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【古代史 基礎講読 01】『日本書紀』が読めるようになるまで

九條です。

これから『古代史 基礎講読』(「講」読であり「購」読ではありませんよ)。としてボチボチと不定期に連載を試みたいなと思います。

この『古代史 基礎講読』では、日本史(なかでも古代史)の基礎となる生の文献資料について、読む事を試みます。

この『古代史 基礎講読』は私(九條)が、かつて1997年度と1998年度(1997年春〜1999年春までの間)に、とある地方自治体の市民向け講座の講師として講義をした際の「講義ノート」(手書きノート)から内容を抜粋し再編してこのnote上に投稿するものです。

さて、私が『日本書紀』等のいわゆる「六国史りっこくし」と言われる日本史の基本となる資料が読めるようになった経緯いきさつについて、これから日本史を学ぼうという人たちのためにその経験を「第1講」としてここに記しておきたいなと思います。(以下 約3,200文字)。


1. はじめに
私が大学生時代に歴史学を専攻し、最初に講読の担当教授に教えていただいたことは以下の3つです。

(1)とにかく時間をかけること。手間暇を惜しまないこと。
(2)回数を重ねること。1つの資料を繰り返し何度も何度も読み込むこと。
(3)数をこなすこと。とにかくたくさんの資料を読んで文献資料に慣れること。

これらは、その教授が学生さんたちに何度も何度も繰り返し言われていたことでした。


2. 読めるようになるための具体的な方法
以下は『日本書紀』などの文献資料を読めるようになるための具体的な方法です(学問の方法論ではなくて、資料を読めるようになるための基礎的な技術論です)。

まずは、1つの資料(例えば『日本書紀』ならば、その中の1つのくだり)について、一語一語を辞書をひきながら丁寧に読んで行きます。

国語辞典・漢字辞典・古語辞典・日本史辞典・異体字辞典等は確認することが必要だと思います(私がよく使っている具体的な辞書名は後述します)。

そうやって一語一語の読み方やその意味などを調べながら、まずは機械的・逐語訳的に読み進めます。そういう機械的な作業、いわば基礎訓練をひたすら繰り返します。半年ほどの時間は必要ではないかなと思います。

それと同時に、その資料が記された時代背景などもさまざまな資料や論考などから知っておく必要もあります。


3. スラスラ読めるようになるには
機械的な逐語訳に慣れてくれば、次にさまざまな研究者や先学諸氏による読み下し・書き下し・現代語訳について学んで行きます。

古い(とくに平安時代以前の)文献資料に対する読み下し・書き下し・現代語訳などの解釈には「正解」がありません。

なぜなら、漢字ばかりが並んでいる文献について、古代の人たちがどのように読んでいたのか、どのように発音していたのか、その「読み方」の資料はほとんど残っていませんし(全く無いというわけではありませんが)、さらに古代人の「声」は一切残っていないからです。

ですから研究者であっても、人それぞれに少しずつ読み方や解釈は異なっていますし、また時代によっても(すなわち学問研究の進展具合によっても)異なって参ります。

例えば、1つの文献資料の読み下し・書き下し・現代語訳などの解釈においても、昭和時代(戦後)のものと、平成時代のもの、そして令和になってからのものとでは大きく異なります。それだけ学問の研究が進展してきているということなのです。

かといって、いまの最新の研究成果だけを学べば良いのか、それだけを知っていれば良いのか…というと、そのような考えや姿勢や取り組み方は論外です。学問をするうえでは必ず(絶対に)避けて通れないものに「学史(研究史)」があります。

それは、現在の最新の研究成果に至るまでに、過去、先学諸氏がどのように考え、どのように解釈をし、どのような創意工夫をしてきたのかを知らなければ、現在の研究成果を正しく理解・評価することはできないからです。

学問には(どのような分野の学問においても)その研究の連続性(研究史)を知っていなければ、学問を理解することは不可能なのです。


4. 慣れと読むスピードの向上へ
機械的・逐語訳的な読み方の次には、先学諸氏の研究を辿り、それを理解し、また現在のさまざまな研究者の解釈(読み下し・書き下し・現代語訳など)をも学んで行くと記しました。

そうした地道な努力を積み重ねて行くと、文献資料に慣れ、読み方にも慣れて参ります。

そうすると、少しずつ読むスピードが速くなります。読むスピードが速くなるということは、1つの資料を読むためにかかる時間が少なくなるということですね。

1つの資料にかける時間が少なくなるということは、それだけたくさんの資料を読むことができるようになるということです。

そうなってくると、もう漢字ばかりが並んでいる文献を読むことは苦痛ではなくなって参ります。楽しくなって参ります。


5. 自分なりの読み方へ
文献資料についての読み下し・書き下し・現代語訳に「正解」はないと申しました。

古い読み方から新しい読み方まで、そして新しい読み方においても多くの研究者のそれぞれの読み方を学ぶことによって、それぞれの良い部分を学び、違和感を抱く部分については、自分なりに辞書を用いて調べ直したりしてみるようにします。

そういうことを繰り返して行くうちに「自分なり」の読み下し・書き下し・現代語訳・解釈が自然とできるようになって参ります。

そうした「自分なりの理解」ができるようになってからも、さらに繰り返し読み込んで行くうちに不安になったり、疑問点が出てきたり、理解が足りなかったことに気づく…などということが日常茶飯事です。何十年経ってもそういうことは頻繁に起こります。

しかしそういうことによって、学問全体が、自分の理解が日々更新され、進展しているというわけですね。


6. 私が普段使っている辞書
以下は、私が『日本書紀』などの文献資料を読むときに、よく確認している辞書類です。

◎『日本国語大辞典』
◎『広辞苑』
◎『国史大辞典』
◎『大漢和辞典』
◎『角川古語大辞典』
◎『望月佛教大辞典』
◎『五體字類』
など。

歴史を語るには、何よりも原文(原典/一次資料)にあたるということが大事です。すなわち『日本書紀』を読むならば、辞書を頼りに『日本書紀』の原文を読むということがとても大事なのです。

『日本書紀』の解説本や解釈本だけではなくて『日本書紀』の原文そのものを読むことが大事だということです。

原文(原典/一次資料)にあたらずに、安易な解説本や解釈本だけを読んで、それで「分かったつもり」になっているのは「(研究者として)学問に対する冒涜である」と担当教授は何度も言われていました。


7. おわりに
「ローマは一日にして成らず」と申しますが学問においても「学問は一夜にして成らず」です。

1つの文献資料について、一語一語、辞書類を確かめながら時間をかけて地道にコツコツと読み進めて行く。

それは牛の歩みなのですが、そういう地道で陽のあたらない努力を3年、5年、10年…と積み重ねることによって、その努力が自分の血となり肉となり、力となるのだと思います。

そういう力をつけることによって、漢字ばかりが並んでいる「わけのわからない」古代の文献資料も、やがては現代文を読むような感覚で、新聞や雑誌を読むようにスッと自分の中に入ってくる時がやってくるのだと思います。

ここで「コツ」を申し上げますと、辞書でひいた内容は自分の手でノートに書くと良いと思います。そうすることによって記憶が定着しやすくなります。

また『日本書紀』は日本史の基礎資料です。それは奈良時代(律令期)以前のとても古い文書ですから、色々とクセがあり読みにくいものです。

けれどもその『日本書紀』が読めるようになれば「六国史りっこくし」の残りの5つ、すなわち『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』は『日本書紀』よりも新しい文書ですし、これらは律令期に入って時間が経ってから作成されていますから「定型化」している(すなわちある程度共通化されたパターンがある)ので、これらも自然に読めるようになると思います。

さて、インターネット上の情報は玉石混交です。根拠が怪しい、根拠が乏しい、または学問の成果を無視して勝手な解釈で書いているトンデモないものまで多く存在しています(Wikipediaも然り)。それらはその道の研究者でないと、なかなか見抜けないものもあります。

ですから、やはり原典にあたり、先学諸氏の功績や研究者たちのさまざまな解釈を参考にしながら、自分で辞書をひいて、自分で確認することが大事だと思います。

そのことにかけた手間や時間、そうして得られた知識は、自分にとって目に見えない生涯の宝物となるだろうと思います。

学問に何よりも必要なのは「根気」と「努力」だと思います。

「ローマは一日にして成らず」
「学問は一夜にして成らず」

です。^_^


(令和六年夏五月丙子 九條正博 記/令和六年夏八月改訂)

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