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【知】内田樹が教育・政治を語る。「未来の自分」を「別人」と捉える「サル化した思考」が生む現実:『サル化する世界』

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内田樹が語る「思考のための言葉」「思考のためのためらい」

タイトルの「サル」は「朝三暮四」がモデル

本書は、内田樹が様々なテーマを縦横無尽に駆け巡りながら、「日本の問題」を深堀りしていく作品だ。内田樹の作品を読む度に感じることだが、私は内田樹の考えが結構好きだなと思う。「主張そのもの」も面白いが、当然すべての主張内容に賛同できるわけではない。しかしそうだとしても、「状況を捉える視点」「思考の際の始点」「掘り下げる際の深度」など、「考える際のスタイル」全般に惹かれてしまう。こんな風に思考を展開できる人になりたいといつも感じてしまうのだ。

さて本書では、政治・労働・社会・教育・歴史など様々な話題が展開されるが、それらにざっくりと「ある種の愚かさ」を通底させている。そしてその「愚かさ」を象徴する存在として、「朝三暮四のサル」を登場させるというわけだ。

「朝三暮四」の由来となったのは、このような故事である。中国の宋にサルを飼っている狙公という男がいた。彼は餌を節約するために、サルたちに「朝3つ、夕方に4つ与えよう」と提案したところ激怒されてしまう。そこで、「だったら、朝4つ、夕方に3つ与えよう」と言ったところ、サルたちは大喜びした、という話だ。

「朝三暮四」は一般的に、「目先の違いに囚われて、結果的には同じだと理解できないこと」という意味で使われる。

内田樹はこの故事成語を持ち出し、現代社会を生きる人の多くが「今の自分」と「未来の自分」との「自己同一性」が失われている、と指摘する。「朝三暮四のサル」のエピソードは、「将来的に負債を抱えることになっても、今が良ければそれでいい」とも解釈でき、つまりそれは、「『未来の自分』を自分のことだと受け取っていない」からこそ可能な発想だ、と内田樹は理解するのだ。

自己同一性が病的に萎縮して、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」と思い込む人たちが多数派を占め、政治経済や学術メディアでそういう連中が大きな顔をしている歴史的趨勢のことを私は「サル化」と呼ぶ

そしてこの「自己同一性の喪失」は、「自分」と「他人」でも起こる。現在は、「自分の国さえ良ければいい」という自国優先主義が幅を利かせているが、これもまた「同一性の喪失」と言えるだろう。

人間の話でも国の話でも、私たちはすでに「全体で1つ」という発想が求められる時代を生きている。気候変動を始め、国家間の協調無くしては解決し得ない問題が山積しているし、男女平等やLGBTQへの理解など「多様性」を求める時代の変遷は、人種の違いや難民問題などに対する意識も大きく変えているはずだ。

しかしそういう時代にあっても、著者が「サル化」と呼ぶ「同一性の喪失状態」にいる者がまだまだたくさんいるし、そういう人たちが教育や政治をメチャクチャにしている。

著者はそのような現状に対して警鐘を鳴らしたいと考えているのだ。

本書には、「サル化」という括りでは捉えにくい話も出てくるが、あくまでも大雑把な共通項だと捉えておけばいい。それでは、私が特に面白いと感じたいくつかの話に具体的に触れていこうと思う。

文科省が公表している「英語を学ぶべき理由」から、教育の衰退を考える

「子どもに英語を学ばせなければ」という感覚を持つ親は多いだろうし、2020年には小学校での英語教育が義務化された。「英語を学ぶこと」への関心や重要性は高まっていると言っていいだろう。

しかし内田樹は、日本の英語教育に対して疑問を抱く。その疑問は「英語を学ぶ理由」に関係するものだ。

著者が考える「外国語を学ぶ理由」の1つは、「目標文化へアクセスすること」である。著者が英語を勉強したのは、「アメリカの文化に触れたかった」というワクワクした気持ちからだったという。映画・音楽・本・アニメなどなんでもいいが、やはりある国の「文化」に触れる時、その国の言葉を正しく理解している方がより深堀りできるはずだ。そして著者は、語学教育は「目標文化へアクセスするという目標のための手段であるべきだ」と考えている。

学校教育の現場で実践可能なのかという点については私にはなんとも判断できないが、内田樹のこの主張は、「外国語を学ぶ」という点では非常に真っ当だと言えるだろう。

さて本書の中で著者は、文科省が示している「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」の文章を引用している。それは以下のようなものだ。

今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を越えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。(中略)
現状では、日本人の多くが、英語力が十分ではないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も生じています

お役所の文章というのは回りくどくてスッと理解できないものが多いが、内田樹はこれを、「外国語なんか学ばなくてもいいのだが、英語ができないとビジネスに支障が出るし、バカにされるから、しょうがなく英語をやるんだ」と意訳している。確かに少なくとも「目標文化へアクセスする」のような目的が一切示されていないことは分かるだろう。

そして著者は、文科省がこのような理由を掲げているせいで日本の英語力は劇的に低下しているのだ、と指摘している。どういうことだろうか?

先に結論を書けば、「教育に利益誘導を持ち込むと、効率を求めるが故に学習意欲は低下する」となる。

「ビジネスのために英語を学ぶ」という目標設定は、「学べばこんな良いことがある」という分かりやすいメリットの提示であり、要するに「利益誘導」だ。しかし、決して外国語に限った話ではないが、利益誘導は学習意欲を奪う結果になってしまうと内田樹は指摘する。

努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最少の学習努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです

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