柔らかく優しい形
ひとを、
自分のものさしでジャッジしない。
常々気をつけていること。
目に見えているものよりも、
目に見えていないもののほうが、遥かに多いと思うから。
精神的にタフなひともいれば
些細なことで、くじけやすい人もいる。
明るくポジティブな思考が得意な人もいるし
慎重にひとつひとつ不安を潰していかないと前に進めない人もいる。
どれが良い悪いではなく、それぞれがそれぞれに在る。
得意なもの、苦手なもの
楽しさやストレスを感じるタイミング
精神的な強さ、コンプレックス、
思想、趣味、宗教…
どれだけ気の合う友人だって、
愛し合っている恋人や夫婦だって、
親、きょうだいだって、
自分の体から産まれてきた我が子だって。
当たり前に、一人として同じ人間はいない。
✡
わたしは長い間神経科に通院した経験があるが、待合室で出会うたくさんの(待合室はいつもぎゅうぎゅうだった)"患者"は、街ですれ違っても、例えば親しくなって話をしても、何か問題を抱えているとはすぐにはわからないひとたちがほとんどだった。実際わたしも、ごく親しい友人にしか自分の病名を打ち明けることはなかった。(負い目もあった。)
"普通"を振る舞いながら
なぜわたしはこんなに苦しまなければならないんだろう。なぜこんなに生き辛いんだろう。まわりの人たちのように上手く生きれないんだろう。と心の中では常に葛藤していた。
その時は
この息苦しさはこのせいだったのかと、自分に付けられた病名に安堵したりもしたけれど
妊娠を機に自主的に通院をやめ、内服もやめ早数年、思うようになったことは、
自分の抱える問題は、確かに一時的に病院の助けが必要ではあったかもしれないが、
問題や苦しみを抱えやすいのは、「わたし」という人間の特性でもあるんだな。ということ。これを認めるまでにだいぶ時間がかかったが、自分で自分を受け入れることが大切なんだと、やっと納得できるようになった。
他人と同じように出来ない部分を過剰に問題視せず、これもわたしの一部。と受け止め、抱きとめることができてからは、ほんの少しではあるが、楽になったように思う。
(自己判断だが、わたしにはHSPの要素が強く当てはまる気がしている。)
そして、こんな自分でもありのまままるごと愛してくれる人がいる。
という気づきと、実感も、自信と安定につながった。
重ねて、幼少期から無意識に積み重ねた悲しみや寂しさを認め、少しずつ自分で慰められたのも大きかった。
そうやって「自分を知る」作業をしていくうちに
世の中には、色んな人がいるんだと、ハッとする。
自分だけが苦しいわけじゃなかった。
自分だけが他人より劣っているわけでもない。
感じ方や物の捉え方はひとそれぞれで、
同じようにできないからと自分を卑下しなくていい。できない他人を低く評価する意味もない。
生きることをもっと「好き」になれるように
自由で柔軟で優しくありたい。
子育てにおいても、
あなたの存在そのものが大切なんだよ。
どんなあなたも大好きだよ。
そしてみんなが誰かの大切なひとなんだよ。
ということだけは、しっかり伝えていきたいと思っている。
もちろん、自分への課題はそれはそれとして
改善できるように努力していかなければならないと思っているし、そこにぶちあたると軽く2.3日は凹むけれど。
色んな人がいるから世界は深みを増すのだから、偏見や差別から解放されて、自分の中の小さな常識にとらわれずに、いたいなと思う。
最後に
大好きな詩を。
私と小鳥と鈴と
金子みすゞ
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
深夜に書くと思考深く潜れてしまいます。
そのまま保存していて、ずっと下書きだったものを投稿しました。
写真は、母が大事にとっておいてくれた、
遥か昔、わたしや妹が入学式に履いた靴。
娘にと出してくれたけど、大きかった…。
まだ形も綺麗なまま、大事に保管しておいてくれて感謝でいっぱいだ。
いつか、履かせたいな*· と思っている。