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【希望】誰も傷つけたくない。でも辛い。逃げたい。絶望しかない。それでも生きていく勇気がほしい時に:『私を見て、ぎゅっと愛して』(七井翔子)
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20年前に読んで衝撃を受けたブログ本『私を見て、ぎゅっと愛して』(七井翔子)は、今読んでも多くの人に響くだろう様々な「葛藤」に満ちあふれている
本書が文庫化されたのは2021年のことですが、本書が発売されたのは2006年でした。当時、「話題になった一般人のブログを書籍化する」というのが出版のブームだったはずで、そういう流れの中で発売された本だったと思います。本書も、七井翔子(仮名です)がブログに書き綴っていた「日記」を書籍化したものであり、本書には「実際に起こった出来事」や「その時の自身の感情」が書かれているわけです。
その内容はとにかく、「これが本当に実話なの!?」と衝撃を受けるものでした。しかも、単に「展開が衝撃的」というだけではなく、圧倒的に文章が上手いのです。私は正直、「どこかのベストセラー作家が、名前を伏せて『フィクション』としてこの本を出版した」と言われても信じたでしょう。それぐらいフィクショナルだし、また、自身の内面が圧倒的な文章力で表現されているのです。
もちろん、ブログに書かれたことだし、著者は本名を隠しているので、書かれている内容が真実かどうかはっきりとは分かりません。ただ逆に考えると、「これほど『出来すぎた話』を『実話です』と言って世に出す」のは、むしろ勇気がいるように思います。また、本当に実際に起こった出来事だからこそ、その時の感情をリアルに綴れているのだとも考えられるでしょう。まあ色んな捉え方があるとは思いますが、私は「本書に書かれていることは真実だ」と受け取っているし、そのように読まれたらいいなとも思っています。
今までたくさん出会ってきた、「生きづらそうには見えないけど、実はとても生きづらい人」
2006年当時、23歳だった私は、色んな事情があって自分の環境に激変があり、メンタル的にもかなりやられていました。そんな時に本書に出会ったので、その時には「七井翔子が抱える様々な葛藤」に自分自身を重ねるようにして読んだはずです。
さてその後、2021年に文庫化された本書を改めて読んでみたのですが、やはり23歳の時とは読み方が変わりました。私は割とメンタル的にかなり安定して生きていけるようになったので、七井翔子の人生に自分を重ねるような読み方はしていません。ただ一方で、私は大人になってから、「生きづらそうには見えないけど、実はとても生きづらい人」にたくさん出会ってきました。そして、そういう人たちのことを頭に思い浮かべながら本書を読んでいたのです。
『私を見て、ぎゅっと愛して』は著者が自分自身について書いている本であり、さらに彼女は自己評価がとても低いので、彼女が自身について触れている描写から「どんな人物なのか」を捉えるのはちょっと難しいかもしれません。ただそれでも、本書を読む限り、七井翔子という女性は恐らく、「傍目には『生きづらそうな人』には見えない」のだろうと感じました。塾講師として生徒からの支持が篤く、人見知りのようですが気が合う人とは気持ちよく関われます。また、本人が直接的にそう書いているわけではありませんが、恐らく容姿も整っているのでしょう。長く付き合っている恋人がいて、その人と結婚の予定もあります。このような情報だけ聞けば、「生きづらさ」とは無縁に思えるかもしれません。
しかし七井翔子は、誰にも口に出来ない様々な「葛藤」をその裡に抱えており、傍目には「恵まれている」と映る状況にありながら、日々「生きづらさ」と闘い続ける人生を歩んでいるのです。
私がこれまでに出会ってきた「生きづらそうには見えないけど、実はとても生きづらい人」も、同じような感じでした。その内面について深く知るまでは、「誰とでも楽しそうに話すし、趣味もあるみたいだし、容姿も整ってるし、人生充実してるんだろうな」みたいに感じるのですが、その内面を明かしてくれるようになると、その落差に驚かされてしまうのです。私はこれまでに、「日常的に遺書を書いています」とか、「自分のことを乱暴に扱って“くれる”、決して好きではないセフレとの関係が切れない」とか、「昔は、虫が這い回る部屋でただ横になっていることしか出来ないぐらい、何もする気が起きない時期もありました」みたいに言う様々な人に出会ってきました。そういう人と出会う度に、「本当に、人は見た目では分からないものだ」と感じさせられるのです。
さて、七井翔子は自身についてこのように書いています。
私は愛される価値のない人間だという自虐。私は自分を痛めつけることで、心を平らかにできる。
先ほどの「セフレとの関係が切れない」という話も近いと思いますが、「『自身を酷い状況に置く』という選択をしなければ耐えられないくらい、自分に価値を見出すことが困難な人」は一定数います。しかしこのような感覚は、普通にはまず理解されません。本作には、七井翔子の周囲にいる家族や友人が様々に登場するわけですが、やはりそのほとんどが、彼女の行動を「理解できない」と受け取ります。そして、そうであることが分かっているからこそ、「笑顔で楽しそうに振る舞う」ことで「擬態」しているのです。
ボケっとしてないで、なんとかしなさい。どうしてアンタは自分の感情を押し込めて押し込めて押し込めて生きているの。精神病って何よ。私にはただの甘えにしか映らないわっ!
これは著者の姉の言葉で、姉はとにかく著者のことをまったく理解しようとしません。こういう人が周りにいると、本当にしんどいなと感じます。「どうしたってそういう風にしか生きられない」みたいな感覚を、単に「甘え」と判断されてしまうことはとても辛いことだし、そういう「無理解」が余計「擬態」を助長させるという悪循環にも繋がっていくわけです。そういう世の中のことを、私はとても嫌悪しています。
私は七井翔子ととても感覚が近いと思う
もしかしたら、『私を見て、ぎゅっと愛して』を読んで、「著者にまったく共感できない」みたいに感じる人の方が多数派なのかもしれません。そしてそういう人は恐らく、彼女の周りにいる人の意見や言動に賛同出来るのだろうと思います。
しかし私は真逆でした。最初から最後まで、七井翔子の感覚にとても共感できたのです。そして私は、彼女の周りにいる「あなたの感覚はおかしい」と指摘する人たちの方に、むしろ違和感を覚えてしまいます。確かに、何かを決めたり選んだりするのであれば「多数派」の意見を採用するのが合理的でしょう。しかし、「多数派の意見だから正しい」みたいな主張には、私はどうしても納得できないのです。
1つ、作中からこんな場面を抜き出してみましょう。なるべく具体的に触れないように書きますが、著者は学生時代からずっと信頼してきた親友からとんでもない”裏切り”に遭います。『私を見て、ぎゅっと愛して』ではかなり衝撃的な展開がいくつも描かれるのですが、その中でも最大級と言っていいほどの驚きをもたらす事実が明らかになるのです。しかしそのことが発覚した後も、彼女は親友のことをどうしても恨む気持ちにはなれません。あまつさえ、次のような感覚さえ抱くのです。
もう、私と由香は本当に親友に戻れないって思って、それが悲しい。
その”裏切り”がどんなものなのかこの記事では触れるつもりがないので、なかなか判断しにくいとは思いますが、本書を読んだ人はきっと「あり得ない」と感じることでしょう。まさに、先ほども紹介した姉がそのような反応をしており、再び「理解できない」という感覚を突きつけるのです。まあこの場合は、姉の反応は健全と言えるだろうと思いますが。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
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