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【博覧強記】「紙の本はなくなる」説に「文化は忘却されるからこそ価値がある」と反論する世界的文学者:『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ)
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電子データは「『忘却されない』というデメリット」があると主張し、文化が持つ「フィルタリング」という本質を説く
本書は、2人の書物愛好家が「紙の本」の価値について語り合う作品だ。
ただ、よくあるような「紙の本って素晴らしいよね」という単純な礼賛の本ではない。本書では、
世界規模で進められている文書のデジタル化と新しい読書ツールの導入という試練に直面している今
において、「電子データ」と比較して「紙の本」には「忘却される」という価値があるのだと指摘する。これはなかなか理解しにくい主張だと思うが、本書を読むと「なるほど」と感じさせられるし、「文化」というものの本質にも触れられるだろうと思う。
本書には、
書物がフィルタリングという災難にもめげず、結局は張られた網をすべてかいくぐり、幸運にも、また時には不運にも、生きのびてきた。
というような形で「フィルタリング」という単語が登場する。そして、まさにこれが、「忘却という価値」の本質なのだ。
この指摘は、決して「本」に限らない。ありとあらゆる「文化」が「電子化」される世の中では、文化の本質的な価値が失われ兼ねないと本書は警鐘を鳴らしているのだ。
そんな彼らの、危機を共有しながらもやはりどこか愉しそうな、「紙の本」にまつわる主張を見ていこう。
「忘却」という文化の価値について
まずは次の文章を読んでもらおう。
カエサルの最後の妻カルプルニアのことは、カエサルが暗殺された三月十五日までは、何でもわかっています。三月十五日、カルプルニアは不吉な夢を見て、夫カエサルに元老院に行かないでくれと頼みました。
カエサルの死後のカルプルニアについては、いっさい情報がありません。彼女は我々の記憶から姿を消したのです。なぜでしょう。これはなにも、彼女が女性だったからというわけではありません。(中略)文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです。現代の文化は逆に、インターネット経由で、世界じゅうのあらゆるカルプルニアたちについて、毎日毎秒、詳細な情報をまき散らしているので、子供が学校の宿題で調べ物をしたら、カルプルニアのことを、カエサルと同じくらい重要な人物だと思うかもしれないほどです(ウンベルト・エーコ)
カエサルの妻については、カエサルの死後以降のことについてはまったく知られていない。それは、「彼女について何も語られていない」ことを意味するわけではない。恐らく、何かは語られていただろうし、それを記録した文書も何かしらは存在したことだろう。しかしそれは、現在まで残らなかったのだ。
このように、記録されていた(かもしれない)情報が失われることを、本書では「忘れる」と表記している。「忘れる」の主語は、「文化」だと考えればいいだろう。引用中の「文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです」という一文からもそうだと判断できる。
つまり、ここで主張されているのは、「文化は忘れることで選別を行っている」ということだ。もっと言えば、「選別されないものは、文化ではない」となるだろう。
もしこの主張を受け入れるならば、「電子データは『文化』ではない」ということになる。何故なら「電子データ」は「基本的には情報が失われない」からだ。
電子データの情報が失われる可能性ももちろんあるが、重要なのは「『電子データ』は失われないと私たちが考えている」という点だろう。恐らく人類の歴史上、そんな環境が実現したことなどなかったのではないか。そしてそのことが、「文化である」という重要な本質を結果的に失わせているのではないか、と指摘しているのだ。
この「文化が選別を行う」という主張は少し分かりにくいかもしれない。ここでは、「紙の本」と「ネット上の文章」を比較することで、もう少し分かりやすい形で「選別」の意味について考えてみることにしよう。
「紙の本」が出版されることは、まさに「選別」の果てにあると言える。出版社が「売れる」と見込んだもの、あるいは「売れるかどうか分からないが後世に残す価値がある」と判断したものしか書籍化されない。さらに「紙の本」には、ページ数という物理的な制約も存在する。製本の限界を超えて、ページ数を増やすことはできないのだ。つまり、「何を書くか」も絞らなければならないのである。
一方、電子書籍やネット上の記事には、「紙の本」のような「選別」は存在しないだろう。売れるかどうか分からなくてもとりあえずアップしておけるし、分量の制約もない。「選別」という関門をくぐらずとも、あらゆるものが同じ土俵に乗れるのである。
こう考えた時、とりあえず「電子データ」については、「選別されないものは、文化ではない」という主張に一理あると感じるのではないだろうか。
また「電子データ」には、「ひとりでに記録する」という性質もある。防犯カメラの映像、GPSによる経路記録、ネットショッピングの注文履歴など、「記録しよう」と考える主体が存在しなくても記録されていく情報はとても増えただろう。これもまた「選別」という過程を経ないものだ。
「勝手に記録される」という点もまた、電子データが文化の基盤にはなり得ないと思わせる要素の1つではないかと思う。
「フィルタリングを経た文化」が我々に共通基盤を与える
本書では、「フィルタリングがなされることで、共通の『百科事典』を手にすることができる」という内容のこんな文章がある。
諸文化は、保存すべきものと忘れるべきものを示すことで、フィルタリングを行います。その意味で、文化は我々に、暗黙裡の共通基盤を提供しています。間違いに関してもそうです。ガリレイが導いた革命を理解するには、どうしてもプトレマイオスの学説を出発点にしなければなりません。ガリレイの段階までたどり着くには、プトレマイオスの段階を共有しなければいけないし、プトレマイオスが間違っているということをわかっていなければいけない。何の議論をするにしても、共通の百科事典を基盤にしていなければいけません。ナポレオンなどという人物はじつは存在しなかった、ということを立証することだってできなくはない――でもそれは、我々が三人とも、ナポレオンという人物がいたということを知識として学んで知っているからです。対話の継続を保証するのはまさにそれなんです。こういった群居性によってこそ、対話や創造や自由が可能になってくるんです。
インターネットはすべてを与えてくれますが、それによって我々は、すでにご指摘なさったとおり、もはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされ、結果的にいまや、世の中に六〇億冊の百科事典があるのと同じようなことになりかねないのです。これはあらゆる相互理解の妨げになるでしょう(ウンベルト・エーコ)
私はこの中の、「六〇億冊の百科事典があるのと同じようなこと」という指摘に特に納得させられた。確かに、今私たちが直面している問題は、「皆が共通の基盤持っておらず、個々人がてんでバラバラの百科事典を元にコミュニケーションをしていること」によって生まれると考えると理解しやすい。
上記の引用の主張を、私なりにもう少し分かりやすく説明してみたいと思う。
電子データが存在しない世界でも、情報はもちろん常に増え続けるわけだが、同時に忘却されフィルタリングされることで減りもする。この、増えもするし減りもする情報の総量を「1,000」としてみよう。増える量と減る量が同じで、常に送料は一定になっていると仮定するのである。そしてこの「1,000」が、人類にとっての共通基盤となる百科事典というわけだ。さらに、人間が認識できる情報の上限を「100」だとしよう。
私たちはもちろん、「1,000」すべてを認識することなどできないわけだが、「1,000」から各々が「100」取り出すことを考えた時、そこまで大きな齟齬は存在しないと想定できる。もちろん「1,000」からどのように「100」を取り出すかによってコミュニケーションや理解に齟齬は生まれるのだが、それでも上限が「1,000」なのだから、そこまで大きな差は生まれはしないという意味だ。
一方で、電子データが存在する世界では、忘却というフィルタリングは行われない。つまり、情報は増え続ける一方というわけだ。その総量は「10,000」「100,000」「1,000,000」「10,000,000」「100,000,000」……といくらでも増えていく。
仮に、今私たちの世界にある情報の総量が「100,000,000」だとしてみよう。私たちはここから「100」を取ることになるが、その取り方は「1,000」から「100」を取る場合と比べて膨大な可能性が存在する。これが、引用中にある「自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされ」という状況だ。「文化」がフィルタリングを行わないのだから、各自でやるしかない。そしてそれゆえに、私たちは共通基盤を持てなくなってしまうというわけだ。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
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