心に、だいたい両側均等に集まっています。最頻値、つまりピークと平均値がほぼ同じです。平均の人が一番たくさんいる世界です。体重や成績や足の速さや釣鐘などもベルカーブです。釣鐘がベルなので当たり前です。
ロングテール:もし身長で例えると、0-50cmに大多数が集まり、高い身長の人口は次第に減るが、あり得なかった3mはおろか10mや100mに達するような人でもゼロではなく存在する集団です。かぎりなくゼロに近い身長も多く存在します。
ピークはゼロに近づきますが、平均値はそれより大きくなります。ありえない巨大値が平均値を押し上げてしまうからです。つまり平均以下が大多数となってしまい、平均値を聞くと多くの人が凹む構図があります。給与などがそうです。
個人資産の分布はロングテールの典型です。資産千ドル未満が人口の大多数ですが、世界には数千億ドルクラスの資産家が何人もいます。身長なら月に達します。マークやジェフやイーロンなどが地球の裏側で屹立しています。日本ではマサヨシやタダシの足の裏が見上げるほどなのです。ユウサクは彼らに比べたら、まだまだチビっ子です。足の指程度です。月なんかはるか遠くです。だからなのです。
本書によると、ベルカーブに近い社会が、リベラル化によってロングテールとなった。人や資本やモノやサービスがグローバルに流動化することによって、「よりなめらかに流れ」、ロングテールな状態となっていった。
要するに、かき混ぜると濃度が均一化して(エントロピーが増大して)、ベルカーブ的な集団が薄く広がって、より低きへ流れ、平均に集める力が無くなり、より低くくと、より高いものまでが存在するようになったということです。
社会が豊かになると、一人一人が「自分らしく」「夢を追う」ことで社会の共同体からの束縛から逃れようとするが、持つ者と持たざる者の格差が広がっているので、多くの平凡な才覚の人々にとっては、たいした果実が得られず、絶望感が甚大となってしまう。
というような身も蓋もないことが書かれていました。昔からリベラルには眉に唾をつけたくなっていましたが、なるほど腑に落ちました。
さて、前回ボクは「晩婚化は進化論的圧力がエントロピー増大の法則に屈したから進んだ」という記事を書きました。
進化論的圧力とは種族を保存する社会の圧力(適齢期で結婚しなさい、早くたくさん子供をうみなさい、社会の要求に答えなさいという圧力)です。
エントロピー増大の法則とは高いところにあるものは低きへ流れるということです。つまり、実家で気楽に過ごしたい、恋愛なんてめんどくさい、コタツでNetflixを観ていたい、ありのままにレリゴーレリゴーしていたい、ということです。そうやって、進化繁栄よりエントロピー増大が勝ってしまい、晩婚化が進んだのだと書きました。
つまり、旧型社会の進化論的圧力が、がんばってエネルギーをかけて集団をベルの形に集めて、秩序よく維持していた。しかし、いろいろ物質的に豊かになり、情報やら多様な価値観など知られるようになって、多様さ=乱雑さ=エントロピー増大圧力が強くなり、集まったベルから徐々に漏れ出し流れていって、長いテールになってしまい、ゼロの壁に貼り付いたりしてしまいました。
そういうことが言いたかったのです。おお、橘氏の本と基本的に同じことを書いているではないか。
記事を書いてブログにアップしたのは2021年4月です。この本の発行はその年の8月ですね。橘氏はボクの記事で着想を得たに違いない。間に合ったはずだ。本はベストセラーになりました。印税半分くれい。それではまた。
水道哲学は捨て去れ!
価値のエントロピーは増大し、その船は沈む
○月△日
前回の最後に、お約束の「あっ。また忘れてたっ。エントロピーの解説をしていない。また今度にしよう」のくだりを書いていませんでしたね。もう何だか書かなくても、そろそろわかってもらえるかなーって思っているのです。
この法則を正面から説明すると、初耳で知らなかった人にとっては苦行でしかないのです。例をどしどし挙げるだけ挙げて、何となくわかってもらおう作戦にしていたのでした。しかしそれこそが、エントロピー増大の法則に屈しているのだろうて。
さて最近のニュース、ボクが4年ほど前まで勤めていた古巣パナソニックが欧州テレビ生産から撤退するのだと。数百人が解雇されるのだと。やれやれ、です。新社長が就任した2021年の夏頃、「水道哲学を踏襲する」みたいなことを言っていて、何を今さら、これはかなりマズイことになるぞと思っていたのですが、予感が的中しつつあります。
水道哲学とは、松下幸之助創業者が唱えた経営の理想論です。人にモノを安く大量に届けるのが事業者の使命である。水道水のように誰もがモノを買えるようになって世の中は豊かになっていく、というものです。それが松下電器、現パナソニックの理念でした。
誰もが思うでしょう。それはモノが無い時代には通用するが、モノが溢れている時代に通用するだろうかと。
物質的な価値はいずれ無くなっていく運命にあります。価値は偏在してこそ貴重なのですが、どこにでもあるとそれは価値がある状態ではありません。便利なモノがあまねく広がると、人々はその便利さを感じなくなり、そのモノが当たり前のことになります。
物質的価値は逓減するのです。価値の濃度差はなくなっていく。濃度差がなくなることはエントロピーが増えることです。エントロピーは増大するのが宇宙の絶対法則です。そして今やモノが溢れかえっていて、次なる新しい価値を追求する時代になっています。
水道哲学の考え方自体には価値がありますが、水道哲学は新たな価値を生み出しません。むしろ今ある価値を無くしていく考え方です。
半世紀前にはテレビは価値あるものでした。テレビが家に初めてやってくるという日は特別な日だったようです。お父さんは会社を休み、子供も学校を休んだりしました。20インチクラスのテレビでもそうでした。
それが20年ほど前から、それくらいのテレビはショッピングカートへポイと放り込まれる、雑貨へと成り下がってしまったのです。水道水のようにテレビが安くなり、その価値が消滅しました。
話はそれますが、映像や音声など情報を送るだけのような、技術的に小さく軽くできるものは、最終的には安くなっていく運命にあります。大型テレビは一昔前には100kgを超える重量がありましたが、今では同じ画面の大きさのものが片手で持てる重さになりました。軽くなるということは、材料を使わないのでいずれ安くできます。現在のテレビと同じ機能のものは、いずれ脳に埋め込まれて、重量は実質ゼロになるでしょう。
一方で、パワーを必要とする技術、重い物を運ぶとか、高速で回すとか、それらの技術はパワーに耐えるだけの構造や安全性が要求され、一定以上の重量が必要となってきます。熱を移動させる技術も同様で、面積や熱を蓄える重量が要求されます。
このあたりも、エントロピー増大の法則で説明できるのです。というか最もエントロピー君にとって、ぜひ説明してほしい一丁目一番地の正面玄関前のはずです。しかしそれこそが一番やめておいた方がいい、説明分野なのです。
それはともかく、そのような"重さ"がある技術に支えられた製品は安くなりません。車や洗濯機やエアコンなどは今以上に安くなることはないでしょう。劇的に軽くできる技術の革新があれば別ですが、30年はないでしょう。今の時点で新技術の萌芽すら存在しないものは、近々には実用化されないからです。。
さてモノを造る大企業は新たな価値を生み出さないと、これからの時代には生きていけません。そんな大企業のトップが、前時代的な価値観である水道哲学を踏襲すると言い、人々の精神的な安定だの、社会課題に正面から向き合い不安を払拭するだの、記者会見で言った挙句に、数百人の解雇です。水道代でさえ払うことが難しくなる人たちをたくさん生み出しました。
水道哲学で、製造業の雄として食べていく時代は終わっているのです。今や水道哲学を実践するのは周回遅れの役目なんだ。トップランナーのすることじゃない。もうトップじゃないか。でも使命は終わっているのです。
ありゃりゃ。暗い話題のまま終わりそうだ。ならば復活の処方箋を示さないとなあ。さすがにこの流れでは書けないので、ボクの別掲note記事を読んでください。近日公開します。もちろんパナソニック関係者は有料だ。お安くしとくよ。それではまた。
エコロジカル・コレクトネス 地球はそうさ昔どこまでも海だった
○月△日
ある日本人が中国で遊覧船に乗ったときのこと。
他の中国人観光客を見ていると、彼らはゴミをポイポイと海へ捨てていたのです。
あーあ、なんなんだこいつらは、と思いながら自分のゴミを捨てようとゴミ箱を探すと、デッキにビンカンと燃えるゴミに分別されたゴミ箱を見つけたのですが、中を見ると分別はめちゃくちゃだったそうです。その人は、今さら無意味とわかりつつ、持っていたゴミを正しく分別して捨てたそうです。
しばらくして、船の乗組員がやってきたと思ったら、やおらそのゴミ箱を運んで、その中身を全部海へバサバサーっと捨ててしまったのだそうです。
又聞きの話なので、正確ではないかもしれません。こんな光景に出くわすと、ほとんどの日本人はショックを受けるでしょう。
これは中国に限らず、多くの国で同じようなことが行われていると容易に想像できます。多くの国で多くの人たちが川や海へゴミを投棄していることでしょう。
日本では、やれエコバッグだ、やれプラスチック袋の有料化だと騒いでいるのに、実に象徴的なエピソードです。
たぶん彼らは悪くないのです。ただ現在の環境的な正しさを知らないだけです。
エコロジカル・コレクトネスを知らないのです。
つい数十年前は、日本でも誰もが工場排液を川や海へ垂れ流していました。
排ガスや排煙を何も処理せず大気に放出することが良くないこととは知りませんでした。単に無知だっただけです。
環境問題は、まず正しい知識と想像力が必要です。
何にどんな害があるかの正確な知識と、それがどこの誰にまで害を及ぼすのかの想像力、つまり時間と空間を越える想像力が必要なのです。
モラルはその次の段階で、一部のマイナーな輩のためのものでしょう。
めんどうじゃん、ゴミ箱無いじゃん、持ち帰れって言うの、って言っているメジャーな輩は、正しい知識を教えてもらわず、想像を巡らすトレーニングを積んでこなかったのです。
正しい知識と想像力なんて、とても難しい。
まず今ある常識が正しいのかどうかも難しい。
二酸化炭素が本当に悪なのか、ダイオキシンや環境ホルモンはどうなのか、実はまだまだ決着がついていません。
何が正しいのか分からないと、信じたい知識、信じたくない知識、信じさせたい知識、信じさせたくない知識が交錯して厄介なことになります。環境癒着ビジネスや環境テロリストやイカれた北欧少女や無意味な法律が跋扈するのです。
いちおう環境のプロの端くれの端っこの末端に居続けて30年以上のキャリアがございます。流れはだいたい存じ上げております。なぜ突然ご丁寧に。
何が正しいかわからない、この混沌とした状況も徐々に収束に向かう感触があります。5〜10年でピークアウトして、ゆっくりと整理される方向になるでしょう。30年先はかなりマシな世界になっていると思います。
なので少女よ。少しは落ち着け。
温暖化が進んで、もう手遅れになっているって?
実は寒冷化しつつあって、もっと二酸化炭素を排出しておくんだったと後悔してたりして。
この話のどこがエントロピーなんだと、もう疑問に思われないでしょう。もう説明不要ですね。それではまた。
今日も日本はいい国だ
さて今回の話は無理矢理エントロピー、すこしだけエピローグです。この無理矢理エントロピー話の、どのあたりがエントロピっているか、すこしエピローグ話の、どのへんがエピログっているか、わかった方はご応募ください。キャンペーン実施中。ヒント。エントロピっている所は、3個あるよ。いったい何がしたいんだ。
○月△日
冬の朝5時くらいでした。駅のベンチに座ってカバンの中の本を探そうと、持っていたカードケースを、座っていた横に何気なく置きました。意識の奥の方で「この一時的に置いたケースは忘れないようにしなくては」と思ったことを憶えています。
ほどなくして電車がやって来ました。電車に乗り込みドアが閉まって走り出した時に、カードケースのことを思い出しました。
またやってしまった。当時睡眠時間が毎日4時間くらいで、何度も何度も財布やスマホを落としたり、どこかに置き忘れたりしていたのです。その頃の通勤時間は往復5時間でした。睡眠時間より長かったのです。狂った日々でした。ボクがマゾだから耐えられたのです。
朝も早いので、まだ間に合うかと、次の駅で降りて引き返してみましたが、ケースはありませんでした。ひとまず駅員に届けを出し、会社に行きました。
その頃の経験上、3日以内に出てくるはずと思っていました。財布は特に落とし慣れていて、慌ててカード類を止めることはしません。
日本という国はスゴイ国です。いつも財布の中身は手付かずで届けられるのです。財布を落としたことに気づく前に、拾った連絡が来たこともありました。現金数十万円を入れた封筒が、そのまま届けられたこともありました。現金数十万円を置き忘れる方も、どうかしています。
しかしこのカードケースはなかなか出て来ませんでした。交通系ICカードや、あまり使わないクレジットカード、その他ポイントカードが入っているだけで、それほど支障はありません。クレジットカードは使われても保険がカバーします。ICカードにはチャージが5000円くらいありましたが、それくらいではジタバタしません。
カードケースのデザインが気に入っていたので、それが無くなるのが惜しかったくらいです。
2週間ほどして鉄道会社から連絡がありました。落とした駅に届けられたとのことです。落とした人が、持ち主に確実に届けられたか気になるので連絡が欲しいと、電話番号を残していったとのことです。すこし変な感じがしましたが、駅でカードケースを受け取り、電話番号を教えてもらって電話をかけました。
もちろん感謝を言うだけでなく、何らかの御礼をするつもりでいました。電話に最初に出たのは女性でした。電話の用を伝えると、ああそれは主人だわと言って、届けた本人に替わってもらいました。
ひと通り御礼を言い、ケースを気に入っていたので、出て来て良かった話などをしていると、ご主人は昨日拾ったかのように話をしていることに気づきました。
あれ? 落としたのは、ずいぶん前なのにおかしいな。何気なく「落としたのは2週間ほど前だったのに、どうして今頃になって出て来たのでしょうね」と言ったのです。すると、どういう訳か、その方は突然、怒り出したのです。
「わたしは単に落ちていたものを拾って届けただけだ。なぜ疑う」というような内容です。いやいや不思議に思ったけど、なにかを疑ったことではないのですよ。ただ単に、素朴な疑問を口にしただけです。
何度も何度も説明はしたものの、分かってもらえません。ただただその方は怒り続け、ボクは同じことを言い続けるだけでした。
そのうち先程の奥さんが代わって、主人が急に怒り出したので、何があったのかと聞いてくるのです。同じ説明をしたのですが、興奮しているご主人を横で見て、自分も興奮してしまっているのか、頭に入らないようです。その電話をどう収めたのかは忘れましたが、御礼の話には至らずでした。
実はすぐに気づいていました。拾ったご主人は、長い間カードケースを届けずに、持ち続けていたのです。届けないといけないけど、ズルズルと届けなかったのです。
チャージを使ってしまおうか、いやいやバレるかな、いやいやそんなことをしてはダメだ、届けるなら早く届けないと。早く早く。ああどうしよう。
そういう決められない人なのです。
そうだ、届けたら御礼が貰えるかも。じゃあ連絡先が伝わるようにしよう。「持ち主に確実に届くか気になる」から。
下手な理由です。たぶん普段からすぐに決められなくて、いろいろと整理してスマートに考えられない人なのです。
そんな人が「どうして今頃?」と最も痛いところを聞かれ、後ろめたさやらカッコ悪さやらが爆発し、怒るしかなかったのです。だいたいヒステリー的に怒る人は、自分の非がわかっているのです。
表層の意識では自分が正しいと信じていたとしても、無意識は非があると感じていたら、反応はヒステリックになってしまうものです。
奥さんが横で聞いている状況が厄介でした。ご主人とか旦那さんは、奥さんから受話器を受け取ると、変にカッコつけてしまいます。他人と電話している姿を見せることは、自分の外の姿を見せることです。その地位を高く見せようとして、普段と違う情緒になってしまうのです。そういう仕組みです。そういう機序です。ご主人とか旦那さんと言われている生き物に組み込まれた機序なのです。
ボクが悪かった。そういう葛藤を感じてあげるべきだった。何気ない疑問は聞かずに、御礼を受け取ってくれる方法だけを聞くべきだった。
しかし途中からは、気づいていながらも、怒り続ける旦那さんとのプレイを楽しんでいました。たまの悪いサドが出てたのです。
このことがあった数ヶ月後、会社近くの警察署から連絡がありました。またまた財布を落としてしまったのです。この警察署は3回目です。あの頃は本当にどうかしていました。
やはり中身は手付かずでした。警察で教えてもらった連絡先へ電話をし、御礼をしたい旨を伝えました。先方は固辞しましたが、連絡先が携帯番号だったので、メッセージからamazonギフト券を送ることができました。ランダムな十数文字がお金に相当するので便利です。
今の睡眠時間は7時間を確保できています。長らく財布を落としていません。去年、逆に財布を拾いました。即座に交番に行って財布を届け、いっさい名乗らずでした。善い行いをしたのでオキシトシンが出ました。
今日も日本はいい国だ。空は晴れてセロトニン日和です。それではまた。