九條です。
いまから1380年ほど前の大化2(646)年3月22日。
時の天皇であった孝徳天皇は、ひとつの詔を発布しました[01]。
その内容は、それまで無制限であった陵墓(今で言う古墳)の築造規模に対して、日本史上で初めて(人々の負担を軽減するために)法的な制限を設けたものです。
これがいわゆる(大化の)「薄葬令」であり、大化改新によって施行されたとされる新政策のひとつと言われています。
この「薄葬令」は、古墳時代が終焉へと向かうひとつの契機となった法令だと言われ、律令時代の幕開けを告げるものとも言えます。日本史上(古代史上)においてひとつの画期となる法令です。
では、その孝徳天皇の思いを読み解いてみたいと思います。
今回の講読内容は、第3回講読「国分寺建立の詔」とボリューム的にはあまり変わりませんが、年代はさらに100年ほど古くなり、律令期よりも前の古い文書であるためにその難易度は高くなっています。
なお、原典についても第1回講読「大仏造立の詔」と第2回講読「国分寺建立の詔」が『続日本紀』であるのに対し、今回の「薄葬令」は『日本書紀』です。
原文は漢文ですが、やはり読み下してみると非常に美しくリズミカルで格調高い古代日本(飛鳥・白鳳時代)の文章です。ぜひ味わってみてください。
ですから今回の「読み下し」も、いつもよりかなり丁寧に「ふりがな」をつけてみました。^_^
では、早速…
【註】
[01]『日本書紀』孝徳天皇二年三月二十二日条(国史大系版『日本書紀』(前編)吉川弘文館 1973年)
[02]西土(もろこし)唐土。当時の中国大陸をさして言う
[03]封かず樹えず(つちつかずきうえず)盛り土も植樹もない
[04]棺槨(ひとき)棺と棺を入れるための箱
[05]宍(しし)肉のこと。ここでは人の肉体をあらわす
[06]丘墟(きゅうきょ)荒れた高台
[07]塗車(かたくるま)死者の守りとして死者とともに葬った土製の車
[08]蒭靈(くさひとかた)草や木で作った人形。
[09]珠襦(たまのこしころも)王の上着
[10]玉※木甲(木へんに甲)(たまのよろい)王の下着
[11]愚俗(おろかびと)世俗、俗人
[12]玄室のこと
[13]濶さ(ひろさ)幅
[14]役(え)労働者、作業従事者、労役する人
[15]轜車(きくるま)棺を載せて運ぶ車。喪車。貴人の葬儀に用いる
[16]大仁・小仁・大禮・小智:厩戸皇子(聖徳太子)が定めた冠位十二階の階位
[17]麁布(あらきぬの)粗末な布。織目のあらい布
[18]殯(もがり)本葬まで貴人の遺体を棺に納め数日から数ヶ月間、仮の安置をすること。現在の通夜の起源と考えられる。
[19]殉う(したがう)死者の後を追って死ぬこと。殉死
[20]誄(しのびごと)弔辞
[21]五綵(いつくさのしみのもの)五色の模様
※1997年に行なった市民講座向けの講義ノートから抜粋・編集しました。
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