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【自由】詩人が語る詩の読み方。「作者の言いたいこと」は無視。「分からないけど格好いい」で十分:『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子)

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国語の授業が大嫌いだった私をホッとさせてくれた、「好きに解釈すればいい」という詩人の主張

子どもの頃、国語の授業が嫌いで仕方なかった

私は小学生の頃から本を読んでいたし、本を読むことそのものは今でもとても好きです。その一方で、国語の授業に対しては、それこそ小学生ぐらいから嫌悪感しか抱けませんでした。

その最大の理由は、「言葉・文章・段落などの『解釈』を決めつけられること」です。子どもの頃から私は、この点に尋常ではなく苛立ちを覚えてしまいました。今でもその感覚は変わりません。

私が国語の授業から受け取ったメッセージは、以下の1点のみです。

「物語や評論の解釈」には「正解」が存在し、その「正解」に辿り着けない人間は「国語力がない」と判断される

なんて恐ろしい主張なのだろう、と感じさせられます。

もちろん世の中には、「書いた人間の意図通りに受け取ることが必要な文章」も存在するでしょう。分かりやすい例としては説明書や契約書などです。解釈の余地が存在すべきではないし、ある一定範囲内の受け取り方が「正解」だと断言できるでしょう。そのような「解釈に正解が存在する文章」もあると私はもちろん理解しています。

しかし当然ですが、そんな文章ばかりではありません。その最たる例が「小説」です。小説は、作者が何をどう考えて執筆したかに関係なく、読者が自由に解釈し受け取ればいい、と私は考えています。基本的には多くの人がこの意見に賛同してくれるのではないでしょうか。

しかし国語の授業では、小説であっても「解釈の正解」が存在し、その範囲内の受け取り方をしなければ「間違っている」という烙印を押されてしまいます。

マジで意味が分かりませんでした。

私は詳しく知りませんが、国語の授業や試験にもちゃんと何か教育的な目的があり、教師はその目的達成のために努力しているのだとは思います。しかし、本来的な目的がどうあれ、私が国語の授業から感じたような「正解の解釈以外は不正解」という感覚を抱いてしまう人はいるだろうし、そう感じれば感じるほど「読書」という行為から遠ざかってしまうでしょう。

しかしそれ以上に恐ろしいと感じるのは、「正解の解釈以外は不正解」と捉えることで、物事を多角的に見れなくなってしまうことです。今は「多様性」が重視される時代ですが、「多様性」を理解するためには、「世の中には、同じ物事でも様々な捉え方をする人がいる」という事実を知っている必要があります。しかし国語の授業は、そのような理解を遠ざけてしまうのではないか、と私は感じるのです。

私が学生だったのは20年以上も前のことであり、以前とは国語も変わっているかもしれません。しかし、「試験を行い、評価する」という大前提が存在する以上、根底の部分は大きく変わってはいないでしょう。

国語の授業が好きだったという方には申し訳ありませんが、私には「害」にしか感じられなかった国語の授業は、一刻も早く変わるべきだと感じます。

詩人である著者の主張の根幹

本書で著者はこんな風に書いています。

もともと、日本人は詩との出会いがよくないのだと思う。
大多数の人にとって、詩との出会いは国語教科書のなかだ。はじめての体験、あたらしい魅力、感じ取るべきことが身のまわりにみちあふれ、詩歌などゆっくり味わうひまのない年齢のうちに、強制的に「よいもの」「美しいもの」として詩をあたえられ、それは「読みとくべきもの」だと教えられる。そして、この行にはこういう技巧がつかってあって、それが作者のこういう感情を効果的に伝えている、などと解説される。それがおわれば理解度をテストされる。
こんな出会いで詩が好きになるわけないな、と思う。こどもの大好きなマンガだって、こんなこちこちのやり方でテクニックを解説され、「解釈」をさだめられ、学期末のテストで「作者の伝えたかったこと」を書かされたら、みんなうんざりするにちがいない。詩を読む時の心理的ハードルは、こうして高くなるのだ。
人がなにかを突然好きになり、その魅力にひきずりこまれるとき、その対象の「意味」や「価値」を考えたりはしないものである。意味などわからないまま、ただもう格好いい、かわいい、おもしろい、目がはなせない、と思うのがあたりまえである。
詩とはそのように出会ってほしい。

この文章を読んで私は、「同じようなことを考えている人がいて救われた」と感じました。

私は長いこと書店で働いていたこともあり、本を読む人と関わる機会が多くありました。しかし、そういう人たちにこの「国語の授業への嫌悪感」を伝えても、正直、あまり理解してもらえた経験がありません。私にとっては不思議で仕方ありませんでしたが、多くの人は私が感じたような「嫌悪感」を抱いていないようなのです。

だからこそ本書を読んで、ホッとさせられました。同じように考えている人がいる、しかも「詩人」という、まさに創作を行う側の人から発信されたということが、凄く嬉しかったのです。

本書は全体的に「詩」に関する内容ですが、著者のこのようなスタンスは決して「詩」だけに言及されるものではないと理解できるでしょう。音楽・マンガ・絵画などなんでもいいですが、「解釈の余地が多様に存在するもの」は世の中に溢れています。しかし一方で、国語の授業のような「解釈を制約する主張」はどんな領域においても存在するでしょう。

「◯◯を観てないなんて映画を語る資格ない」「あのマンガは聖書を下敷きにしてるから、聖書を理解しないと正しく評価できない」「あの曲はライブで映えるから、ライブ会場で聞かないと本当にはその良さが分からない」など、世の中には物事の評価に対してあれこれ言いたい人が山ほど存在します。しかし、はっきり言ってそんなことはどうでもいいはずです。

もちろん、批評家として仕事をするのであれば、そのような観点も必要だとは思います。ただ、普通の人が個人的に楽しむ分には、「好き!」「面白い!」「ワクワクする!」「なんか凄い!」という感覚の方が大事なはずです。

本書はそんな、当たり前だけど忘れがちなスタンスについて思い出させてくれる作品だと言えるでしょう。

教科書は、詩というものを、作者の感動や思想を伝達する媒体としか見ていないようだった。だから教室では、その詩に出てくるむずかしいことばを辞書でしらべ、修辞的な技巧を説明し、「この詩で作者が言いたかったこと」を言い当てることを目標とする。国語の授業においては、詩を読む人はいつも、作者のこころのなかを言い当て、それにじょうずに共感することを求められている。
そんなことが大事だとはどうしても思えなかった。あらかじめ作者のこころのなかに用意されていた考えを、決められた約束事にしたがって手際よく解読することなどに魅力はない。わたしはもっとスリルのある、もっとなまなましい、もっと人間的な詩をもとめていた。

本当に、私がずっと感じていたことを問題視してくれる作品で、嬉しくなってしまいました。

「作者の伝えたいこと」を「解釈」する必要なんてない

現代詩は、世の中にすでに存在していてみんながよく知っている「もの」や「こと」を、わざわざことば数をふやし、凝った言い方で表現しようとするものではない。まして人生訓をふくんだ寓話のようなものではない。
そのように詩を読むことは、詩のもっている力のほとんどの部分を使わず捨ててしまうようなもったいない読み方だと思った。

この文章は、「解釈」という行為の矛盾について言及しているように私には感じられます。そもそも文章を「解釈する」必要などあるのでしょうか?

契約書や説明書などの文章は、基本的には誰かがさらなる解釈をしてあげる必要」はありません。もちろん、契約書や説明書の文章は堅苦しい言葉で書いてあることが多いので、補助の説明が必要になるかもしれませんが、それは「解釈」ではないでしょう。契約書などは、解釈の余地が残っている方が誤りであり、だからこそ「解釈」という行為は不要と言います。

一方詩はどうでしょうか? 恐らく一般的には、「普通に読んでもよく分からないから『解釈』が必要」と考えられていると思います。そしてそのような考えのもと、「作者の言いたいこと」を読み解き、その詩がどんな主張をしているのかを”正しく”捉えることが大事だ、と国語の授業で示されるわけです。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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