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【評価】高山一実の小説かつアニメ映画である『トラペジウム』は、アイドル作とは思えない傑作

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高山一実が現役アイドル時代に執筆した小説『トラペジウム』と同名アニメ映画が、とにかくメチャクチャ面白くてビックリした!

小説もアニメ映画も、驚くほど面白かったです! 乃木坂46を割と箱推ししていたこともあり、小説を読んでみたのですが、想像以上に面白くてビックリしました。その後、アニメ映画が公開されたことは知っていたのですが、特に観るつもりはなく、ただ次第に、「ネットで『トラペジウム』が話題になってる」みたいな情報が視界に入るようになります。それで、「原作も良かったし、観てみるか」と思ったというわけです。

で、アニメ映画もとても良い作品でした。原作を読んでから大事時間が経っていたので、小説と比べて内容がどうだったのかみたいな比較は出来ないのですが、内容がちょっと変わっていたような気もします。エンドロールによると、原作者の高山一実が監修も行っているそうなので、内容の改変も全然あり得るでしょう。

「『美人であること』は幸せなのか?」という、私がよく考えてしまう疑問について

さて、いきなり変な話から始めますが、私は昔から「美人は本当に幸せなんだろうか?」と感じてきました。もちろん、幸せな人もいるでしょう。ただ、「美人なんだから幸せなはずだ」みたいな捉え方は違うんじゃないかと思っています。むしろ、ある種の「呪い」として機能してしまっている人もいるはずです。さらに難しいのは、「美人側の人は、自分が抱いている『大変さ』を表に出せない」ということでしょう。「ないものねだり」や「自慢しているだけ」みたいな話にしか受け取られかねないからです。

そんな疑問について考える際に、私がよく思い出す文章があります。それは、桜庭一樹の小説『少女七竈と七人の可愛そうな大人』の中の一節です。

異性からちやほやされたくもなければ、恋に興味もなく、男社会をうまく渡り歩きたくもなければ、他人から注目されたくもないのに、しかし美しいという場合、その美しさは余る。過剰にして余分であるだけの、ただの贅肉である。
しかも、その悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。過剰に持つものの羨ましい悩みであるとしか捉えられず、かえって非難を浴びることであろう。本人としては、真面目に思っているのだ。美しさに寄り添った人生など不要だ、と。しかし、周囲はそれを理解しない。美しさに付随するありとあらゆるを羨ましがり、それを活かそうともしない人間を軽蔑することであろう。

桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人』

本当にその通りだなと思います。

私は男ですが、女性と関わる方がしっくり来るタイプで、だから異性の友達の方が多いです。そしてその中には、やはり一定数「恋愛的なものにそこまで興味はない」という人がいます。もちろんその中にも色んなタイプがいて、「恋愛はしたいけど苦手」とか「恋愛とかどうでもいい」とか「自分が好きな相手に振り向いてもらえるのは嬉しいけど、不特定多数から興味を抱かれるとかどうでもいい」など様々です。まあ、そりゃあそうでしょう。誰もが恋愛体質なわけではないし、「恋愛よりも趣味や仕事の方が大事」みたいな人はいくらでもいるはずです。

そしてそういう人からすれば、「美人である」という事実はむしろ「ややこしさ」をもたらすことが多くなると言えるでしょう。実際に、女友達から直接そんな話を聞いたこともあります。私が男だから言えたのだと思いますが(恐らく同性には言えないでしょう)、「化粧もせずにダサい格好で大学に行き、目立たないように静かにしていたのに、構内を追いかけ回されたりした」「そういう状況を『羨ましい』と思う女性から妬まれ、恋愛とは関係ない様々な場面でも足を引っ張られ続けた」みたいな話を聞いたことがあるのです。

もちろん繰り返しにはなりますが、「美人として生まれたことにプラスを感じながら生きている人」もたくさんいるでしょう。そして私は、そういう人に対しては何も言及していません。あくまでも「美人として生まれたことにマイナスを感じてしまう人」に対して「大変だなぁ」と思っているだけです。自分的にはプラスは無いのに、「めちゃくちゃプラスがあるはずだ」と受け取られている状況はめんどくささしかないでしょう。それに、ストーカーや性犯罪などの被害にも相対的に遭いやすくなるだろうし、結果として「マイナスだらけ」みたいな感覚になっても仕方ないような気がするのです。

主人公が抱く、「アイドルになりたくない女の子なんているんですか?」という発想について

さて、どうして私はそんな話を冒頭でしたのか。それは、本作の主人公・東ゆうが次のような発言をするからです。

アイドルになりたくない女の子なんているんですか?

『トラペジウム』(高山一実/KADOKAWA)

私、可愛い子を見るたび思うのよ、アイドルになればいいのにって。でもきっときっかけがないんだと思う。だから私が作ってあげるの。

『トラペジウム』(高山一実/KADOKAWA)

彼女にとって「アイドル」というのは「絶対的な善」なのでしょう。だからこそ「誰もが目指すべきもの」だと思えるわけです。さらに、「人生を賭けて挑戦する価値がある」と感じられるものであり、そのためなら何だって出来るとも考えています。なにせ彼女は、次のようにも感じているのです。

初めてアイドルを見た時思ったの。人間って光るんだって。

『トラペジウム』(高山一実/KADOKAWA)

彼女がどれだけ「アイドル」に思い入れを抱いているのかが分かるセリフでしょう。

しかし東ゆうは、「誰もがそう考えているわけではない」ということを失念しています。「可愛いならアイドルになるべき」というのは彼女にとってある種の「憲法」みたいなもので、疑う余地がありません。本当はそんなはずはありませんが、彼女は無条件でそれを信じていられるわけです。だからこそ「猪突猛進」と呼んでいいような振る舞いが出来るのだし、そして同時に、それ故に失ってしまうものも多くありました。

では、この東ゆうのような生き方について、「美人であること」と絡めて考えてみることにしましょう。

「アイドルを目指せる」ということは、ある程度は「美人であること」と相関するだろうと思います。そしてそれは、「選択肢が広がる」とも表現できるでしょう。つまり、「美人はそうではない場合と比べて、選択肢が多い」と言っていいはずです。

ただ、東ゆうを見ていても理解できるように、「選択肢が多いこと」と「その選択肢を実際に選べること」は違います。彼女はずっとアイドルを目指してきましたが、作中のある場面で「オーディションに全部落ちた」と話していました。確かに可能性は広がるでしょう。しかし、その可能性を掴み取れるかはまた別の話です。特に、競争率の高い世界ではなおさらでしょう。

となれば、「選択肢が多いこと」が「プラス」だと言えるのかは人によって捉え方が変わってくるでしょう。「可能性があってそれを目指せる」という事実を「プラス」に感じられる人はいいですが、「可能性があったって、結局実現は難しいんでしょ」と思ってしまう人には「選択肢が多いこと」は「プラス」には感じられないはずです。また、例えばアイドルの世界であれば、「結果として『夢破れる人』の方が多い」わけで、「夢破れる側」だと確定した時にはやはり、「そもそも可能性が無ければ良かったのに」みたいに感じてしまう人だっているんじゃないかと思っています。

さらに、東ゆうが抱いている「可愛い子はみんなアイドルになればいい」という発想は、「美人は美人に相応しい生き方をすべき」みたいな”圧力”であるとも捉えられるでしょう。例えば、凄く美人なのに結婚していない人がいた場合、「どうして結婚しないの?」と、何か悪いことをしているように見られたりもするはずです。単に「結婚に興味がないだけ」であっても、「結婚出来ないぐらい何かマズい部分があるんじゃないか?」みたいに受け取られてしまうこともあるでしょう。そういう見られ方は本当に「ウザい」だろうなと思います。

「可愛い子はみんなアイドルになるべき」という「憲法」を掲げて生きる東ゆうを見ながら、そんなことを考えさせられました。

『トラペジウム』の内容紹介

高校1年生の東ゆうは、「アイドルになりたい!」と強く願っている。そこで彼女は、ある計画を立てた。彼女が住む城州という地域にいる「東西南北の美少女」を集めて仲間にしようというのである。「東」は東ゆう、自分だ。そして残りの西・南・北を事前の調査で見つけ出していた。それから、それぞれの学校に忍び込むことで、お嬢様学校・聖南テネリタス女学院の華鳥蘭子、そして西テクノ工業高等専門学校の大河くるみの2人と無理やり仲良くなることに成功する。さらに、かつての同級生・亀井美嘉と偶然再会を果たし、彼女も計画に加えることにした。

こうして東ゆうは、「アイドルになる」という目標に向けての第一歩を踏み出す。もちろん彼女は、他の3人に「アイドルを目指そう」などと言ってはいない。あくまでも「良い感じの流れ」から「自然にアイドルを目指す雰囲気を作ろう」と考えていたのである。

3人はそれぞれ、とても個性的だった。縦巻きロールにお嬢様言葉の蘭子、NHKのロボコン大会で優勝したことで一躍有名になったくるみ、そしてボランティア活動に熱心に取り組む美嘉。そして東ゆうは日々、それぞれの個性や資質を上手く活かしながら、状況をどう展開させればアイドルになれるのかばかり考えていた。

そんな中彼女は、千載一遇となるかもしれない機会を見出し、そこで僅かなチャンスをものにした。こうして、アイドルとしてのデビューが決まったのだが……。

『トラペジウム』の感想

主人公・東ゆうが「嫌なヤツ」であるという設定が絶妙

さて、先程少し触れましたが、本作ではまず何よりも、「主人公が絶妙に嫌なヤツ」という設定がとても上手く利いていると思います。なにせ本作は、「東ゆうが、自分のことだけを考え、仲間を”利用する”ようにしてアイドルを目指す」という物語であり、彼女が「嫌なヤツ」でなければ成り立たないのです。

ただ、この「嫌なヤツ」という印象はしばらくの間、観客にしか伝わりません。東ゆうは「アイドルになる」という大目標のため、表向きはとても良い印象を振りまいていて、だから悪く見られたりしないのです。その食い違いもとても面白いと言えるでしょう。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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