九條です。
お盆も近いですので、今回は我が国に仏教が伝来した当初の記録を読んでみたいと思います(以下、本文約5,300文字/現代語訳のみで約1,700文字)。今回は末尾に「おまけ」(夏休みプレゼント)付きです。^_^
今回の講読(原文)はそれほど長いものではありませんが、やはり「読み下し」以下は文字数が多くなってしまいますので、お時間がおありの時にでもご覧いただければと思います。「現代語訳」だけをご覧いただいても構わないです。
さて、我が国に仏教が伝来した(公伝した)のは宣化天皇三年[01](538年)または欽明天皇十三年[02](552年)とされています。
ここでは『日本書紀』による欽明天皇十三年の記録を読んでみたいと思います。
なお、上記の年代(宣化天皇三年や欽明天皇十三年)は、あくまでも「公伝」すなわち公に伝わった(と当時のヤマト政権がそう認めた)とされている年代であり、それ以前に渡来系氏族たちによって「私伝」としてすでに仏教は我が国に(細々とではあるが)入ってきていたであろうと考えられています。
この時代(飛鳥時代前期)に我が国に伝わった仏教とは、南都六宗のうちの三論宗の断片(一部分)であったと考えられています。この時の三論宗の法灯は我が国ではすでに途絶えてしまい、現在まで伝わっていません。
現在、現存している我が国における最古の仏教宗派は南都六宗のうちの法相宗で、この法相宗は飛鳥時代後期の大化改新前後(650年前後)から数次にわたって我が国に伝えられました。
では、早速『日本書紀』における仏教伝来当初の記録を読んでみたいと思います。^_^
【註】
[01]538年説は『上宮聖徳法王帝説』および『元興寺縁起』などによる
[02]552年説は『日本書紀』による
[03]国史大系版『日本書紀』(前編)吉川弘文館 1973年
[04]百済(くだら/ひゃくさい)は、古代朝鮮半島南西部にあった国
[05]聖明王(?〜554年頃)は、百済国第26代王。聖王、明王とも。仏教を保護し、百済国における仏教文化を興隆させた
[06]妙法(みょうほう)とは、仏教のこと
[07]流通(るつう)。仏教では「るつう」と読む
[08]蘇我稲目(506年頃〜570年頃)は、蘇我馬子の父。蘇我入鹿の祖父。推古天皇の母である蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の父
[09]物部尾輿(生没年不明)は、物部守屋(?〜587年頃)の父
[10]当時は仏のことを「蕃神(えみしのかみ)」「客人神(まろうどのかみ)」等と表現していた
[11]小墾田(おはりだ)は、現在の明日香村雷(いかづち)辺り
[12]向原(むかはら)は、現在の明日香村豊浦(とようら)辺り。稲目の向原家(むかはらのいえ)は、現在の向原寺(こうげんじ)=豊浦寺(とゆらでら)であると伝えられている
[13]難波堀江(なにわのほりえ)は、現在の大阪湾だとも、飛鳥地方の雷丘付近にあった大溝だとも言われている
[14]新羅(しらぎ/しんら/しるら)は、古代朝鮮半島東部から南東部にあった国
[15]この部分は『日本書紀』編者による註。『日本書紀』が編纂された段階ですでに新羅の「午頭方(ごずほう)」「尼弥方(みにほう)」は何処なのか分からなくなっていたと思われる
※1999年に行なった市民講座向けの講義ノートから抜粋・編集しました。
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【関連項目】
【これまでの講読】
【おまけ】
※夏休みプレゼント
私が中学生のときに覚えた年代語呂合わせ
◎み仏のパンチパーマを「ご散髪」
→538年 仏教伝来
◎ある日の「午後に」仏が来た!
→552年 仏教伝来
◎聖徳太子は料理が上手、聖徳太子は「コックさん」
→593年 聖徳太子が摂政に
◎「蒸し米」食べて大化の改新
→645年 大化改新(乙巳の変)
◎「なお一番」の大宝律令
→701年 大宝律令成立
◎「何と」立派な平城京
→710年 平城遷都(何と=南都)
◎ウグイス「鳴くよ」平安京
→794年 平安遷都
など。^_^
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