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【知的】文系にオススメの、科学・数学・哲学の入門書。高橋昌一郎の「限界シリーズ」は超絶面白い:『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』

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高橋昌一郎「限界シリーズ」3作を一気に紹介。人間の「理性・知性・感性」の限界を認識しておこう

この記事では、『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』という、いわゆる「限界シリーズ」3作を一気に紹介する。タイトルの字面も、「講談社現代新書」から出版されているという事実も、なんとなく「難しさ」を感じさせるかもしれないが、そんなことはない。後で詳しく触れるが、「会話形式」になっており、見た目の印象とは大きく違って非常に読みやすい作品だ。

テーマも多岐に渡り、「科学」「数学」のような理系分野から「言語」「思考」、あるいは「愛」「自由」など様々な領域の話題に触れられていく。特定の話に留まらず、複数の分野の話題をシンプルにまとめているので、「特定の知識について知りたい」という動機ではなく、「知的好奇心を味わいたい」という気分で読むことをオススメする。

それまでの「限界シリーズ」と同じように、本書の最大の目標は、なによりも読者に知的刺激を味わっていただくことにある。

「感性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

読む順番は、出版順である必要はない。興味のある巻から読んでもらって大丈夫だ。どれか1冊読み、その議論のスタイルが気に入れば、関心の持てないテーマだとしても別の作品も読んでみよう。テーマとして設定されている話題以外にも様々な話が盛りだくさんなので、メインテーマだけで判断するのはもったいないと思う。

「架空のシンポジウム」という設定

本書の最大の特徴は、様々な人物が「架空のシンポジウム」で話しているという設定で議論が展開されることだ。これが、難しいテーマを扱いながら読みやすい作品に仕上がっている最大の要因と言えるだろう。

シンポジウムという設定なので、「論理学者」「数理経済学者」「科学主義者」「軍事評論家」「急進的フェミニスト」など、堅い肩書きを持つ人も当然出てくる。しかしそれだけではない。本書には、一般人代表として、「会社員」や「学生A」といった人物も出てくるのだ。

議論はこんな風に展開する。専門家がある話題を出し、それに別の専門家が批判を繰り出す。と同時に、「会社員」や「学生A」が、そもそもそれってどういうことなんですか? と素朴な疑問をぶつけていく。「司会者」がきちんと議論を采配しながら、参加者みんなであーでもないこーでもないと意見や疑問をぶつけ合うスタイルなのだ。

『理性の限界』で初めてこの構成に触れた時には衝撃を受けた。

私は、科学・数学・哲学などの分野が好きなのだが、決してそれらをするっと理解できるほど頭が良いわけではない。いわゆる「下手の横好き」であり、好きなんだけど決して得意ではないのだ。

だから、「科学者や哲学者が一般向けに書いた本」でも難しく感じることが結構多い。

もちろん、そういう専門家の中にも、異常に読みやすい文章を書いてくれる人はいる。しかし、みんながみんなそうではない。どうしても、基本的な知識やある程度以上の理解力がないと読めない本もあって、なかなか苦労させられてしまう。

しかしこのシリーズのようなスタイルだと、扱われている内容が高度でも、議論の進め方が非常に秀逸なので、割とすんなり理解できる。特に、「会社員」や「学生A」が、読者が疑問に感じる部分を先回りで質問してくれるので、とてもありがたい。

本書は、このようなスタイルの本であるため、個々の話題についてそこまで深堀りはされない。しかし、本書を読んだ後でそれぞれの話題の入門書に進めば、理解度は格段にアップするだろうと思う。

「何かを知る」ためにはそもそも、「その『何か』が存在していること」を認識しなければならない。しかし本書で扱われるテーマの多くはそもそもその存在を知る機会が少ないものだと思う。また、「愛」「自由」といった普遍的なテーマも取り上げられるが、それらに対してどのような知見・議論が存在するのかを知らないことも多いだろう。

だからこそ、まずは「この世の中に何が存在するのか」を知ることが大事だ。深堀りするかどうかはそこから考えればいい。

そういう、「存在を知る」という意味で、本書ほど秀逸な作品はなかなかないだろう。

それではここから、3作それぞれにおいてメインとなるテーマや、私が面白いと思った話題について個々に触れていくことにする。この記事では当然「架空のシンポジウム」のやり取りを真似ることは難しいので、紹介するテーマや議論を難しいと感じることもあるかもしれない。しかし、「架空のシンポジウム」という議論スタイルを通せば格段に分かりやすくなるので、この記事だけで難しさを判断しないでもらえるとありがたい。

アロウの不可能性定理:『理性の限界』

「アロウの不可能性定理」は、ざっくり言えば「投票」に関する話だ。その帰結を難しく書けば、「完全に民主的な社会的決定方式は存在しない」となる。分かりやすく書くと、「世の中に存在するすべての『投票形式』にはどれも欠陥がある」というイメージだ。

「投票」の話は、国政選挙や人気投票など、日常の様々な場面で出てくるかなり身近な話題と言っていいだろう。そして研究によって、「どのような『投票形式』を採用するかで、同じ得票数でも結果が変わってしまう」ことが既に明らかになっている。投票形式のち外で、どんな人が1位になりやすいかが変わってくるのだ。そう言われると、ちょっと自分にも関係しそうな話だと感じられるだろう。

この「アロウの不可能性定理」は非常に難解なようで、自力で証明できる経済学者はほとんど存在しないと言われているらしい。しかしそんな難しいテーマを、なんとなく分かった気にさせてくれるのだ。

「アロウの不可能性定理」の説明のために、過去あった実際の選挙の話題が多数取り上げられる。ブッシュとゴアがアメリカ大統領選で争った際には、ゴアの方がブッシュよりも33万票も上回っていたのだが、実際に当選したのはブッシュだった。これは、「勝った方が、その州の票を総取りできる」という選挙の仕組みによるものだ。また、フランスで行われたある選挙では、上位2名による決選投票が行われるスタイルで争われたが、最有力とされていた候補が決選投票に進めないという波乱があった。これもまた、投票形式によるものなのだ。

実際、私たちの日常生活でも、状況に適した投票形式が採用されている。「単記投票方式」や「上位二者決選投票方式」では「強いリーダーシップを持つ者」が選ばれ、「順位評点方式」は様々な分野の専門家集団から代表者を選出する場合に使われ、「勝ち抜き決選投票方式」は企業の商品開発の現場でよく見られるという。

普段特に、「投票形式」のことなど意識せずに投票してしまうが、それぞれが持つ性質はかなり違うということだ。考えたことなどなかったので、「違いがある」ということに驚かされた。

また、「アロウの不可能性定理」と直接には関係ないのだが、「囚人のジレンマ」に関する話も出てきて興味深い。「囚人のジレンマ」についてはちょっと自分で調べてほしいが(「ゲーム理論」と呼ばれる分野で非常に有名だ)、この「囚人のジレンマ」をゲーム化しプログラム同士で闘わせた結果、「TFT」あるいは「しっぺ返し戦略」と呼ばれる、相手の打った手をそのままやり返す戦略が最も勝ちやすいと分かったそうだ。この話もとても面白かった。

ハイゼンベルグの不完全性原理:『理性の限界』

「ハイゼンベルグの不完全性原理」は、科学の世界の「量子力学」という分野で登場する。非常にざっくり説明すれば、「小さな物質の『位置』と『速度』を”同時に正確に”測定することはできない」という、「量子力学」の世界を制約する強いルールのことを指す。私たちの日常生活では、「位置」と「速度」を同時に正確に測定することは決して難しくないが、極小の世界になるとそれが「原理的に」不可能なのだ。「原理的に」というのは、測定機械の精度に制約があって調べられないのではなく、どれほど精密な測定機械を作ったとしても不可能という意味である。

この不確定性原理、あまりに私たちの日常感覚とかけ離れているためイメージするのは難しいが、本書の「バードウォッチング」を例にした説明が非常に分かりやすかったので紹介しよう。

いつか友人と一緒にバードウォッチングに行った時に、似たような経験をしました。バードウォッチングの醍醐味は、まったく自然のままの鳥の姿を見て、その鳴き声を楽しむことにあります。遠くから双眼鏡を使えば、いきいきとした鳥の姿を観察することはできますが、あまり鳴き声が聞こえません。ところが、鳴き声が聞こえるまで鳥に近づこうとすると、今度は鳥が人の気配を察して逃げてしまうのです。つまり、自然なままの「鳥の姿」と「鳴き声」を同時に味わうのは非常に難しいわけでして……

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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