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あ、知ってる感情だ | 『O脚の膝』 今橋愛
やっぱり、好きだと思うものは脊髄反射的に好きだと思うのだな。
うん。
と、つぶごこちナタデココ白ぶどう(果汁20%)を飲みながら得心する。
あー、もちろん、つぶごこちナタデココ白ぶどう(果汁20%)が思いのほか美味しかったのもあるのですが、この今橋愛さんの『O脚の膝』が、数ページいくつかの歌を詠んでみてすぐに、はいっ、もう好き、ってなって。
それでしみじみ、冒頭のように思ったのでした。
そしてまた、これは私が知ってる感情にどことなく似ている、心当たりがある、とも思ったりしたのです。
短歌なんだけど、詩のようでもあり。
おでこからわたしだけのひかりでてると思わなきゃ
ここでやっていけない
かどっこのほこりをふけばすりきれそう
たいせつすぎたわんぴぃすでふく
なぜここにいるのかわからなくなってしまったよるです
てれびをみます
自分が大切にしていることに、とても忠実なんだな。
違和感を、違和感のままにしない。
そして、どこか客観的でもある。
そう、とても冷静な感じがするんですよね。
冷静に、感情の動きを観察している。
この歌集では『長い手と足と髪の毛と意志的なことばをもった おんな』という表現をつかった歌がいくつか詠まれています。
この「おんな」は、自分自身のことなのか、それとも別の特定の誰かなのか、あるいは「おんな」という生き物としての象徴なのか。
もしくは、そのすべて。
この「おんな」のことを、好きでもあるし嫌いでもある。
離れることができない厄介な存在でもあり、よく知った存在でもある「おんな」。
そしてこんな歌があります。
たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう
これはひょっとしたら、とても切実な思いなのかもしれない。
もて余したり、誇らしかったり、悲しかったり、喜びを感じたり。
誰もが自分の中にいくつもの自分がいて、その時々に顔を出す自分に時に驚いたりすることもあるけれど、ぐだぐだしたりしつつ、それも丸ごと自分だと、どこかで腹をくくる瞬間があるように思います。
で、それをまた生きているあいだぐるぐると性懲りもなく繰り返す。
そんな時、自分以外の存在に救われる、ということは多々ある。
そして、いったりきたりしながら、自分にとってはやっぱりこれが大切、みたいな確信が生まれたりするのだと思います。
生きているあいだたたかいつづけたら?
こころにうそをつきとおさない
共感しかない。
今橋愛『現代短歌クラシックス07 歌集 O脚の膝』書肆侃侃房(2021)