見出し画像

遍路道を歩いて 〜室戸岬の空と海〜

死者にしてあげられることはあるのだろうか。

ほとんどない。それが私を絶望させる。
でも腐ってはいけない。生きていかないと。
小さな善と、小さなしあわせをかき集めて、命果てるまで生きていかないと。これが自死遺族に課せられた、重い重い課題だ。

昨年から、四国八十八ヶ所の霊場を歩いて巡るお遍路をしている。始めた頃は、一日に7キロぐらい歩くだけでしんどかった。ところが無心になって歩いているうちに、むしろ何も考えずにひたすら歩く方が、悩んでばかりいるより楽だと思うようになり、今では平坦な道なら一日35キロぐらい歩けるようになった。

これまで、計225キロを歩き、24のお寺にお詣りした。寺ではひたすら読経して、るりの魂の安寧を、阿弥陀如来とか、薬師如来とか、観世音菩薩とか、いろいろな仏様にお願いする。長々と、心を込めて、お願いする。

るりが私のこの姿を見たら、こう言うんじゃないかな。「もう、ママはいつでもやりすぎなんだから。お詣りが長いんだよー!」私の家族は、るりがあの世で仏様たちに会ったら、「ああ、るりさんね、この前お母さんに会いましたよ。なんだかずいぶん長々とあなたをよろしくって言われましたよ」と言われてるんじゃないかと、笑う。

先日、室戸岬までの道のりを歩いているときのことだった。この区間は、前のお寺から次のお寺までの距離が75キロと長く、なかなか次の寺に到着しない中、海沿いの単調な国道を延々と歩き続けなければならない難所だ。

店はおろか、民家も、自販機すらない道をひたすら歩く。アスファルトの硬さが脚に響く。海風が冷たい。そんなさみしい道を歩いているとき、ふと思った。

これまでずっと、るりの供養のために歩いていると思ってきた。けれど、ひょっとして、自分のために歩いているのではないか、と。

娘に自死された母として、自分に対する信頼も自信も完全に失った。娘を殺した愚か者。罪人。お前が悪いからるりが死んだ。そんなことばかり考え、自責と後悔が朝から晩まで続く。重油が羽についた鳥のように、罪と後悔が黒いタールのように心にべっとりと貼り付いて起き上がれない。もとより、るりを置いていきたくないから、るりが亡くなったあの夏から私は時計の針すら進めたくない。時を止めて、逆の死神のように、あの子をあの世からこの世に引きずりこんで取り戻そうとしてきた。そんなこと、できないのに。

私は疲れていた。許されない罪を一生背負い、答えのない問いと懺悔を繰り返し、自分がまだ生きなければならない人生の長さを思って。

Life goes on. というけど、本当にそうなのだ。人生は、何があっても進んでいく。前に進まないことはできないのだ。なのに、大きなダムの水勢を小さなゴム栓で止めるかのごとく、私は非力な己の全身でもって、時の流れを止めて、前に進むことを拒否しようとしてきた。

長い長い遍路道を歩きながら浮かんできた言葉は、「るり、ママは歩いているよ。」だった。

次のお寺まで、75km。遠いけれど、一歩一歩、前に進んでいる。歩くことと、人生を進むことが重なって見えた。私は歩いている。私は生きている。私は遍路道を、自分の人生を再び歩み始めるために歩いているのかもしれない、そう思った。

三日間歩き続けて室戸岬にある最御崎寺に到着した時には、もう脚が痛くて痛くてボロボロだった。岬の突端にある灯台から、広い広い、空と海を見たら不意に涙が出てきた。

「るり、ママは歩いているよ」と、またそっと、お空のるりに話しかけた。

空海はここの空と海を見て悟りを開き、空海という名前をつけたという。室戸の空と海は、私にも大きな気づきを与えてくれた。これからは、るりの安寧とともに、自分の生き直しも願って歩こうと思う。



いいなと思ったら応援しよう!