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【教養】美術を「感じたまま鑑賞する」のは難しい。必要な予備知識をインストールするための1冊:『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』(秋元雄史)

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「感性」では美術を鑑賞できない。知識がなければ、いくら見たって分からない

美術の鑑賞に、何故「知識」が必要なのか

私は意識的に、時々美術館に行くようにしている。せっかく東京に住んでいるのだし、やはり「教養」として、美術を知っておくことはなんとなく大事だと思っているからだ。

しかし、観ても大体よく分からない。

もちろん、見て「あぁこれは好きだなぁ」と感じるような美術作品に出会うこともある。私にとって非常に印象的だったのは、白髪一雄というアーティストの作品だ。正直、何に凄いと感じたのかまったく説明できないのだが、これまで美術展で観たどの作品よりも衝撃的で、「凄いものを観た」という印象だった。

確かに、そういうことは時々ある。しかしだからと言って、そういう「感性に任せた鑑賞」が正しいというわけではない。著者はこんな風に書いている。

絵画の鑑賞法として、よく「感じたままに感性で観ればいい」という人がいます。もちろん、何の予備知識もなく偶然出合った絵に、心を打たれるような体験をする人もいるでしょうが、多くの場合、何の予備知識もなければ「何を感じて良いかもわからない」状態になるはずです。
そのような事態を避けるためにも予備知識は必須なのです。

こういうことをちゃんと教えてくれる大人にもっと早く出会いたかったものだ。

私が面白いと感じたのは、「なぜ日本では、『感性のまま観る』という鑑賞法が定着したのか」の説明である。

「感性のおもむくまま観る」といった鑑賞の仕方は日本特有のもので、日本美術の歴史とも深く関わっています。一般の日本人が西洋美術に触れたのは、明治の文明開化以降のことでした。その頃の西洋美術は、「印象派」全盛の時代でした。印象派の作品は、理屈抜きで純粋に目の娯楽として楽しめます。
神話や古典を基盤とした従来のアカデミスム絵画は、鑑賞するにあたって高度な教養が求められていましたが、印象派の絵を見る際に、専門的な知識・教養はさほど必要ではありません。
多くの人は幸か不幸か、印象派の作品が西洋絵画を代表するものとすり込まれてしまいました。以来「アートは感じたままに観ればいい」となってしまい、本来知識や教養が必要とされるはずの西洋美術に馴染めなくなってしまったようです

なるほど、私たち日本人は、「西洋美術」との出会い方が、少しばかりまずかったようだ。著者の説明は非常に分かりやすいと感じるし、「やはり美術の鑑賞には知識が必要なのだ」という理解にも繋がるだろう。

アメリカでは、「美術は勉強するもの」というのが常識だそうだ。

ニューヨークの社交界では、ニューヨーク近代美術館(以下MoMA)のボードメンバーかどうかが非常に重要視されます。どんなにお金を持っていようが、芸術の話題を出せないようでは、まったくもって話になりません。
つまり、美術鑑賞という行為は、品格のある者に求められる教養である、という共通認識があるのです。
そのため、地位も名誉も資産も勝ち取った初老のセレブリティや富豪たちが、こぞってMoMAの主宰する講習会に参加し、ボードメンバーになるべく勉強するのです

本書に書かれているわけではないが、欧米ではお金持ちになったら寄付をするのが当たり前だ、という話を聞いたことがある。正確には覚えていないが、キリスト教圏では「富を持つことは罪だ」というような発想があるようで、だから寄付文化が根づいているという説明だったと思う。

日本では、「お金を持っていること=偉い・羨ましい」という発想に陥りがちだが、欧米では、美術の教養や寄付行為などがなければ、いくらお金があっても認められないというわけだ。このような「社会的豊かさ」があるのとないのとでは、国全体の文化的資本も大きく変わってくるだろうと感じる。日本でも、教養のない金持ちは評価されない、という風になってほしいものだと思う。

さてで西洋美術館鑑賞のためには、どんなことを学ぶべきなのだろうか。具体的には是非本書を読んでほしいが、著者が挙げているものの1つに「人間の描き方」がある。

西洋において、人間は全知全能の神が自らに似せて創ったものとされます。ですから、人間を徹底的に観察することで、神や宇宙を知ろうと考えました。
(中略)
そのため、キリスト教絵画では、自然を描く風景画は、格が低いものとみなされ、産業革命を経て写実派が登場する以前、西洋では風景画はほとんど描かれてきませんでした。

やはり美術の鑑賞には、キリスト教の素養は不可欠だと言っていいだろう。それもまた、我々日本人が西洋美術を学ぶ上でのハードルだと言える。しかしこの違いは反対に、驚きを与えることにもなったという。

一方、日本では太陽や月、風や雨、動植物も人間もみんな神様です。人間もあくまで自然の一部でした。そうした視点で自然を描いた日本の浮世絵などに19世紀のヨーロッパの画家たちが衝撃を受けたことも、日本と西洋の文化的な違いを知っていれば、理解できることでしょう

東洋人が西洋の美術に触れることは、文化や価値観のギャップを知る機会でもあるし、逆もまた然りというわけである。だからこそ、美術の理解のためには、その前提となる文化や価値観を知っておく必要があるのだ。

「現代アートは分からない」のが当たり前

本書の著者は、東京芸術大学美術館と練馬区立美術館の館長を務める人物だが、そんな人がこんなことを言っている。

よく現代アートを「わからない」という人がいますが、マネやマティス、ピカソやゴッホも当時からすれば今でいう現代アートの扱いでした。彼らも当時は「よくわからない」と批評されたのです。正直にいうと、専門家でも「よくわからない」という状況はよくありますし、それは今も昔も変わりません

まず、こんな風に言ってもらえると、芸術のド素人としては安心できる。専門家でさえ「よくわからない」なら、我々に分かるはずがない。

例えば、ピカソは現在でこそ誰もが知るほど有名で高く評価された芸術家だが、

しかし、この時代にピカソと交流していたモンマルトルの仲間たちですら、この作品を初めて観たときは「ピカソは気が狂ったのではないか」と本気で心配したといいます。それほどこの作品は当時の常識からかけ離れていたのです

と本書には書かれている。どの時代でもアートの最先端というのは、最前線を突き抜けた者にしか理解できないということだろう。

また本書には、デュシャンの「泉」という作品についての言及がある。私は、この作品の存在とその評価について知った時は驚愕した。

まず、この「泉」という作品の評価について触れておこう。

2004年に、世界の芸術をリードする500人に「最もインパクトのある現代美術の作品」を5点選んでもらったアンケート調査でも、あのピカソの<アヴィニョンの娘たち>を抑えて1位となりました。多くの人が現代アートの出発点と考えているのが、デュシャンの<泉>なのです

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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