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【?】現代思想「<友情>の現在」を読んで、友達・恋愛・好き・好意などへのモヤモヤを改めて考えた

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「現代思想 <友情>の現在」は、私が昔から抱いていた男女間のモヤモヤについて、情報の整理と深い指摘をしてくれる特集だった

「現代思想」の本特集を読もうと思った理由と、私の友人の話

私には、6年前ぐらいに知り合った、「人生で一番仲良くなった」と感じている友人がいる。そしてその友人から、「現代思想 <友情>の現在」の写真と共に「めっちゃおもしろい……刺さりまくり」というLINEが届いたのが、本書を読もうと思った直接的な理由だ。

さて、友人からのこのLINEには、「私が読んで良いと感じた」というだけではなく、明らかに「犀川さんにも絶対に刺さるはず」という意味も含まれている。というのも、本書に書かれているようなことを普段からよく話しているからだ。我々にとっての「日常会話」とも言える内容なのである。また、お互いにかなり感覚が共通してもいるので、先程のLINEには「犀川さんも読んでみたら?」という意味が込められていると判断できるというわけだ。

「何を当たり前のことを書いているんだ」と感じるかもしれないが、そんな話をしているのには理由がある。というのもその友人は「12歳年下の女性」だからだ。この記事を書いている時点で私が41歳、彼女が29歳である。一般的に、「そんな年齢差のある異性間には『友人関係』は成立しない」と判断されるだろう。まあ、それは当然だと思う。そもそも人によっては「男女の友情は成立しない」と考えているだろうし、また、92歳と80歳みたいな関係なら12歳差など大した問題ではないだろうが、41歳と29歳の場合には普通、まともな関係性が成り立たないと思われて当然だと自分でも理解している。

では、ここで想起されているだろう「困難さ」とは、一体どのようなものなのだろうか? つまり、「何故『41歳と29歳の異性間には友人関係が成り立たない』と思われるのか」ということだ。この点については、少し意味合いは異なるのだが、本作中のこんな文章によっても説明出来るのではないかと思う。

第一に、アセクシュアルにとっての友情が恋愛と地続きの性的関係として誤読されてしまうケースである。例えば、アセクシュアルの男性が女性と恋愛的でも性的でもない友人関係を築こうとする際、女性への性的欲望を当然のこととする男性のセクシュアリティに対するステレオタイプによって、女性たちに警戒されたり、そうした意向を疑われたりすることがある(Cupta 2019:1206)。他方でアセクシュアル女性の場合、男性に性的魅力を与えるという伝統的な女らしさの期待のもとで、特定の服装やふるまいが一方的に性的な文脈に回収されて理解されてしまう(Cuthbert 2019:855; Cupta 2019:1206-1207)。

佐川魅恵「親密さの境界を問い直す」

唐突に「アセクシュアル」という単語が出てくるが(ちなみに私は「アセクシャル」という言い方に馴染んでいるので、以下、私が書く文章中では「アセクシャル」と表記する)、馴染みがないという方も多いだろう。これは「異性愛」「同性愛」などの「セクシャリティ」の一種であり、「他者に対して恋愛感情・性的欲求を抱かない」というタイプを指している。この概念を私の記事で初めて知ったという方には信じがたい話に思えるかもしれない。ただ、割と昔から知られていた概念のようで、私は15年ぐらい前に、当時働いていた職場の同僚から「私はアセクシャルなんです」と打ち明けられた経験がある。

さて、先の引用は「アセクシャルが異性の友人を作る際の困難さ」について記したものであるが、これは広く「異性の友人を作る際の困難さ」と読み替えることもできるだろう。そして私はここ10年ぐらい、こういう「困難さ」を日々実感しながらどうにか「異性の友人」を作ろうと頑張ってきたし、それなりには上手くいっていると自分では思っているのである。

ちなみにだが、私は決して「アセクシャル」ではない。少なくとも、私はそう自覚している。つまり、「異性のことが恋愛的に好きだと感じるし、性的欲求もある」というわけだ。ただ私はあるタイミングで、「異性との恋愛はやめて友人になろう」と決めた。「恋愛という関係性」が圧倒的に向いていないと気付いたからである。世の中には「猫好きなのに猫アレルギー」みたいな人がいるが、私もそういう感じなのだと思う。恋愛に対しての感情や欲は無くはないが、あまりにも向いていないと自覚したため、「恋愛関係にしない方が自分にとってプラスなのではないか」と考えるようになったというわけだ。

そして先述した友人は、そんなマインドに切り替えてから出会った友人であり、その中でも一番と言っていいぐらい仲良くなれたと私は思っている。彼女もまた、「『恋愛したい』と思いつつ、生理的に無理」という、私とはタイプは異なるものの「恋愛」に対して困難さを抱えている人で、そんなこともあり、本書で書かれているようなテーマについてよく話しているというわけだ。

ちなみに、この記事(正確には「この記事の元になった文章」)はその友人にも読んでもらっている。「この記事の元になった文章」も、内容的にはこの記事とほぼ同じなので、冒頭の記述もほとんど変わらない。普通なら、「一番仲良くなったと思っている」みたいに言及しているその本人にそんな文章を読まれるのは恥ずかしいし、「ちょっと変な感じになるかも」みたいな懸念が生まれたりもするだろう。私も、普段ならそんな風に考えると思うが、「彼女ならまあ大丈夫だろう」と判断している。そういう意味でも、なかなか特殊な形で仲良くなれた人だなと感じるし、それぐらい感覚の合う人と出会えて良かったなとも思う。

「友達」が「残余カテゴリー」であることの良さ

それでは内容について言及していくことにしよう。

本作は様々な人物による「友情」をテーマにした文章が収録された作品だ。主な執筆者は「学者・研究者」である。そのため、すべての文章が面白かったなんてことはない。特に後半に行けば行くほど、内容的に高度だったり、テーマ的に興味が持てなかったりするものが多くなっていった。ただそれはそれとして、本書に目を通すことで、「世の中には色んな研究テーマが存在するんだなぁ」と実感出来ることは興味深いポイントだと思う。「建設業に従事する沖縄のヤンキー的人間関係」「バンドマンの友人関係」「ママ友のLINE分析」「合唱曲と卒業ソングを用いた友情分析」「ホストクラブの人間関係」などなど様々な研究が存在するのである。中には「オッペンハイマーと湯川秀樹の初邂逅」についての文章もあり、その幅の広さには驚かされた。

その中でも個人的に最も共感できたのが、本書冒頭に収録されている中村香住と西井開の対談「すべてを『友情』と呼ぶ前に」である。中村香住はレズビアン、そして西井開は「『非モテ研究会』の発足人」という立ち位置で対談を行っており、それぞれジェンダー的な観点から社会学の研究を行っているそうだ。先述した友人も、やはりこの冒頭の対談が一番良かったと言っていた。

さて、この対談の中だけでも様々なことに言及されているのだが、まずは対談冒頭のこんな文章から引用してみたい。

(前略)恋人・家族・仕事上の関係、地縁、血縁のいずれにも当てはまらない人間関係が、すべて「友情」や「友達」という言葉に押し込められていることに、小さい頃から違和感を覚えてきました。私はグループで仲良くすることもたまにはありますが、基本的には一対一で人との関係性を取り結ぶタイプなので、それぞれ異なるはずの関係がすべて同じ「友達」という言葉で説明されなくてはならないこと、いわば「残余カテゴリー」としてこの言葉が使われることに疑問を抱いてきました。(中村香住)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

これは「人間関係的なものに違和感を覚えるようになったきっかけ」として語られているもので、その主張には私も概ね賛同できる。私も「基本的には一対一で人との関係性を取り結ぶタイプ」であり、大人数の集まりなどにはあまり適性がない。また、「『じゃない関係性』が『友達』と呼ばれている」みたいに思う感覚も同じである。

しかし1点だけ違うところがあった。中村香住は「『友達が残余カテゴリーであること』に不満を抱いている」わけだが、私はむしろ「『友達が残余カテゴリーであること』に良さを感じている」のである。

さて、私のその感覚を説明するために、本書中の別の文章からこんな引用をしてみよう。

恋って再生産に次ぐ再生産で、もはや恋をしたことがなくても型みたいなのがあって、とりあえず作り手も受け手もそれをどれだけ上手にその型のまま演舞できるかという、武道めいたものを感じる。恋愛武道が悪いわけじゃないけど、歌を聴いて「これは詞ではなく、型だよなぁ」と思ってしまうことも、正直ないわけじゃない。その模倣しやすい友情歌詞の「型」がまだ少ないから、まだまだ足りないのかなぁと思ったり。これは鶏が先か卵が先かみたいなもんだけど。(児玉雨子)

児玉雨子+ゆっきゅん「ラブソングのその先へ」

この文章は、作詞家であるらしい2人がやり取りした往復書簡からの抜粋である。児玉雨子は「恋愛ソング」が多い理由について、「『恋愛』には『型』が存在するから供給が多いのではないか」と分析しており、それと比較する形で、「『友情』には『型』があまりないから『友情ソング』の供給が少ないのではないか」と指摘しているのだ。

そして、この作詞家2人がそう言及しているわけではないが、「『友情』に『型』が少ない理由」はやはり、「『友達』が『残余カテゴリー』だから」だろうと思う。「じゃない関係性」をすべて「友達」と呼んでいるからこそ、「友達」には分かりやすい「型」が存在しないというわけだ。

そして私には、「型が存在しないこと」が「友達」の最大の良さに感じられている。そのため、「友達が残余カテゴリーであること」をポジティブに捉えられるのだ。

「残余カテゴリー」ではないからこそ、「恋愛」には向いていなかった

さて翻って、私が「恋愛に向いていない」と考えるようになった理由も、この「残余カテゴリー」という発想で説明できるだろう。「恋愛」は「残余カテゴリー」ではないので「型」がたくさん存在する。そしてそれ故に、私は「恋愛」に向いていないというわけだ。

「恋愛」になるとどうしても、「こういう時にはこういうことを『した方がいい』『しなければならない』『すべきである』」みたいな話が多くなる。誕生日やら記念日やらなんやらと、そういう話は色々とあるだろう。しかも難しいのは、「そうしなければ、『相手のことが好きではない』というメッセージとして受け取られてしまい得る」という点である。私にはどうにもこの辺りの感覚が馴染めなかった。

例えば、「プレゼントをあげる」という行為を例に挙げてみよう。私は個人的に、「『あげたい』と思った時にあげる」のが一番良いんじゃないかと思っている。むしろ、「誕生日や記念日じゃない日に、『似合うと思ったから』みたいな理由であげるのがいいんじゃないか」とさえ考えているのだ。しかし「恋愛」においてはどうしても、「誕生日や記念日にプレゼントをあげる”べき”」みたいな雰囲気が感じられてしまう。私は、そういう「強制されている雰囲気」がどうにも好きになれないのだ。「したいからしている」のではなく、「しなければならないからしている」みたいな感覚に囚われてしまうので、いつも嫌だなと思っていた。まさに、「『型』を演じている」みたいな意識を強く持たされてしまうというわけだ。

一方、「友達」の場合にはそういう「型」は少ない。あるとしても、「困った時には助ける」ぐらいじゃないだろうか。もちろん人によっては、「友達なんだから◯◯してよ」みたいな考えを持っていたりもするとは思うが、今の世の中ではそういう風潮はさほど強くないと考えている。つまり、「『友達』という関係性を継続させるために“しなければならないこと”はかなり少ない」という印象を持っているのだ。そしてだからこそ私は、「友達が残余カテゴリーであること」が心地よく感じられるのである。

しかし「友達」も、状況次第では「『型』の多い関係性」になってしまう。この点については対談中で次のように指摘されていた。

(前略)境界画定の力学が働く集団では構成員の近密度は上がるけれど、誰もがそこからはじき出されないように互いに承認を求め続けなければならない。なので承認をめぐるしんどさを抱える人が安心して過ごすには、境界を曖昧にしたような集まりや関係性のあり方が模索されるべきだと思います。しかし、欠乏感を埋めるために、さらなる承認を求め、強く結びつきたいと思えば思うほど、境界線が太く濃く引かれてしまう悪循環があります。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

先程言及した通り、私は「基本的には一対一で人との関係性を取り結ぶタイプ」なので、上述の「友達グループ」のような集団に取り込まれることは今は無い。ただ、学生時代はやはりそのような関係性の中にいざるを得なかったし、だから「『その集団の構成員として相応しい』という承認を常に得続けなければその集団にはいられない」みたいな感覚も理解できる。そして、まさにこれは「型」の存在を示唆していると言っていいと思う。「友達」の場合も、集団になると「型」が形成され、「残余カテゴリー」ではなくなってしまうというわけだ。

「非モテ男性」が抱える困難さ

さて、この対談の中で西井開は、「男性が抱えている困難さ」についての言語化を試みている。それは主に、「恋愛関係を結べない非モテ男性」に関する言及であり、先程の「友達グループ」についての指摘もそのような流れの中で出てきていた。対談の中では、先述したような「友達グループ」のことを「同質性が高い集団」と呼んでおり、これまで話を聞いてきた「恋愛関係を結べない非モテ男性」たちは、「そういう『同質性の高い集団』に留まらざるを得なかった」みたいな感覚を抱いているのだという。その理由についてはいくつか理由が挙げられていた。

まず異性愛主義の問題があります。小学校低学年ぐらいまでは「男女の友情」という関係が成り立っているのに、高学年くらいになると周囲から「お前何あいつとイチャイチャしてるん」とからかわれたり、制裁を受けることで、異性との友人関係が切断されていく。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

加えて男性同士の一対一という関係も切断されていきます。男子が二人で仲良くしていると、ホモフィビア的制裁を受けてしまうのです。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

クラスメイト、そして教師からも「お前らできているのか」とからかわれた経験があると語る男性は少なくありません。そうして一対一での関係も作りづらくなると、自分が所属するのは男性集団しかないと思い込む/思い込まされていく。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

このような文章を読んで私も、「確かに学生時代はそういう状況に置かれていたような気がする」と思い出した。もちろん私は、そんな風潮に違和感を覚えていた側の人間である。

私は子どもの頃から、どうも同性との相性がとても悪かった。高校生ぐらいまで、「人間が苦手なんだ」と思っていたぐらいである。しかしその後異性との関わりが増えてきたことで、「人間」ではなく「同性」が苦手なだけだと気付けるようになった。そしてそんなこともあって私は、「異性と友人になる」という方向に進もうと考えるようになったのだ。

だから私は、何となく上手いことするっと、そういう「同質性の高い同性の集団」から抜けられたし、というかそれは単に「はみ出していただけ」とも言えるわけだが、まあ結果オーライという感じである。もしも「同質性の高い同性の集団」に囚われたままだったら、今も「人間が苦手」という感覚のまま生き続けていたのではないかと思う。

さて、別の項でも似たような言及がなされていたので紹介しておこう。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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