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献立の本
なぜか、料理家ではない仕事人の献立が知りたくて仕方ない。
ノートに書かれた日記と献立。
凛として仕事をしている女性の姿と、家庭人としての顔。
女性が家にいることが当たり前とされていた時代の日々の生活。
でも私は、「女優」と「家事」のどちらをとるべきか、などと悩んだことはありません。この二つは並べて考えられるものじゃないと思っているからです。私の場合、女優をやめることがあっても、暮らしをやめることはないからです。
「暮らしはやめられない」沢村貞子
お料理するってことは、プロデューサーも演出家も俳優もひとりで兼ねるようなものだから、なんと言っても面白いのよ。
「あとかたづけ」沢村貞子
かっこいいなあ、と思ってしまう。
自分も働きながら、子育てしながら、介護や家事をして料理をしてきて・・・。
つい最近なのに、今の若いご夫婦とは違って全部引き受けていたわけだけれど、
こんな風に腹を括れたことがない。
女優さんだから、ということではなくて、沢村貞子さんならではの偉ぶることなく、押しつけがましくもない「気持ちよさ」なんだろう。
料理は楽しいものなのに、時間に追われておざなりにしては、毎晩、もっとこうしたかった・・・と後悔しながら寝て、起きるとお弁当が待っていて、こちらも寝ぼけながら作るという・・・なんとも味気ない自分の日々だ。
食事は人と人を繋ぐ大切なものだ、というのはわかっているのに。
毎日毎日の献立を書き綴るという、そのひたむきさや丁寧な生活は憧れなのだ。
茨木のり子には、詩人としての顔と、家庭人としての顔がある。
昭和二十四年(1949)、二十三歳で結婚してから
五十代にいたるまでの日記に目を通すと、
創作に励みながら、毎日の生活にていねいに気を配る姿が、
簡潔な言葉のなかから浮かび上がってくる。
生活の中心は家事であり、ご飯の支度である。
その日の献立を考え、買いものをして料理する。
そして、茨木のり子の詩は、そうした日々の営みが結晶したものである、と「茨木のり子の献立帖」に書かれている。
和風のもの、中華、韓国風、洋風・・・のレシピ。
美味しそうな家庭料理が並んでいる。
手書きのレシピカードも添えられている。
これは、単に私のことだが、何かで心が波立つ時に何かを刻んだり、炒めたり、
そうしているうちに、気持ちが落ち着いてくることがある。
料理をすることで気持ちを落ち着かせるというのか。
料理が気持ちを落ち着かせてくれるというのか。
楽しい料理がほとんどだけれど、ぷんぷんしながらの料理もあり、涙しながらの料理もあり。
だから、いつも同じ味にはならない。
でも、それが家庭料理かな、と自分を甘やかしている。
そして、諦めている自分を反省しながら、
茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」を読む。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
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