梶井基次郎の想い出など(阿倍野区逍遥)
九條です。
先日ご紹介した大阪市阿倍野区の安倍晴明神社さんから東へ100m(徒歩1分)ほどのところには、昭和初期に活躍した作家(小説『檸檬』で有名な)梶井基次郎(1901年〜1932年/明治34年〜昭和7年)がその生涯で最後に住んだ住居跡があります。
梶井基次郎旧居跡
現在、梶井基次郎が住んだ家は残っていませんし正確な位置も分からなくなってしまっているのですが、その付近に大阪市教育委員会による「梶井基次郎旧居跡」のステンレス製の説明板が設置されています。
この(梶井基次郎が最後に住んだ)家での彼の闘病の様子は、彼の母である梶井久によって短い手記『臨終まで』として残っています。
この梶井久による『臨終まで』は青空文庫でも公開されています。10分もあれば読了できるほどの短い手記ですが、その内容は壮絶な彼の闘病とその彼に対する母や家族の愛情・人間模様が見事に描かれた、切なく悲しい記録です。
もしよろしければ、お読みになってください。
阪堺電車「東天下茶屋」駅
梶井基次郎旧居跡から西へ約200m(徒歩約2分)のところにある阪堺電車の「東天下茶屋」駅のホーム上には、大阪馬車鉄道発祥の地を記念して「馬車鉄道跡」の立派な石碑と説明板があります。大阪馬車鉄道は阪堺電車の前身となった会社です[1]。
織田作之助来遊の地
また、この「東天下茶屋」駅から北へ800mほど(徒歩約15分)のところには「織田作之助来遊の地」の石碑もあります。
この「織田作之助来遊の地」の石碑は、大阪キリスト教短期大学の敷地北東端(柵の外)にあります。
[1] 大阪馬車鉄道は1897(明治30)年に設立され、1900(明治33)年に開通しました。その後に改軌(レールの幅を拡げる工事)および電化(電車化)して1910(明治43)年に電車の運転を開始し、現在の阪堺電気軌道(阪堺電車)へと至ります。
写真:2022年9月 九條正博 撮影
©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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