ホッとする
私は自覚している以上に、人に気を使うようだ。(気遣う?)
いや〜、どうかな?
根はそこまで気を遣わないかなぁ。
けど、身を守るためには「すみません」も「ごめんなさい」も頻繁に使う。
元々「悪いことをしていない時は謝っちゃダメよ」という文化も自分の一部だからね。こういう言葉は、どうも使うと心の奥がムズっと気持ち悪かった。(今でもかなぁ)
だから、「すみません=thank you」、「すみません=please」と何度も自分で自分を洗脳して、空気のように発する言葉にできるように努め続けている。
外では、苦に感じなくなってきたかな?
こうは言っても、本当に相手にとって大変ではないかとか、もしかして相手も痛みがあるだろうか?と思った時には、純粋に申し訳ないと思って、謝る。あるいは、もしも相手に不快感が生じた可能性がありそうならば、相手が可哀想だと思って謝る。(自分のミスならば、当然「申し訳ありません」と頭を下げる。)
けど、流石に自宅の中に私を助けてくれるために来てくれているはずの人々にまで、毎日毎日必要な動作や症状が出る度に「すみません」とか「ごめん」って言うのは疲れるみたい。(私自身の意識や言動で、改善の余地あり。)
ましてや、何か改善したり、努力が見えたりすると一緒に喜んでくれたり、褒めてくれたり、少なくとも他でダメ出ししないでくれるのならばありがたい。
鼻で笑うのも、外なら気づかないか、気にならない。
けど、自宅という自分の安息の地で、心に小さなジャブや不快感から逃れられないというのは、どうやら疲れるようだ。
一切誰も来ない一日にホッとするような、骨の髄まで休まる感覚で気がつく。(けど、誰が来てくれるかでも、かなり違う。相性もあるからね。)
実は、外ではこういうジワジワと蝕まれるようなボディーブロー的発言や態度で接せられることはないかもしれないなぁ。優しいって、ありがたい。
徐々に、常に他者に助けてもらい、人と常に関わり続ける日々に慣れていかなければいけないのだろう。(こういうのも、実は辛い。自立に非常に重きを置き、それをかなり誇りに思って生きてきた私にとって、いかなる理由であれ、どうしても他者に頼る道しかないというのも葛藤がある。自分でどうにかできるのならば、自立したいというのは人間の本能なんじゃないかな? 同時に、人間は社交的・社会に根付く生物だからね。他者との交わりもまた貴重かつ必須。この辺はバランスだよね。)
けど、今は一朝一夕には連日どんな人でも自宅に来てもらって、どんな言動や行動でも感謝のみ感じて、いかなる場合にも一切の疲労感や不快感、困惑や戸惑いを感じないというのはちょっと難しい。まだ、時間をかけて一歩ずつ新しい生活様式に向けてトレーニングが必要なようだ。
すると、一日や二日、自宅内では何も強要されず、無理する必要もない時間は貴重だ。一切悪いことをしていないのに謝罪の言葉で必要なことをお願いする必要もなく、加えてどんなに頑張っても、どうしても不可能なことを何度も催促・嘲笑・注意されない休息もとてもありがたい。
障害や病気があるとさ、人に手伝ってもらわないと、どうしても生活や生存ができない場合・場面もある。
手伝ってくださる人々、助けてくださる人々には感謝しかない。
それでも、生物として、どうしても必要な安息も存在するんだよね…… 人権ってさ、当然スタッフも必要なんだ。同様に、助けが必要な人にも絶対に尊重されるべき人権ってのもあるというのは、忘れないで欲しい。というか、知ってもらいたい。
「あなたのために」これは、本当に貴重でありがたい想いだし、原動力だ。同時に、この魔法の言葉を言い訳に、不必要に越えるべきではない一線を踏みにじる言い訳に使うのが当たり前にはなって欲しくない。
難しいよね。
でも、きっと可能だから。
これは、いついかなる時も線引が必須という意図では決してない。生命を優先したり、必要性が優先されなければいけない場面もある。だからこそ、そういう時とそうでない時があり、不必要な時にまで惰性や慣習で侵害ありきではなく、様々な可能性を話し合って、意識合わせをして、一緒に歩み寄っていく努力を考えても良いと思うこともある。
今日は誰も来ない。
目一杯羽を伸ばせる。
何も心配せず、何も言われず、ただただありのままの自分として休める。
ありがたい一日😊
今を大切に生きよう!
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